疑心暗鬼
佐野の冷たい言葉に、春は何も言い返せず、ただその場から逃げるように立ち去った。
呆れたように肩をすくめた佐野は、再び取り巻きたちと笑い始めた。しかし、その高揚した笑い声は、どこか空虚で、春の消え入りそうな背中が、佐野の視界の端に深く焼き付いたような気がした。
いつものように、取り巻きたちは佐野の意見に同意し、春の憔悴ぶりを嘲笑う。だが、その声の端々には、僅かな戸惑いと、どこか春に共感しかけているような響きが混じっているのを、佐野は感じ取っていた。
翌日も、そのまた翌日も、梅雨の湿った空気は校舎に重くのしかかり、雨は降り続いた。春の顔色は一層悪くなり、目の下の隈は青黒く沈んでいる。授業中も机に突っ伏し、昼休みにはほとんど姿を見せない。
時折、廊下で春とすれ違うと、彼女は幽霊でも見たかのようにびくりと肩を震わせ、佐野から目を逸らして足早に去っていく。その姿は、まるで肉体の抜け殻のようだった。
「ねぇ、佐野。春ちゃん、本当に大丈夫なのかな?」
ある日の放課後、傘を差しながら、取り巻きの一人が不安そうに口を開いた。佐野は水たまりに跳ねる雨粒を見つめながら、内心で舌打ちした。
「大丈夫なわけないでしょ。あんなこと言ってんだから。自分で勝手に頭おかしくなってるだけよ」
佐野は突き放すように言ったが、その言葉には、以前のような揺るぎない確信がなかった。春の訴えは、あまりにも生々しく、真に迫っていた。美香の声、写真、点滅する電気。それらは、本当に春の妄想なのだろうか。
「でもさ、もし本当に美香の霊が…」
別の取り巻きが、恐る恐る言葉を繋いだ。佐野はぎろりとその子を睨みつけた。
「やめなさいよ!そんなこと言ってたら、本当に来るでしょ。バカじゃないの?」
佐野の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。冷徹さを装ってはいるものの、彼女の心臓は、言い知れぬ不安に微かに脈打っていた。
その日の夜、佐野はなかなか寝付けなかった。窓を叩く雨音は、春が言っていたように、まるで誰かが戸を叩いているかのようだ。カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、部屋の隅に奇妙な影を落としている。それは、まるで誰かが潜んでいるかのような形に見え、佐野は思わず息を潜めた。
美香が死んでから、クラスの雰囲気は明らかに変わった。誰もがびくびくとし、まるで何かを恐れているかのように互いの顔色を窺っている。それは、雛川の死因に対する曖昧な不安感と、春の奇妙な言動が引き起こす伝染性の恐怖だった。
佐野は、本当に美香の霊が復讐にきているのではないか、という考えが頭から離れなかった。昼間は一笑に付していたはずのその妄想が、夜の闇に紛れて、確かな実体を持つかのように迫ってくる。
美香は、自分たちのグループの中でも特に佐野に忠実だった。その美香が、死後になって自分たちを苦しめるなんて、そんな馬鹿なことがあるはずない。しかし、春のあの憔悴ぶりは、単なる気のせいでは片付けられないほど異常だった。
もしかしたら、美香の霊だけではなく、別の誰かが関わっているのかもしれない。佐野は疑心暗鬼に駆られた。誰かが、自分たちを、いや、特に春をターゲットにして、雛川の復讐をしようとしているのではないか?
しかし、それが誰なのか、全く見当がつかない。クラスの誰もが、この一連の出来事に対して、口を閉ざしているように見えた。無関心を装っているのか、それとも本当に何も知らないのか。あるいは、自分たちを嘲笑っている者がいるのか。
佐野は、自分の部屋の中をじっと見渡した。クローゼットの扉は閉まっているか。窓はきちんと施錠されているか。いつもは何気なく見ていた日常の風景が、今は全く別の意味を帯びて、自分を監視しているかのように感じられた。
彼女はベッドから起き上がり、部屋の隅々まで確認した。何もおかしいところはない。しかし、この「何もない」という事実が、かえって彼女の不安を煽った。見えない敵、実体のない恐怖。それこそが、最も恐ろしいものだった。
佐野は、スマートフォンを手に取り、美香のSNSのページを開いた。美香が最後に投稿した写真には、佐野と取り巻きたちが楽しそうに笑っている姿が写っている。美香の顔は明るく、生き生きとしていた。あの頃の美香は、本当に幸せそうだった。それなのに、なぜ…。佐野の胸に、拭いきれない罪悪感と、不気味なほどの不安が広がった。
翌日も、佐野は学校で上の空だった。授業中、時折、隣の席に座る生徒が自分を窺っているような気がして、思わず視線を向けるが、何も異変はない。しかし、その瞬間、佐野の心臓は激しく鼓動した。
もしかしたら、この中に、自分たちに復讐しようとしている人間がいるのではないか。雛川に同情していた誰か。あるいは、自分たちのグループに恨みを持っている誰か。
佐野は、取り巻きたちとの会話でも、以前のような楽しさを見出せなくなっていた。彼女たちの軽薄な笑い声が、耳障りに響く。もしかしたら、この中にさえ、自分を裏切ろうとしている者がいるのかもしれない。疑念は肥大し、誰もが佐野の敵に見えてくる。
