捨てられた真実

どこにも逃げ場はないのだと、楓はぼんやりと思った。その重苦しい思考が、鉛のように全身を縛り付ける。


梅雨の湿気が肌にまとわりつき、生ぬるい空気は肺の奥にまで淀みとなって沈んでいく。呼吸するたびに、体の中に小夜の呪いが充満していくような、忌まわしい錯覚に襲われた。この教室、この時間、この空気、全てが小夜の存在によって変質している。


視線は、机の中へと吸い寄せられる。教室の使い古された机。その奥に押し込まれた手紙が、まるで小夜の墓標のように思えた。


触れることすら忌まわしい。しかし、そこに存在し続ける限り、楓は小夜の歪んだ想いから逃れられない。手紙が、彼女の精神を蝕む病原菌のように、そこにじっと潜んでいる。


指先が冷たくなり、微かに震える。恐怖、嫌悪、そして、この全てを終わらせたいという切実な願いが、胸の内でごちゃ混ぜになって渦巻いていた。


意を決し、楓は机の中に手をかけた。冷たい金属の感触が、悪寒を呼び起こす。指の腹に刻まれた細かな傷が、ひりりと痛んだ。


白い塊が見える。数度折り畳まれ、わずかに膨らんだその手紙は、想像以上に存在感を主張していた。蛍光灯の薄い光が、その白い紙片に不気味な影を落としている。


まるで毒に侵されたかのように、ゆっくりと手を伸ばす。指先が手紙に触れた瞬間、氷を掴んだような冷たさが走った。それは物理的な冷たさではなく、心臓の奥底から湧き上がるような、精神的な凍りつきだった。


掴み取った手紙は、薄い紙の束であるにもかかわらず、まるで生きているかのように、ずっしりと重く感じられた。小夜の執着が、そのまま質量となって楓の手に伝わるようだった。


楓は手紙を恐る恐る取り出した。再びその文字を目にするのは耐えられない。


脳裏に焼き付いた「完璧な場所へと旅立つでしょう」、「私と共に」という言葉が、まるで呪文のように、より一層強烈な響きをもって繰り返される。この紙切れ一枚が、自分をここまで追い詰めている。


この憎悪にも似た感情を、一体どこにぶつければいいのか。怒り、恐怖、そして何よりも、この現実から逃れたいという強い衝動が、楓の胸中で激しく渦巻いた。


手紙を握りしめた手が、小刻みに震える。震えは全身へと伝播し、歯の根が合わないほどの状態になった。唇を噛み締め、呼吸が荒くなる。喉の奥からは、か細い悲鳴が漏れそうだった。


震えが頂点に達したとき、衝動的に、彼女はそれを引き裂いた。


バリバリ、と耳障りな音が静まり返った部屋に響き渡る。紙の繊維が軋み、千切れる音は、まるで彼女自身の精神が音を立てて崩壊していくようだった。


一筋、また一筋と、紙は無残に引き裂かれていく。白い表面に黒々と記された文字が、文が、単語が、意味を失い、バラバラの破片となっていく。


小夜の、歪んだ想いが込められた文字が、今、目の前で砕け散っていく。その行為は、小夜の存在そのものを否定しようとする、楓の必死の抵抗だった。


無心で引き裂き続けた。指が痛むのも構わず、ただひたすらに。指先から力が抜け落ちるまで、何度でも、何度でも。


小さな紙片が、まるで雪のように絨毯の上に舞い散る。かつては小夜の「永遠」を象徴する言葉が並んでいた紙が、今は何の形も成さないゴミ屑となった。


これで、終わるはずだ。これで、あの呪縛から解放されるはずだ。これで、小夜は自分の前から消え去るはずだ。


荒い息を整えながら、楓はゴミ箱へと向かった。


台所の隅に置かれた、蓋つきの小さなゴミ箱。プラスチック製の表面には、使い古された痕跡が刻まれている。普段は生活の残骸が詰め込まれているそれに、今、最も醜悪で、最も個人的な真実の断片が投じられる。


蓋を開けた時、腐敗した生ゴミの匂いが微かに鼻を衝いた。そんな日常の臭いの中に、小夜の「永遠」が投げ込まれる。


破片を投げ込んだ。カサカサ、と小さな、あまりにもあっけない音がした。


その音は、まるで、彼女の必死の努力が、何の価値も持たないかのように響き、虚しさが楓の全身を包み込んだ。


蓋を閉める。ガチャン、という軽い音が、部屋に響く。これで全て終わりだと、楓は自分に言い聞かせようとした。


だが、ゴミ箱の蓋が閉まっても、心の中の蓋は閉まらない。


破り捨てたのは紙切れだけだ。記憶は、脳裏に焼き付いた言葉は、小夜の幻影は、何一つとして消え去ってはいない。


むしろ、物理的な形を失ったことで、その存在はより一層、楓の精神の奥深くへと根を下ろしたかのように感じられた。


ゴミ箱の中に捨て去ったはずの小夜が、今度は楓自身の内側に、より深く潜り込んでしまったようだった。もう、ゴミ箱に捨ててしまえるような、そんな手軽なものではない。


心の奥底に染み付いた黒い染みとなって、永遠に消え去ることはないだろう。


教室は再び静寂に包まれたが、その静寂は以前よりもずっと重苦しいものになっていた。


外では相変わらず雨が降り続いている。窓を叩く雨粒の音が、楓の心臓を直接叩いているようだった。


じめじめとした空気は、楓の肺腑に染み渡り、呼吸するたびに苦痛を伴う。体中に鉛を流し込まれたかのような重みが、彼女の四肢を麻痺させる。


楓は、力なくその場に座り込んだ。膝を抱え、顔を埋める。梅雨の終わらない雨音が、彼女のすすり泣きをかき消すように降り注ぐ。


逃げたかった。ただ、平穏な日常に戻りたかった。けれど、もう何をやっても無駄なのだと、冷たい諦念が彼女の心を支配し始めていた。


小夜は死んでなお、彼女の魂を蝕み続けている。その真実だけが、雨音の向こうで、確固たる存在として楓を嘲笑っていた。


絶望に支配された楓の目の前には、永遠に続くかのような、深い闇が広がっていた。


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