偶然の発見
佐野は膝を抱えたまま、冷え切った床に座り込んでいた。梅雨の湿気が肌にまとわりつき、制服の生地が背中に張り付く不快感が、彼女の心の澱みを一層深くする。窓を叩きつける雨音は、絶え間なく続く呪いの声のようにも聞こえ、佐野は全身から力が抜けていくのを感じた。完璧なはずの世界が、小夜の死を境に、まるでカビが生えたかのように陰鬱な色に染まっていく。その変質が、何よりも彼女を苛んだ。
どれくらいそうしていただろうか。やがて、凍えるような恐怖がわずかに和らぎ、代わりにじりじりとした苛立ちが頭をもたげ始めた。このままではいけない。この淀んだ空気に、この終わりのない梅雨の季節に、自分も飲み込まれてしまう。そう思ったとき、佐野の視線が、ふと教室の隅に置かれたゴミ箱に向けられた。誰も気にも留めない、ありふれた、しかし今となっては不気味にさえ感じられる存在。その無関心な存在に、不意に強烈な引力を感じた。
佐野は、重い体をゆっくりと持ち上げた。膝の関節がぎしりと音を立てる。まるで体が鉛でできているかのように重く、一歩を踏み出すたびに足元がふらついた。教室の空気は相変わらず重く、湿度を含んだ生温い膜が、肌にまとわりつく。取り巻きの女子たちは、まだ操り人形のようにうつろな顔で座っている。誰も佐野に気づかない。あるいは、気づかないふりをしているのかもしれない。その無関心が、かえって佐野の心を苛んだ。孤立無援の感覚が、彼女の背筋を這い上がった。
ゴミ箱は、教室の片隅で、その口を大きく開けていた。中には、無造作に丸められたプリントや、食べ残されたパンの袋、くしゃくしゃになったティッシュ、そして腐りかけた果物の皮までが投げ込まれ、雑多な悪臭が鼻腔を刺激する。日頃なら目を向けることすらない、雑然とした汚らしい光景だ。しかし、今の佐野には、そのゴミの山の中に、何かの答えが隠されているような気がした。小夜の呪い。楓の異常な行動。その全てを繋ぐ何かが。目に見えない糸が、その汚れた箱の中へと伸びているような錯覚に陥った。
佐野は、警戒する獲物を追うようにゆっくりとゴミ箱に近づいた。鼻腔を刺激する生ごみと紙くずの混じった匂いが、胃の腑のあたりをむかつかせる。嫌悪感が込み上げてくるが、それ以上に、得体の知れない好奇心と、もうこれ以上この閉塞感に耐えられないという焦燥感が佐野を突き動かした。彼女は背筋を伸ばし、ゴミ箱の中を覗き込んだ。薄暗い教室の光が、ゴミの山に怪しい影を落としている。
汚れた紙の塊の中に、不自然に引き裂かれた便箋の破片がいくつも目に留まった。本来真っ白だったはずの紙は、ゴミで汚れてところどころ変色している。その上には、細く繊細な、しかしどこか神経質そうな文字の断片が途切れ途切れに散らばっていた。他のゴミとは明らかに異質な雰囲気を放っていた。まるで、誰かが感情のままに引き裂き、二度と誰にも読ませるまいとばかりに、ゴミの奥底に押し込めようとしたかのように。
「何、これ……」
佐野は小さく呟き、長い爪を立てた指先を伸ばした。躊躇いが一瞬、心をよぎる。こんな汚いものに触れていいのか。触れてしまえば、小夜の呪いが自分にも移るのではないか。見えない毒素が、その紙から染み出してくるような嫌悪感が背中を這い上がった。だが、その逡巡は、次の瞬間には好奇心の炎に焼き尽くされた。この状況を打破できる唯一の手がかりかもしれない。目の前の紙切れが、抗いがたい魅力を放っているように感じられた。
佐野は、汚れたゴミの中に手を突っ込んだ。ひんやりとした不快な感触が指先に伝わる。彼女は、汚物まみれの紙くずの中から、明らかに便箋だったと思われる白い紙の破片をいくつか見つけ、慎重に掴み出した。ゴミ箱の縁に広げてみると、それらは不規則な形に引き裂かれた複数の断片だった。文字が書かれた面を上にして並べると、いくつか見覚えのある漢字が目に入った。その中に、ひときわ目を引く文字の羅列があった。
