恐怖

教室の重苦しい空気は、放課後になっても晴れることはなかった。

梅雨の灰色の空は、窓の向こうで一層その色を濃くし、激しく打ち付ける雨音が、春の心臓に直接響くようだった。


彼女は自席から、空になった隣の席、そしてかつて美香が座っていた空間へと視線を彷徨わせる。

美香の死は、彼女の心に、濁った水が沈殿するかのように重く横たわっていた。あの日の光景が、時折、フラッシュバックのように脳裏をかすめる。


美香がいないという現実。佐野の隣にぽっかりと空いた場所。

それは、春自身にも迫りくる孤独の予兆のように思えた。

その湿った空気は、肺の奥まで入り込み、不安を増幅させる。まるで、世界全体が悲しみに沈んでいるかのようだ。


誰もが顔色を失い、陰鬱な表情で言葉少なげに過ごしているように見えた。

しかし、それは彼女自身の内面の反映に過ぎないのかもしれない。


その夜、春はなかなか寝付けなかった。

窓を叩く雨音は、いつもよりずっと大きく、まるで誰かが戸を叩いているかのようだ。

耳を澄ますと、家全体が湿気を吸い込んだように、微かな軋みや擦れる音を立てている。


何度か、隣の部屋からではない、もっと近く、自分の部屋の内部から聞こえるような、「ギシ」という床鳴りを聞いた気がした。

あるいは、壁の向こうで何かが擦れるような、不規則な音。

最初は気のせいだと自分に言い聞かせた。築年数の経った家だから。雨の音に紛れて聞こえるだけだ。


しかし、一度耳にしたその音は、まるで心臓の鼓動と同期するかのように、増幅されて全身を蝕んでいく。

寝返りを打つたびに、視線の端で暗闇が蠢くように感じる。

美香の、あの無表情な顔が、瞼の裏に焼き付いている。


もし、美香が、本当にどこかで苦しんでいるとしたら……。

そんな考えが、薄暗い部屋の隅々から忍び寄るかのように、春の心を締め付けた。

天井を見上げても、ただ濃い闇があるばかりで、その向こうに潜む何かが、今にも落ちてくるのではないかという妄想に囚われる。


翌日も雨。学校でも、春は上の空だった。

授業の内容は頭に入らず、黒板の文字は意味を持たない記号の羅列に見える。

周囲の生徒たちの話し声も、遠くで響く轟音のようにしか聞こえない。


誰も彼女の変化に気づかない。いや、気づいていても、関わりたくないだけなのかもしれない。

佐野は相変わらず取り巻きに囲まれ、笑い声が教室に響く。

その高揚した笑い声が、春には遠い世界の出来事のように、あるいは自分を嘲笑うかのように響き、彼女の心を一層深く沈ませた。


美香がいた頃の、あの賑やかで安堵に満ちた日常は、もう二度と戻らない。

孤独感と、あの夜の物音の記憶が、昼間の光の中でも彼女を蝕み続ける。


その夜も、物音は続いた。今度はもっとはっきりと、より具体的な形で春を襲った。

午前二時を回った頃、自分の部屋のドアが、ゆっくりと、しかし確実に開く音が聞こえた。

「ギィイイ……」という軋みが、静まり返った闇に不気味に響き渡る。


心臓が喉まで跳ね上がり、全身に冷たい汗が噴き出す。

視線は暗闇に縫い付けられたまま、身動き一つ取れない。誰かがいる。しかし、いるはずがない。

恐怖が全身を麻痺させる。


数秒、いや、数分だっただろうか。

その永遠とも思える時間が過ぎ去った後、ドアが静かに閉まる音がした。

そして、何も音はしなくなった。目を閉じ、毛布にくるまってじっとしていると、呼吸が苦しくなる。


翌朝、目覚めると、枕元に小さな写真が置かれていた。

それは、美香がまだ生きていた頃、佐野たちとカフェで屈託なく笑っていた写真だ。

しかし、写真の中の美香の顔だけが、異様なほど白く塗りつぶされ、瞳は黒い虚ろな穴に、口元は絶望的な形に歪められていた。


震える手でそれを拾い上げると、まるで腐敗した肉に触れたかのような嫌悪感が広がる。

すぐにゴミ箱に捨てたが、その悍ましい「遺影」は、春の脳裏に焼き付いて離れなかった。


数日後。春は精神的に極限に達していた。

常に誰かに見られているような視線を感じ、夜は一睡もできない。

疲労困憊で重くなった瞼を閉じると、すぐにあの美香の顔が浮かび上がる。


部屋の電気が突然点滅したり、誰もいないはずの場所から美香の声が聞こえたりする。

それは、美香が普段口ずさんでいた流行歌の一節だったり、あるいは春だけに打ち明けた秘密の言葉だったりした。

特に、一人でいる時に聞こえる「どうして……助けてくれなかったの……」「私を置いて逝ったの……あなたたちも……」という囁きが、耳の奥で、そして頭の中でこだまする。


その声は、春の罪悪感を直接抉り、彼女の心を根底から揺さぶった。幻覚なのか、現実なのか、もう判断がつかない。

食欲も失せ、授業中も意識が朦朧としてくる。

鏡に映る自分の顔は、目の下に濃い隈を作り、生気を失っていた。

肌は雨に打たれた花のように蒼白く、唇は乾いてひび割れている。


ある日の昼休み、春は意を決して佐野に話しかけた。

佐野は取り巻きたちと食堂の席で笑いながらランチを食べていた。

春は震える足で、その賑やかな輪に近づく。


「佐野……あのね、最近、変なの……」

彼女の声は震え、視線は泳いでいた。周囲の生徒たちの視線が、自分に集まるような錯覚に陥る。

佐野はフォークの先でパスタを巻きながら、軽く顔をしかめた。


「何よ、春。変なのって何?また幽霊の話?いい加減にしてよ」

佐野の言葉は、普段より突き放すような響きを含んでいた。


「ち、違うの……美香が……美香の声が聞こえるの。私の部屋で……写真も……変なのが……」

春は言葉を詰まらせ、美香の顔が歪められた写真のことを思い出して、涙が滲んだ。

もう、誰かに話さずにはいられなかった。佐野に話せば、きっと何とかしてくれる。かつての彼女のリーダーシップを信じたのだ。


佐野は露骨に嫌そうな顔をした。食べるのをやめ、腕を組み、春を上から下まで見やる。

「はぁ?あんた、いい加減にしてよ。美香はもういないの。亡くなった人をそんな風に言うなんて、どうかしてるんじゃない?疲れてるだけよ。そんなこと言ってたら、みんなに気味悪がられるわよ。私まで変な目で見られるじゃない」


佐野の言葉は、氷のように冷たく、春の心を深く抉った。

取り巻きたちも、戸惑ったような、あるいは嘲るような視線を春に送る。その視線が、春を突き刺した。

誰一人として、彼女に寄り添おうとしない。


春は何も言い返すことができず、ただ口を開閉させるだけで、声は出なかった。

彼女は、その場から逃げるように、泣きそうになりながら立ち去った。

佐野は呆れたように肩をすくめ、取り巻きたちと再び笑い始めた。


春の恐怖は、誰にも理解されず、彼女は深い孤独の中に突き落とされたのだった。

雨は、今日も降り止まない。

校舎全体が、春の絶望を映し出すかのように、薄暗く沈んでいた。その湿った空気は、春の心臓をじわじわと蝕んでいくようだった。


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