第二の犠牲者
佐野が漠然とした恐怖と疑念に苛まれている頃、飯田将の心の中では、冷たい計画が着々と進行していた。梅雨のじめじめとした空気が、彼の内面に巣食う澱んだ感情と共鳴する。全てが曖昧な湿度の中に包まれ、しかし彼の計画だけは、確かな輪郭を保ちながら浸食していくようだった。
彼にとって、雛川小夜はもはや人間ではなく、触れることのできない神聖な存在だ。彼女を苦しめた者たちへの復讐は、飯田にとって唯一の正義であり、自己の存在を肯定するための儀式でもあった。彼の行動は、雛川の報われない魂を鎮め、彼女が果たせなかった復讐を代行するものだと信じて疑わなかった。
昼休み、食堂の喧騒から離れた古びた教室の隅で、飯田はひっそりと弁当を広げていた。彼の視線の先には、佐野の取り巻きの一人、美咲の姿があった。美咲は佐野の隣で、相変わらず無邪気な笑みを浮かべている。しかし、その笑顔の裏に、飯田は微かな動揺と不安を見て取っていた。
美香の死が、彼女たちを確実に蝕んでいる。佐野のグループの連帯は、ひび割れ始めていた。飯田はゆっくりと箸を動かしながら、美咲の仕草の一つ一つを観察した。彼女は他の取り巻きたちと比べても、特に自己主張が弱い。常に周囲の意見に流されやすく、自分の居場所を強く求める性質がある。その不安定さが、飯田には好都合だった。彼は美咲の怯えを敏感に嗅ぎ取っていた。美香の死が、彼女の心に決定的な亀裂を生んだ。今、彼女は「良い子」であろうと必死に努めているが、その仮面の下には、深い動揺と、いつ自分にその番が回ってくるかという漠然とした恐怖が隠されている。
彼の内なる声が囁く。
──彼女は脆い。脆いからこそ、容易に崩せる。
そして、その脆さを利用すれば、雛川の報復はさらに完璧なものとなるだろう。
午後の授業が終わり、放課後のざわめきが校舎を満たす。飯田は誰も見ていないことを確認しながら、美咲の下駄箱に一枚のメモを忍ばせた。手書きで、しかし誰の筆跡とも判別しにくいよう、わざとぎこちない文字で書かれていた。
「体育館裏、旧倉庫の鍵。落としたのでは? 早くしないと誰かに見つかる。」
それは、美咲が昨日、体育の授業があった際、確かに手から滑り落ちるのを目撃した、管理用の一時的な鍵のことだった。誰も拾わず、そのままになっていたことを飯田は知っていた。美咲は、その鍵がなくなっていることにはまだ気づいていないだろう。しかし、それが誰かの手に渡ることを知れば、彼女はきっと焦るに違いない。誰かの物を勝手に持ち出す、という行為は、彼女のような「良い子」であろうとする人間にとっては、罪悪感と、佐野からの叱責への恐怖をもたらすだろう。
メモは、美咲が他の生徒たちと連れ立って帰ろうとする寸前、下駄箱を開けた際に、ひらりと足元に落ちた。美咲は訝しげにそれを拾い上げ、目を凝らした。短い文章を読み終えた瞬間、彼女の顔色が変わった。鍵を落とした覚えはない、と一瞬思ったのだろうか。しかし、「体育館の鍵」という具体的な記述に、彼女の心は揺らいだ。管理用の鍵を紛失したとなれば、佐野に知られたら何を言われるか分からない。佐野は最近、特に機嫌が悪いのだ。そして、美香の「事故」以来、彼女たちの間には不穏な空気が漂っている。そんな時に、これ以上の問題を起こすわけにはいかない。
美咲はそっと周囲を見回した。誰も自分を見ていないことを確認すると、他の取り巻きたちに「ちょっと忘れ物」と告げた。その声は、微かに上ずっていた。一人、体育館裏へと向かう彼女の表情には、焦りと、わずかな怯えが浮かんでいた。まるで、見えない糸に操られる人形のように、彼女の足は薄暗い方向へと進んでいく。
飯田は美咲の背中を、教室の窓からじっと見送った。彼の胸には、高揚感と、どこか冷たい達成感が広がっていた。この感覚こそが、彼が求めていたものだった。雛川への思いが、彼の歪んだ心を支配する。彼の行為は、復讐であると同時に、雛川の記憶を自分だけのものにするための、秘密の儀式だった。彼だけが、雛川の真実を知り、彼女の苦痛を理解し、そして彼女の代わりに罰を与えることができる。
体育館裏は、校舎の陰になり、梅雨の湿気と相まって、常に薄暗く、じめじめとしていた。使われなくなった古い倉庫が、雨に濡れて黒ずんでいる。錆びたトタン屋根からは、絶え間なく雨水が滴り落ちていた。あたりには、苔と湿った土の匂いが立ち込めている。風が吹くたび、倉庫の軋む音が、まるで何かが囁いているかのように聞こえた。美香の死が、この薄暗い場所にもまとわりついているかのように感じられ、美咲は無意識のうちに自分の両腕を抱きしめた。
美咲は恐る恐る倉庫の扉に近づいた。鍵はどこにも見当たらない。騙されたのだろうか、と不安がよぎったその時、背後から微かな物音がした。「誰?」美咲はびくりと身を震わせ、振り返った。だが、そこには誰もいない。風が、古びた倉庫の錆びたトタン屋根を震わせる音だったのだろうか。しかし、彼女の心臓は激しく脈打っていた。