「……雛川」
佐野の心臓が、ドクンと大きく鳴った。まさか。こんなところに、小夜の名前が。誰が、なぜ、小夜の名前が書かれた手紙を破り捨てたのか。この破片が、小夜の、あるいは楓の、それとも全く別の誰かの。一体、誰が、何を書いて、こんなところに捨てたというのか。手紙の縁は、雨のせいで少し湿っていた。ひんやりとした感触が、佐野の指先から腕へと伝わり、体の内側に冷たい戦慄が走った。紙から、微かにカビとインクの匂いがした。
周囲には、やはり誰もいない。窓の外では雨足が強まり、ごうごうと音を立てていた。その雨音が、佐野の心臓の鼓動を一層大きく響かせる。彼女は、手紙の破片をまるで貴重な宝物であるかのように、両手で挟み込んだ。震える指先で、丁寧に。これらの破片を繋ぎ合わせることが、この得体の知れない恐怖から逃れる唯一の道のように思われた。
佐野は、再び自分の席に戻り、手紙の破片をそっと机の上に広げた。しわくちゃになった便箋の断片は、少し埃っぽい匂いがした。照明の薄暗い教室で、手紙の文字はさらに小さく、不鮮明に見える。佐野は、目の前のパズルを解き明かすように、一枚一枚の破片を並べ始めた。指先が震え、なかなか上手く配置できない。しかし、その焦燥感以上に、読まなければならないという強迫観念が彼女を駆り立てた。
破片と破片が繋がり、意味を成す文字が浮かび上がるたびに、佐野の胸は高鳴った。しかし、完全に繋がることはなく、いくつもの空白が生まれた。失われた部分に、何が書かれていたのか。その想像が、新たな恐怖を呼び起こす。それでも佐野は、目を凝らし、その一文字一文字を追おうとした。脳裏で、読まなければならないという焦燥感が強く鳴り響いていた。
まるで呪文を解き明かすかのように、彼女は断片的な手紙を読み始めた。最初はぎこちなく、意味の断片を拾い上げるように。途切れた文字、欠けた単語の向こうに、隠された真実が透けて見えるような気がした。しかし、やがて、その内容に抗いがたく引き込まれていく。便箋に書かれた文字は、確かに誰かの感情と秘密を宿しているかのようだった。その文字の配列が、まるで毒液のように佐野の意識にゆっくりと侵食してくる。
「……っ」
読み進めるうちに、佐野の顔色はみるみるうちに青ざめていった。呼吸が浅くなり、胸の奥から冷たい塊がせり上がってくるような感覚に襲われる。手紙の内容は、彼女の予想をはるかに超えるものだった。それは、この教室を満たす陰鬱な空気、小夜の呪い、そして楓の異常な行動の全てを説明し得る、恐ろしい真実を秘めているように思えた。文字の一つ一つが、まるで生きて、佐野の心を抉るかのようだった。
佐野の指先は、震えていた。手紙の端を握りしめる力が強くなり、便箋の紙がくしゃりと音を立てる。雨音はもはや遠く、佐野の耳には、ただ自分の激しい鼓動だけが響いていた。手紙に書かれた文字が、まるで蠢く虫のように見え、彼女の心の奥底に、得体の知れない恐怖と絶望を這わせていく。全身の毛が逆立つような悪寒が走った。
全てが、繋がっていく。楓の不審な態度。クラス全体の沈鬱な空気。そして、雛川小夜の死。この手紙が、その全てを繋ぎ合わせるピースなのだとしたら、そのパズルの完成図は、どれほど恐ろしいものなのだろうか。佐野の脳裏には、小夜の冷たい顔と、怯える楓の背中が交互にちらつき、さらなる恐怖を煽った。彼女は、手紙の続きを読み進めることを恐れながらも、その手から手紙を離すことができなかった。その一枚の紙切れが、今や佐野の全てを支配しているかのようだった。
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