孤立

佐野愛は、背後から突き刺さるような視線を感じ、反射的に振り返った。しかし、そこにいたのは、ただのクラスメイトたち。彼らは佐野から目を逸らし、あるいは最初から存在しないかのように、彼女の視界の端でざわめいているだけだった。以前なら、そんな視線一つで彼らを黙らせることができたのに、今はそれがただ虚しく響く。彼女を取り囲んでいたはずの賑やかな声も、笑い声も、今は遠い幻のように聞こえた。


梅雨の湿気が肌にまとわりつく。教室の窓は僅かに開けられ、じめりとした生ぬるい空気が、時折吹く風に乗ってカーテンを揺らす。雨は、朝から途切れることなく降り続き、コンクリートの地面を叩く音が、単調なリズムで佐野の耳にこびりついていた。それは、まるで、自身の心の奥底から響く、不気味な鼓動のようだった。


春と美香の席は空っぽだ。昨日も、その前の日も、彼女たちは学校に姿を見せなかった。最初は、ただのサボりかと思っていた。いつもなら、佐野の一声で呼び戻せるはずだった。だが、何度連絡しても繋がらない携帯電話、そして学校からの連絡を無視しているという担任の言葉が、佐野の胸に漠然とした不安の影を落としていた。そして、その不安は、すぐに底知れない恐怖へと変貌した。


「ありえない……」


佐野は、無意識のうちに唇を噛み締めていた。指先で前髪をかき上げたが、額にじっとりと浮かぶ汗は消えない。教室のざわめきは、彼女の耳には遠く、まるで自分だけが透明な壁の中に閉じ込められているかのようだ。かつては、この教室の中心に君臨していたはずの自分が、今は、まるで隅に追いやられたかのような錯覚に陥る。


昨日の帰り際、残った取り巻きが震える声で佐野に詰め寄ってきた。「佐野さん、私たち……もう無理」「雛川さんの、呪いかも……」そう言って、二人は泣きながら走り去った。その言葉が、佐野の脳裏にこびりついて離れない。呪い。雛川小夜の呪い。そんな馬鹿な。佐野は鼻で笑った。死んだ人間が、どうして生きている人間に影響を与えられるというのだ?


しかし、その嘲笑は、自身の内側から湧き上がる冷たい震えによって、すぐに掻き消された。もし、それが本当に雛川の霊の仕業だとしたら?自分を、そして自分の取り巻きを排除しようとしているのだとしたら?


佐野の視線が、ふと、教室の隅に置かれた祭壇のような場所に引き寄せられた。そこには、白い花瓶に活けられた白い菊の花と、雛川小夜の遺影が飾られている。写真の中の雛川は、変わらず浮世離れした、どこか神秘的な微笑みを浮かべていた。その瞳が、まるで佐野の心の内側を覗き込んでいるかのように感じられた。あの透き通るような瞳の奥には、一体どんな感情が秘められていたのだろう。彼女の無関心さ、他人を寄せ付けない孤高な美しさに、佐野は常に苛立っていた。そして、その苛立ちが、あのいじめへと繋がったのだ。今、その報いを受けているとでもいうのだろうか。


椅子に座り直すと、背筋に冷たいものが走った。誰も、佐野に話しかけてこない。誰も、彼女の周りに近寄ろうとしない。いつものように、休み時間に集まってくるはずの取り巻きはいない。彼女の言葉に耳を傾け、彼女の命令に従うことを喜びとしていたはずの顔ぶれは、どこにも見当たらなかった。教室の中は、空席が目立つ。そして、その空席が、まるで佐野の存在を否定しているかのように、大きく広がっているように思えた。


「そんなはずはない……」


佐野は、掠れた声で呟いた。だが、その言葉には、かつての自信に満ちた響きはなかった。指先が、冷たくなっている。心臓が、妙に速く鼓動している。手のひらには、うっすらと汗がにじんでいた。これは、恐怖だ。彼女が最も忌み嫌っていた、弱者の感情が、今、佐野の全身を侵食しようとしていた。


これまで、彼女は常に中心にいた。周囲の羨望の眼差しを浴び、自分の思うがままに人々を動かし、支配してきた。それが、彼女の存在を肯定する唯一の術だった。母親からの愛情に飢え、承認欲求を肥大させてきた佐野にとって、この場所は、何よりも大切な「居場所」だった。しかし、その居場所が、まるで砂上の楼閣のように脆くも崩れ去ろうとしている。


佐野は、窓の外に目をやった。降り続く雨は、校庭の土を深く湿らせ、草花の緑を一層濃く見せている。水たまりに映る空は、鈍い鉛色をしていた。まるで、この世界の全てが、佐野の心を映し出しているかのように、陰鬱で、重苦しい。


幻聴が聞こえる。雨音の中に、かすかに、雛川の囁きが混じる。「佐野さん……」その声は、優しく、しかしどこか冷たく、佐野の耳元で響く。振り向いても、そこに彼女はいない。しかし、その存在が、すぐ近くに、確かにそこにいるような気がして、佐野は全身を震わせた。誰かに相談したい。この恐怖を、誰かに打ち明けたい。しかし、視線を巡らせても、誰も佐野の目を見ようとしない。彼女は、完全に孤立していた。


自分が、雛川を虐めていたという事実は、今や彼女の心を蝕む猛毒となっていた。あの屋上での、雛川の最後の眼差し。あの時、佐野は勝利を確信した。自分の支配欲を満たしたと。だが、あれは違ったのだ。あれは、死者からの呪いの言葉だった。雛川は、死をもって、佐野に復讐しようとしている。彼女の存在そのものを、社会から、クラスから、そして自分自身の心から、消し去ろうとしているのだ。


喉の奥がカラカラに乾き、唾液を飲み込むのも困難だった。胸の奥に、得体の知れない塊が、重くのしかかっている。息が詰まる。この恐怖は、自分一人ではどうすることもできない。誰か、誰か助けてくれ。心の叫びが、しかし、声になることはなかった。恐怖は、佐野の声を奪い、思考を鈍らせ、全身を凍り付かせた。彼女は、雛川小夜という名の、見えない牢獄に、囚われていた。

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