パンドラの箱
梅雨の湿気が肌にまとわりつく。じとじとした空気は、まるで井川の心の奥底に染み付いた重苦しさを象徴しているかのようだった。
美香が事故死し、そして昨日、美咲までが同じように不審な死を遂げたという報せが学校中に広まった。誰もが「事故」と口にするが、二日続けて、佐野の取り巻きが次々と命を落とすという異常事態に、生徒たちの間には拭いきれない不信と恐怖が蔓延していた。
教室のあちこちで、ひそひそと囁かれる声が井川の耳にも届く。噂は不確かな形を取りながら、不気味な輪郭を帯びて、佐野のグループの「呪い」めいたものを語っていた。
井川は、自分の席でじっと俯いていた。窓の外は、今日も鉛色の空から諦めたように雨が降り注ぎ、校庭の緑をさらに深く、重苦しい色に変えている。この一週間、彼女の心はひどくざわつき、落ち着かなかった。
佐野のグループが雛川小夜をいじめていたことは、クラスの誰もが知る事実だ。そして、井川自身も、そのいじめを見て見ぬふりをしてきた一人だった。直接手を下すことはなかったが、その行為を止めようともしなかった。傍観者としての自分。その無気力さが、今、じわりと胸を蝕む。
美香の死以来、佐野の態度はますます攻撃的になっていた。普段の強気な表情の奥に、得体の知れない怯えが張り付いているのを井川は感じていた。佐野は、自分たちのグループに何か恐ろしいものが起こっていることを、誰よりも敏感に察知しているようだった。
そして、その佐野の苛立ちが、残された取り巻きたち、特に春に向けられるのを見て、井川は密かに胸を撫で下ろしていた。自分は佐野の視界の外にいる。それだけが、今の井川にとっての救いだった。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。美香と美咲の顔が、井川の脳裏にちらつく。あの子たちは、佐野に言われるがままに雛川をいじめていた。だが、それだけが理由で、こんなにもあっけなく命を落とすものだろうか。まるで、透明な悪意が、彼女たちの命を狩り取っているかのように。
ふと、井川の視線は、無意識のうちに自分の机の引き出しへと向けられた。その奥に、そっと忍ばせてある一通の手紙。
それは、雛川小夜が死の直前に井川に送ったものだった。
井川は、その手紙を受け取ったものの、なぜか開ける気になれずにいた。小夜と親しく会話をした覚えもない。なぜ自分に手紙を? その疑問が、むしろ漠然とした不安を呼び起こし、無意識のうちに手紙から目を背けてきたのだ。中途半端な関係に深入りすることへの、無気力な拒否反応。それが井川の本質だった。
しかし、今はもう、その無気力さで逃れることはできない。二人の死は、井川の心に冷たい石を落とし、波紋を広げた。
もし、この手紙に、今回の事件に関する何らかの手がかりが隠されているとしたら? いや、それよりも、もし、この手紙が、自分が雛川のいじめを見て見ぬふりをしてきたことへの、「報復」の始まりなのだとしたら?
井川の指先が、ゆっくりと引き出しの取っ手に触れる。冷たい金属の感触が、なぜか現実感を増幅させた。
引き出しをそっと開けると、そこに目的の白い封筒が横たわっていた。表面には、井川の名前が丁寧に、しかし流れるような筆跡で記されている。雛川小夜の字だ。その筆跡からは、彼女の知的で繊細な人柄が伝わってくるようだった。だが、今の井川には、それがひどく不気味なものに感じられた。
まるで、開けてはならないパンドラの箱。その中に何が隠されているのか、想像するだけで全身の血の気が引く。それでも、井川はもう後戻りできないことを悟っていた。この手紙を開けなければ、この胸に巣食う不安と恐怖から逃れることはできないだろう。たとえ、その先にさらなる絶望が待ち受けていたとしても。
震える手で、封筒を掴む。紙は梅雨の湿気を含んで、しっとりと重い。裏返すと、封がしてあった。まるで丁寧に封印された秘密のように、硬く閉じられている。
井川はゆっくりと指を滑らせ、その封を破った。乾いた紙が裂ける音が、やけに大きく耳に響いた。
封筒の中から、二つ折りにされた便箋を取り出す。開くと、そこにはぎっしりと、しかし整然とした文字が並んでいた。便箋は薄いクリーム色で、触れるとざらりとした質感がある。インクは黒々と、しかしわずかに青みがかった色合いで、丁寧に書かれている。まるで、書かれた一つ一つの言葉が、小夜の内なる世界から紡ぎ出された、純粋で、しかし歪んだ思考の結晶であるかのようだった。
井川は息を詰め、そこに綴られた文章を読み始めた。
『井川さんへ』
その書き出しからして、井川は心臓が強く脈打つのを感じた。小夜のいじめがエスカレートする直前、彼女は井川の隣の席だった時期がある。その頃、小夜はよく井川の方をじっと見つめていた。その視線には、常に何かを問いかけるような、あるいは何かを訴えるような、底知れない感情が込められているように感じられた。井川はいつも、その視線から目を逸らしていた。それが、今、猛烈な後悔となって胸に迫る。
