心中願望の呪縛

井川は、手紙を読み終えた瞬間から、世界の色が失われたように感じていた。


クリーム色の便箋は、ただの紙切れではなく、雛川小夜の執拗な視線、死と隣り合わせの純粋な狂気を宿した呪物のように思えた。

自分の無気力、無関心、空虚さ……それら全てが、彼女の歪んだ「聖域」として崇められ、死の道連れとして望まれている。

その事実は、井川の存在そのものを否定し、根底から揺るがすものだった。


喉の奥で、鉛の塊がせり上がってくるような感覚に襲われる。

梅雨の冷たい湿気が肌にまとわりつく。

じっとりと汗をかく額に、冷たい空気が触れると、鳥肌が立った。


教室の窓は固く閉ざされ、分厚いガラス越しに、外界の音が遠く聞こえる。

それは、まるで自分が外界から隔絶された箱の中にいるようだった。


窓の外では、雨が間断なく降り続いている。

その単調な音が、井川の心臓の鼓動と重なり、頭の中で「完璧な場所」「あなたと共に」という雛川の声が反響し続けた。

それは幻聴でありながら、あまりにも現実味を帯びていて、まるで雛川が今もどこかで自分を見つめているかのような錯覚に陥った。

その視線は、井川の背中を焼くように感じられた。


机の引き出しに手紙を戻そうとしたが、その紙に触れるたび、雛川の指先がそこに残っているような、ぞっとする感覚に襲われた。

インクの匂い、便箋のざらつき、その全てが、雛川小夜の存在を濃厚に感じさせた。


手紙は、確かに封筒の中に収まり、引き出しに押し込まれた。

冷たい金属の引き出しが、カチャリと音を立てて閉まる。

物理的には封じ込めたはずの文書だが、その中身が井川の心の中に深く刻み込まれてしまった以上、もう元に戻ることはない。

パンドラの箱は開かれ、解き放たれた死の願いは、井川の魂に絡みつき、彼女を内側から食い破ろうとしている。


「どうして……私が……こんな目に……」

か細い声が、誰にともなく漏れた。

唇が震え、その声もまた、震えによって途切れ途切れになる。


自分はただ、波風立てずに生きてきただけだ。

周囲の喧騒から一歩引いた場所で、他者に深く関わろうともせず、感情を表に出すこともなく。

それが、なぜ、このような形で、一人の少女の死と、その死後の執着に囚われなければならないのか。


無関心であることの罪。

何も求めないことの罪。


井川は今、自らの「空虚」が、雛川小夜という鏡に映し出された時、それがどれほどおぞましい怪物となり得るのかを知った。

自分の最も隠しておきたかった内面が、他者の死の願望と結びついてしまったのだ。


心臓が締め付けられるような痛みが走る。

それは罪悪感なのか、それとも純粋な恐怖なのか、井川には判別できなかった。

呼吸が浅くなり、胸がひどく苦しい。


雛川が自分を「聖域」と呼んだ時、井川は心の中で「そんなはずはない」と否定した。

自分は誰かの救いになるような人間ではない。

しかし、雛川の言葉は、井川の心に深く根を張り、彼女の存在を歪め、侵食し始めた。


自分がもし、あの時、もう少し小夜に目を向けていたら?

もし、彼女の視線から逃げずに、何か言葉をかけていたら?

その問いは、今となっては無意味なものだと知りながらも、井川の意識を苛み続けた。

後悔の念が、じりじりと井川の精神を蝕んでいく。


自分の無気力さが、間接的に雛川をこの死へと誘い、さらに自分自身をも巻き込む「心中」の妄執を生み出してしまったのではないか。

その考えが頭を巡ると、井川はまるで、自らの手で雛川をあの屋上へと追いやってしまったかのような、拭い去れない罪悪感に苛まれた。

その罪悪感は、梅雨の空気のように重く、井川の肩にのしかかる。


全身の力が抜け、椅子にもたれかかった。

背中から伝わる椅子の冷たさが、井川の内部に広がる冷たさと共鳴する。


教室には、井川一人。

放課後の静寂は、普段なら心地よいはずなのに、今は耳鳴りのように不気味に響く。

遠くで聞こえる部活動の声も、笑い声も、井川の世界には届かない。

彼女は、まるで深海の底に沈んだかのように、重く、冷たい絶望の淵にいた。


視界がぼやけ、目の前の机の木目が歪んで見えた。

手紙が示す雛川の「完璧な場所」とは、死後の世界であり、そこへ井川を誘い込もうとしている。

まるで、雛川の魂が死してもなお、井川を求めてさまよっているかのようだ。

彼女は、井川の精神を、永遠に続く冷たい抱擁で縛り付けようとしている。

その抱擁は、甘くも暖かくもなく、ただひたすらに冷たく、粘着質で、逃れる術のないものだった。


井川は、身動きが取れなかった。

まるで、透明な鎖に全身を巻かれ、その場に縫い付けられているかのようだった。

その鎖は、物理的な力ではなく、精神を蝕む見えない呪いの鎖だ。

逃げられない。

どこへ行っても、雛川の視線、雛川の言葉、雛川の「愛」が、井川を追ってくるだろう。

それは物理的な存在ではなく、精神の深部にまで入り込んだ呪縛。

井川は、生きながらにして、雛川小夜という名の牢獄に閉じ込められてしまったのだ。


雨音が、まるで牢獄の看守が歩く足音のように、あるいは、井川を呼ぶ雛川の声のように響き、井川の心は、永遠に解放されることのない絶望に沈んでいった。

雨音は、もう雨の音ではなかった。それは、井川の耳の奥で、ひそやかな囁きに変わっていた。「カエデ……カエデ……」

名前を呼ばれるたび、肌の表面に針が走るような感覚がした。寒気が、背筋から全身に広がる。この声は、幻聴だと、理性では理解している。だが、その言葉一つ一つが、井川の精神の最も脆い部分を直接撫でるように、あまりにも生々しかった。


立ち上がろうと、わずかに膝に力を込めた。しかし、まるで足元に鉛が埋まっているかのように、体はぴくりとも動かない。視線を上げた先、黒板には、明日の時間割が白いチョークで殴り書きされている。そこに記された漢字や数字が、意味をなさない記号の羅列に見えた。もう、普段通りの日常が、永遠に失われてしまったかのような喪失感。


「どうして……」

再び、同じ問いが唇から漏れる。そして、その問いへの答えが、心の奥底で反響する。

彼女の純粋な「渇望」と結びつき、歪んだ形で互いを求め合ったのだと。それは、雛川が勝手に作り上げた幻想に過ぎない。そう断言したいのに、どこかでその言葉が、自分自身の深層にある何かを突いているような気がした。


ふと、目を閉じると、鮮烈な残像が瞼の裏に浮かんだ。屋上のフェンス越しに、風に揺れる雛川の細い背中。そして、振り向いた彼女の、一点の曇りもない、透き通るような眼差し。あの時、あの目に映っていたのは、もしかしたら、未来のこの瞬間だったのかもしれない。自分を死へと誘う、狂おしいほどの確信と、底知れない愛情。その眼差しは、今、井川の心臓を直接見つめているかのようだった。


息苦しさがさらに増す。首を絞められているような感覚に、必死で指を伸ばしたが、そこには何もない。透明な縄、見えない手。しかし、その力は、現実のどんな暴力よりも強固に井川を縛り付けていた。この教室、この椅子、この身体……全てが、雛川小夜という名の檻の一部になってしまった。永遠に続くかのような雨音の中で、井川は、もはや自分が「生きている」のか「死んでいる」のか、その境界線すら曖昧になっていくのを感じていた。

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