観察者
佐野愛は、見えない牢獄の中で身悶えしていた。その様子を、飯田将は、教室の片隅、最も目立たない場所から冷徹な視線で観察していた。飯田の目は、まるで昆虫学者がある種の標本を凝視するかのように、佐野の一挙手一投足を追っていた。そこには感情の揺らぎはなく、あるのはただ、計算された観察者の冷たい知性だけだった。彼の身体は、普段の臆病な態度とは裏腹に、背筋をぴんと伸ばし、まるで自らの存在感を消し去るかのように微動だにしなかった。その手には、使い込まれたノートが握られ、ペン先は紙に触れることなく静止している。しかし、その内側では、無数の思考が波紋のように広がり、確かな計画が練り上げられていた。
梅雨の湿気が肌にまとわりつく。窓の外では、朝から降り続く雨が、途切れることなくコンクリートの地面を叩いていた。その単調な雨音は、佐野の耳には不気味な鼓動として響いているようだったが、飯田にとっては、自らの計画の進行を告げる静かなBGMに過ぎなかった。彼の内なる世界は、外界の陰鬱さとは裏腹に、明確な目的意識によって澄み渡っていた。
佐野の顔は青白く、額にはじっとりと汗が滲んでいた。唇は血が滲むほど噛み締められ、時折、震える指先で前髪をかき上げる仕草は、以前の彼女からは想像もできないほど弱々しく見えた。飯田は、そんな佐野の姿を目の当たりにするたび、胸の奥で静かな満足感を覚えていた。この光景こそが、彼が望んでいた復讐の、雛川小夜の尊厳を取り戻すための聖なる儀式なのだと。
クラスメイトたちは、以前のように佐野に群がることもなく、ただ遠巻きに、あるいは見て見ぬふりをして、彼女を避けていた。彼らにとって、佐野の存在は、既に過去の遺物と化していた。飯田は、その状況を完璧だと感じていた。佐野が築き上げてきた虚飾の王座は、もはや砂上の楼閣。その崩壊は、巧妙な罠によって着々と進行している。春と美香の空席は、その確かな証拠だった。
佐野は、時折、幻覚に怯えるように、ふと教室の隅にある雛川小夜の遺影となったclass写真に視線を向けた。写真の中の雛川は、以前と変わらぬ、しかし、どこか遠い世界を見ているかのような神秘的な微笑みを浮かべていた。飯田は、佐野がその写真に怯える様子を見るたび、内心で冷ややかに嘲笑した。佐野が感じているのは、雛川の「呪い」などではない。それは、彼、飯田将が仕組んだ、現実的な恐怖だ。雛川は、佐野のような醜悪な存在に手を汚すような、俗な真似はしない。雛川は、あくまで彼の、清らかな女神なのだ。その女神を汚した佐野には、彼が罰を与える。それが、彼の使命であり、喜びだった。
佐野の肩が、小刻みに震えているのが見えた。喉の奥で、何かを絞り出すような微かな音がする。誰か助けてくれ、と彼女は心の中で叫んでいるのだろう。だが、飯田には、その叫びが届くことはない。彼にとって、佐野の苦痛は、正当な報いであり、彼の計画が順調に進んでいることの証に過ぎなかった。雛川をいじめる佐野の姿を、何度夢に見たことか。そのたびに、飯田は震えるほどの憎悪と無力感に苛まれた。だが、今は違う。彼は、雛川のために立ち上がり、この世界から不純な存在を排除する、選ばれし者なのだ。
飯田は、静かにノートを閉じた。その薄い表紙が、カタリと乾いた音を立てた。復讐の最終段階は、もう目の前に迫っていた。佐野は、既に精神的に追い詰められ、自滅への道を辿っている。彼女の周囲から全てが消え去り、孤立無援となった今、彼女は最も無防備な状態にある。その一瞬を決して逃さない。彼は、この復讐劇の終幕を、完璧なものにすると心に誓っていた。窓の外では、雨足がさらに強まり、鈍い鉛色の空の下、世界全体が、まるで飯田の決意を祝福するかのように、静かに、そして重々しく降り続いていた。彼の唇の端に、かすかな、しかし確かな、歪んだ笑みが浮かんでいた。それは、誰にも見られることのない、彼自身の内なる勝利の印だった。
飯田の唇の端に浮かんだ歪んだ笑みは、雨音に溶け込むかのように消え、再び無表情に戻った。しかし、その瞳の奥には、変わらぬ冷徹な光が宿っていた。教室の中は、重苦しい空気が澱んでいた。梅雨特有の湿気が肌にまとわりつき、全ての音を吸い込むかのようだ。窓の外から聞こえる雨音だけが、不気味なほど鮮明に響いていた。
井川楓は、教科書のページの端を指でなぞりながら、視線だけを泳がせていた。彼女の目は、佐野の座る席と、その対角線上に位置する飯田の席を、緩やかに往復する。佐野の周囲には、物理的な距離だけでなく、まるで不可視の壁があるかのように、誰も近づこうとしなかった。彼女が身を置く空間だけが、まるで時間が止まったかのように、異様な静寂に包まれている。
佐野は、時折、びくりと肩を震わせ、まるで耳鳴りのように響く沈黙の中で、誰かの視線を感じ取ろうとしているようだった。しかし、そこに向けられるのは、同情でも好奇心でもない、ただの無関心か、あるいは薄い軽蔑の色ばかりだ。彼女の虚ろな瞳が、ふと井川の視線とぶつかった。一瞬、佐野の顔に微かな期待のようなものが宿ったように見えたが、それはすぐに、より深い絶望の色へと沈んでいった。井川は、何も言わず、ただ視線をそらしただけだった。彼女は、この状況に対して、何の感情も湧いてこなかった。佐野の苦しみが現実であることは理解できる。しかし、それは彼女自身の物語の一部であり、井川が介入すべきことではない、と無気力な傍観者は冷めた結論を下していた。
「佐野さん、どうしたんだろうね?」
隣の席から、ひそやかな声が聞こえた。振り向くと、美咲が不安げな表情で佐野の背中を見つめている。その声は、雨音と教室の重い空気に吸い込まれるように、か細く震えていた。美香もまた、佐野を気にする様子で、眉をひそめている。
「……さあね。知らない」
井川は、ごく短く答えた。美咲の顔には、かつて佐野の取り巻きとして傍にいた者たち特有の、罪悪感にも似た戸惑いが浮かんでいる。だが、彼女たち自身も、佐野の異変に触れることを恐れているかのように、一歩引いた位置から、ただ見守ることしかできないでいる。
飯田は、そんな美咲の様子を視界の端で捉えながらも、意識を佐野から外すことはなかった。彼の計画は、まさにこれだった。佐野から全てを奪い、孤立させる。人の繋がりは、時に人を強くも弱くもする。佐野は、その虚飾の繋がりを失い、今やただの一人の無力な少女に過ぎない。しかし、その内側に潜む狂気は、まだ完全に消え去ったわけではない。飯田は、それが表面化する瞬間を、息を詰めて待っていた。
雨は窓を叩き続け、鈍い鉛色の空はさらに深く沈んでいく。時計の針は、重々しい音を立てながら、ゆっくりと、しかし確実に、終焉への時間を刻んでいた。
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