読み進めるにつれて、井川の顔色は次第に蒼白になっていった。
『あなたは、いつも私を見ていましたね。誰もが私を嘲り、石を投げつける中で、あなたはただ、静かにそこにいました。その瞳は、まるで遠い宇宙の星を眺めるかのように、何も判断せず、何も責めず、ただ私という存在を、そのまま受け入れているようでした。』
井川は息をのんだ。自分は、小夜を「見て」いたつもりはなかった。むしろ、見て見ぬふりをしてきたのだ。なのに、小夜の目には、その無関心な態度が、まるで特別な肯定のように映っていたというのだろうか。その歪んだ解釈に、背筋に冷たいものが走った。
『私にとって、あなたのその無関心は、何よりも心地よいものでした。他者の評価や感情に振り回されることなく、ただ自身の内面世界に没頭することを許してくれる、あなたという存在。それは、私にとって唯一の、穢れなき聖域でした。』
聖域。井川は思わず、持っていた便箋を落としそうになった。自分は、小夜にとって、そんな存在だったのか。いじめられている彼女にとって、自分は救いだったというのか。その言葉は、井川の想像をはるかに超えていた。しかし、その「救い」が、あまりにも個人的で、独りよがりな、歪んだ解釈の上に成り立っていることに、井川は言いようのない恐怖を感じた。
『私は、この世界が醜く、絶望に満ちていることを知っています。人々は互いを傷つけ合い、無意味な憎悪をまき散らす。私をいじめた彼らも、結局は自分自身の弱さから来る承認欲求に囚われた哀れな存在です。しかし、そんな中でも、あなたは違った。あなたの内には、この世界の汚濁に染まらない、純粋な空虚がある。私は、その空虚に深く魅せられました。』
純粋な空虚。
井川の心臓が、恐怖でぎゅうと締め付けられた。自分が抱えていた、何も求めない虚無感、無気力さが、小夜には「純粋な空虚」として認識されていたというのか。それは褒め言葉などではなく、むしろ、井川の最も深く、隠していた部分を、正確に、しかし冷徹に暴かれたような感覚だった。自分は、小夜の目を通して、自分の内なる闇を映し出されているようだった。
『私にはもう、この世界に居場所はありません。私を理解する者は誰もいない。ただ一人、あなたを除いては。井川さん、私はあなたの空虚の隣で、永遠の眠りにつきたい。この醜い世界から、二人で旅立ちましょう。誰も私たちを邪魔しない、完璧な場所へ。そこでなら、きっと、私たちの魂は安らかに溶け合うことができるはずです。』
「……そんな……」
井川の口から、か細い声が漏れた。手紙が、震える指先から滑り落ちそうになるのを必死で押さえる。心中。小夜は、自分との心中を望んでいた。この手紙は、雛川小夜の、井川楓への、一方的で、病的で、そして死と結びついた、歪んだ「愛の告白」だった。
『私たちは、もうすぐ、完璧な場所へと旅立つでしょう。あなたは、私と共に。』
その一文が、井川の視界を真っ赤に染め上げた。「完璧な場所」。それは、雛川小夜が飛び降りた、あの屋上の下だった。そして「あなたと共に」という言葉が意味するもの。あの時、雛川は、自分を道連れにするつもりだったのか? 井川は、全身から血の気が引くのを感じた。
いや、違う。あの時、雛川が飛び降りたのは、佐野たちへの復讐のためだけではなかった。この手紙が書かれたのは、美香や美咲が死ぬよりも、ずっと前。ならば、小夜の「完璧な場所」へ誘う計画は、その時から既に始まっていたのだ。そして、佐野の取り巻きたちが一人、また一人と消えていったのは、井川楓を「完璧な場所」へと誘うための、儀式的な準備だったのではないか?
井川の頭の中で、全てのピースが、おぞましい形で嵌まり込んでいく。雛川小夜が死ぬ前に見た、あの静かで、しかし何かを秘めた瞳。それらの意味が、今、この手紙によって、一つの恐ろしい真実へと収束していく。彼女の真の目的は、自分を「穢れなき聖域」と見なす井川を、死の世界へと道連れにすることだったのだ。
体が硬直する。全身の毛穴が開き、冷たい汗が吹き出した。震えが止まらない。手紙の文字が、まるで蠢く虫のように見え、内容が頭の中でぐるぐると反響する。
「私たちは、もうすぐ、完璧な場所へと旅立つでしょう。あなたは、私と共に。」
その声が、幻聴のように井川の耳元で囁く。
井川は雛川小夜が仕掛けた、巨大で歪んだ罠の、まさに中心にいることを悟った。無気力で、何も求めてこなかった自分が、今、最も恐ろしい形で「求められている」。その事実に、井川は激しい吐き気を催した。
これは現実なのか? 全てが夢であってほしい。しかし、梅雨の湿気は現実の重さを、鉛のように井川の心に押し付ける。窓の外の雨音は、まるで自分を捕らえようとする何かの足音のように聞こえた。
井川は、自分がこの暗く、じめじめとした世界から、もう決して逃れることができないことを悟り、絶望の淵に沈んでいった。パンドラの箱は開かれ、その中から、死と心中を望む、おぞましい「好意」が解き放たれてしまったのだ。
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