昼休み、佐野は食堂の窓から、校庭をぼんやりと眺めていた。相変わらずの雨模様で、グラウンドは水浸しになっている。そこに在りし日の雛川の姿を幻視する。
佐野の疑心暗鬼は、雛川への憎悪と混じり合い、ますますその色を濃くしていった。雨は、佐野の心の中の嵐を映し出すかのように、激しく降り注いでいた。
佐野は、目の前のパスタを食べる気にもなれず、同時にどうしようもない怒りが込み上げてきた。この全ては、雛川が原因だ。彼女がいなければ、美香も死ななかったし、春もこんな状態にならなかった。そして、自分まで、こんな得体の知れない恐怖に苛まれることもなかったのに。
佐野の疑心暗鬼は、雛川への憎悪と混じり合い、ますますその色を濃くしていった。雨は、佐野の心の中の嵐を映し出すかのように、激しく降り注いでいた。
「佐野、どうしたの? 食べないの?」
隣に座っていた美香の代わりの取り巻きの一人、美咲が遠慮がちに声をかけた。佐野はハッと我に返り、冷え切ったパスタを睨みつけた。食欲は完全に失せていた。
「別に。ちょっと、食欲ないだけ」
佐野はぶっきらぼうに答えた。いつもなら、愛想良く振る舞い、グループの雰囲気を盛り上げる役割も担っていたはずなのに、今の彼女にはそんな余裕はなかった。美咲と、その隣に座る恵は、不安そうに顔を見合わせた。佐野の変化は、彼女たちにも伝わっていた。佐野が不機嫌なのはいつものことだが、今の佐野からは、まるでどこか遠くを見ているような、現実離れした空虚さが感じられた。
佐野はフォークをカチャンと音を立てて皿に置くと、もう一度窓の外の雛川に目を向けた。幻視した雛川はもう、食堂の視界からは消えていた。最初からそこにいなかったかのように。その事実が、佐野の背筋をぞっとさせた。
「あいつ、なんなのよ…」
佐野は唇の端で呟いたが、その声は雨音に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。
午後の授業は、佐野にとって苦痛以外の何物でもなかった。板書する教師の声も、生徒たちのひそひそ話も、全てが遠く、歪んで聞こえる。隣の席の生徒が、ふと教科書に目を落とす仕草さえ、自分を盗み見ているように感じられた。斜め後ろの席から視線を感じ、振り返ると、井川楓がぼんやりと窓の外を眺めていた。その表情はいつもの気だるげなままだが、佐野にはそれが、全ての事態を傍観し、嘲笑っているように見えた。
「なによ…」
佐野は小さく呟いた。井川は何も答えない。ただ、ゆっくりと視線を佐野の方へと向け、一瞬、その何の感情も乗らない瞳と佐野の目が合った。すぐに井川は視線を逸らしたが、その一瞬の沈黙が、佐野の胸に鉛の塊を押し込んだような重さを与えた。まるで、自分が見抜かれているかのような。
放課後、佐野は傘を差して一人、校門を出た。取り巻きたちは、佐野の最近の不機嫌さに辟易し、今日は早々に帰ってしまった。普段ならそんなことはありえない。いつもは佐野が動けば、皆がそれに続く。だが、今の佐野は、リーダーとしての求心力を失いつつあった。
一人になったことで、佐野の不安は一層募った。背後から聞こえる生徒たちのざわめきが、まるで自分への陰口に聞こえる。水たまりに跳ねる雨粒の音は、誰かの足音のように追ってくる。家までの帰り道が、まるで永遠に続く長い道のりのように感じられた。
マンションの鍵を開け、明かりをつけた瞬間、佐野は壁にかけられた美香とのツーショット写真に目が釘付けになった。屈託のない笑顔の美香。その顔が、今はなぜか不気味な嘲笑を浮かべているように見えた。佐野は思わず息を呑み、写真から目を逸らした。
部屋の隅々にまで、湿った空気が纏わりつく。誰かの視線が、部屋のどこかから自分を射抜いているような錯覚に陥る。佐野は、震える手でカーテンを閉め、全ての窓の鍵を確かめた。誰もいない。誰も見ていない。分かっているはずなのに、安心感は全く得られなかった。
佐野は、震える指先で携帯電話を握りしめた。誰かに連絡を取りたい。誰かの声を聞きたい。だが、電話帳をスクロールしても、誰にもかける気になれなかった。誰もが、自分を責めているように感じられた。あるいは、この恐怖が、自分だけのものではないと知るのが恐ろしかったのかもしれない。
佐野は、床に座り込み、膝を抱えた。心臓がドクンドクンと激しく脈打つ。雨音は、もう外からの音ではなく、自分の内側から響く恐怖の鼓動のように感じられた。雛川がよくしていた無感情な顔が脳裏に焼き付いて離れない。
「全部、あんたのせいよ…」
佐野は掠れた声で呟いた。だが、その言葉は、雨音に溶けて、どこへともなく消えていった。暗い部屋の中、佐野はまるで自分自身が、見えない何かに追い詰められているような感覚に陥っていた。この嵐は、まだ始まったばかりだった。
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