美香のことがあったばかりだ。この薄暗い場所で、一人でいることへの恐怖が、急速に彼女を包み込む。体が震えだし、息が詰まる。その時、倉庫の影から、飯田将がゆっくりと姿を現した。彼は両手をポケットに突っ込み、顔を伏せがちに、じっと美咲を見つめている。その瞳には、普段の臆病な様子とはまるで異なる、冷たい光が宿っていた。それは何かを企む者の目ではなく、まるで遠い世界の真実を知る者の、静かで、しかし底知れない闇を孕んだ光だった。
「あ……飯田君……どうしてここに?」美咲の声は、恐怖で上ずっていた。喉がカラカラに乾き、唾を飲み込むことさえできない。彼の静かな存在が、このじめじめした空間にさらに重い空気をもたらす。
飯田は何も答えない。ただ、ゆっくりと、しかし確実に、美咲との距離を詰めていく。その無言の圧力に、美咲の顔は恐怖に引きつった。「あの、鍵、私じゃないんです。知らないんです」美咲は焦って言葉を紡いだ。震える唇が、うまく言葉を形作れない。罪悪感と、知らないものを押し付けられたかのような不条理な恐怖が、彼女の心を締め付けた。
飯田は美咲の言葉には何の反応も示さず、ただ無表情に首を傾げた。その仕草が、かえって美咲の恐怖を煽った。背筋に冷たいものが走る。飯田の存在自体が、非日常的な不気味さを纏っていた。彼はまるで、この世のものではないかのように、雨音の中に溶け込んでいる。
「雛川さんも、同じようなこと、言ってたよ」
飯田の声は、雨音にかき消されそうなくらい小さかった。しかし、美咲の耳には、はっきりと響いた。その声には一切の感情が宿っておらず、まるで別の人間が話しているかのようだった。美咲の脳裏に、あの陰湿ないじめの光景がフラッシュバックする。彼女は佐野に言われるがまま、雛川を嘲笑い、時には突き飛ばすことさえあった。その罪悪感が、今、鉛のように重くのしかかる。
「違う! 私は……」美咲は言葉を続けようとしたが、飯田は彼女の言葉を遮るように、静かに、しかし一歩踏み出した。美咲は後ずさり、背後にある倉庫の壁に背中を打ち付けた。冷たいコンクリートの感触が、彼女の絶望をさらに深める。逃げ場はない。雨音だけが、二人の間に広がる沈黙を強調していた。
そして、その時だった。美咲の視界の隅、雨でぼやけた倉庫の壁の向こうに、微かな人影が揺らめいた。雨の滴が描く幻だろうか。しかし、その輪郭は、美咲の記憶に刻まれた、ある少女の姿と重なった。
「……雛川、さん……?」
震える唇から、辛うじてその名が漏れた。雨に濡れた髪、うつむいた顔。しかし、その瞳だけが、美咲を、まっすぐに睨みつけているように見えた。その目は、恐怖と、深い憎悪を宿している。あの、いつも怯えていた雛川小夜の目ではなかった。そこにあったのは、冷え切った、底知れない怨念の瞳だった。雨の向こう、その顔が、ゆっくりと、しかし確かな感情を湛えて、美咲を見つめ返した。
「いや……違う、あれは、違う……!」
全身の血が凍り付くような恐怖が、美咲を襲った。あの時、自分たちが追い詰めた少女の怨念が、今、目の前に現れた。美香の死は、決して偶然ではなかったのではないか。この、薄暗い場所で、今度は自分が――。心臓が張り裂けそうなほど激しく脈打ち、呼吸ができない。あまりの恐怖に、美咲の視界は歪み、足元がおぼつかなくなった。
後ずさろうとした足が、雨でぬかるんだ土と、生い茂る雑草に取られた。バランスを失い、体が大きく傾ぐ。美咲の脳裏には、いじめを受けていた時の雛川の絶望的な顔が、鮮明に焼き付いていた。
「ああああっ!」
美咲の悲鳴が、雨音にかき消される。彼女の体は、慣性のままに大きく傾き、倉庫の裏側に伸びる、ほとんど使われていない狭い通路へと吸い込まれるように倒れ込んだ。そこには、老朽化したコンクリート製の側溝が蓋もされずに口を開けていた。底が見えないほどの暗い深淵が、恐怖に震える美咲を待ち構えていた。
ゴトン、と鈍い音。そして、深々と響く、水に落ちる音。
飯田は、その音を聞き届けた後、表情一つ変えずに、ゆっくりとその場を後にした。彼の足跡は、雨がすぐに洗い流していく。彼は校舎の裏手に回り、誰にも見られないことを確認して、制服の裾についた泥を軽く払った。
彼の心は静かで、澄み切っていた。雛川の復讐が、また一つ遂げられた。彼の行動は、雛川の魂を呼び寄せ、彼女の意思を代行したのだ。美香の死と同様に、これは誰も飯田の関与を疑わない、完璧な「事故」として処理されるだろう。
飯田は、再びポケットに手を突っ込み、ゆっくりと昇降口へと向かった。彼の顔は、いつものようにどこか怯えを帯び、しかしその奥底には、秘めたる狂気が静かに燃え盛っていた。梅雨の雨は、彼の犯した罪の痕跡を、何事もなかったかのように洗い流していく。だが、佐野が感じた疑念の雨は、これからさらに激しさを増していくに違いない。恐怖の連鎖は、まだ始まったばかりだ。
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