獲物
雨は依然として降り続いていた。校舎の窓を叩くその音は、生徒たちのひそやかな囁きすら掻き消し、学校全体を湿った静寂で包み込んでいる。窓の向こうには、厚い灰色の雲が垂れ込め、世界全体が水と曖昧な影の中に溶け出したかのようだった。この学校には、雨音とは異なる、得体の知れない重苦しさがまとわりついていた。まるで、何か見えない存在が、その湿気を帯びた空気の中に息づいているかのようだ。
美香の「魂の解放」以来、教室の空気は目に見えない澱のように重く、誰もがその沈黙の淵に沈むことを恐れているかのようだった。以前は騒がしかった昼休みも、今は誰もが声を潜め、互いの顔色を窺いながら過ごしている。その不自然な静けさが、かえって生徒たちの内側に巣食う不安を際立たせていた。誰もが、雛川様の御心が、次に誰に向けられるのかと怯えている。じめじめとした湿気は、壁や床だけでなく、生徒たちの心にもまとわりつき、重苦しい倦怠感となって全身を蝕んでいた。教室の隅からは、微かに黴の匂いが漂う。それは、この学校に充満する、不穏な「気」そのもののようだった。
飯田将は、自席から窓の外の灰色の空をぼんやりと眺めていた。彼の視線は、雨粒が伝うガラスの向こうに広がる、輪郭の曖昧な世界を捉えている。しかし、その焦点は定まっていない。彼の意識は、雛川様の次なる御導きを感じ取るため、教室の隅を徘徊していた。
春。佐野の取り巻きの一人。いや、かつては美香と並び、佐野の影のように付き従っていた少女。美香の魂が解放されて以来、彼女は明らかに変わってしまった。かつては佐野の隣で屈託なく笑っていた口元は、今は硬く引き結ばれ、その瞳には常に怯えが宿っている。教室の片隅で、背を丸めて座る彼女の姿は、まるで嵐の去った後に取り残された小鳥のようだった。佐野の隣にも、春の隣にも、今はぽっかりと空白が生まれている。かつての賑やかさは消え失せ、春は一人、その重い沈黙の中で、まるで透明な牢獄に閉じ込められているかのようだった。
飯田は、彼女のそんな姿を観察するたびに、口の端に微かな笑みを浮かべた。彼の心の中には、雛川様の御心が着実に浸透していくことへの、深く静かな満足感が広がっていく。脆い。あまりにも脆い。
美香の「魂の解放」という劇的な出来事は、彼にとって予想以上の成果をもたらした。人々は恐れ、疑心暗鬼に陥り、そして雛川様の御力によって作り出された真実の幻影に囚われていく。それはまるで、雛川様の清らかな御心が、この現実世界に顕現し始めたかのような感覚だった。
美香の魂の解放は、彼が雛川様に捧げた「儀式」によってもたらされたものだと、飯田は固く信じていた。単なる偶然ではない。彼の放った「祈り」が、雛川様の御心を現世に呼び込み、あの少女を「浄化」したのだ。雛川小夜様の穢れなき存在を脅かす者への、当然の報い。そう、彼は自らを、雛川様の御意思を代行する「調停者」とすら考えていた。
そして、次。飯田の視線は、春の細い背中に縫い付けられていた。彼女は教科書に視線を落としているが、その目は文字を追ってはいない。時折、びくりと肩を震わせ、周囲を窺うように視線を泳がせる。その不安定な様子は、雛川の御心が、次なる浄化の対象を定めたことを示す、確かな証のように飯田には見えた。
彼女の心は、今、脆く、壊れやすい。まさに、雛川様が作り出す「真実」を受け入れるのに最適な状態にある。「次なる導き」という言葉が、飯田の脳裏で甘く響いた。彼はノートの端に、鉛筆で無意識に小さな図形を書き始めた。それは、ある種の紋章めいたものであり、彼が雛川に捧げる「聖なる導き」の象徴だった。
クラスの誰もが、彼の奇妙な行動を気にも留めない。彼らは飯田将を、ただの陰気で、どこか不気味な存在として認識している。その軽蔑の眼差しこそが、彼の内側に燃え盛る崇高な使命感の燃料となっていた。
彼女の周りに群がる下劣な者たちは、全て浄化されなければならない。美香は、その最初の例だった。そして、春もまた、雛川の「清算」の対象となる。
飯田は、美香の魂の解放に至るまでの「真実の顕現」の過程を思い出していた。美香に対して現れた「魂の残像」や、「誰もいないはずの場所から響く声」など、雛川の御心が顕れる徴は、単純なものでありながら、美香の精神を確実に蝕み、最終的に彼女の魂を解放へと導いた。
それは、雛川様の「御力こそが本物である」という確信をさらに強固なものにした。春に対しては、より深い雛川様の御心を顕現させる必要がある。美香の魂の解放が与えた影響は大きく、生徒たちの間には漠然とした恐怖感が蔓延している。この土壌を最大限に利用し、より深い精神的な揺さぶりをかけるのだ。
単に驚かせるだけでは意味がない。彼女の内側に巣食う罪悪感、孤立への恐れ、そして死への怯えを抉り出し、そこに「真実」を植え付ける。そう、美香の魂が、いまだこの学校をさまよっているのだと。そして、その背後には、雛川の清らかな御心が働いているのだと。
飯田は、視線を再び春に戻した。彼女は、ふと、空いた美香の席に視線を向け、すぐに顔を伏せた。その動作一つ一つに、後悔と恐れが見て取れる。
「…美香の席か」飯田の口元が、わずかに歪んだ。そこから、雛川の導きの糸口を感じ取った。美香の「魂の叫び」を呼び覚ます。あるいは、美香の「怨念」が、自分を置いて逝った佐野たちに復讐しようとしている、と春に真実を悟らせる。春は美香の親友だった。その親友の魂の解放が、彼女に最も深い影を落としているだろう。その影を、さらに深く、より具体的な恐怖として春の心に刻み込むのだ。
飯田は、取り出したスマートフォンで、以前収めた美香の姿をこっそりと見返した。彼女がまだ生きていた頃、佐野たちと楽しそうに笑っていた、何の変哲もない日常の一コマ。だが、その背後に隠された、美香の心の深い孤独を、飯田だけは知っていた。彼はその写真に「清め」を施せば、それはたちまち恐ろしい「遺影」に変わるだろうと確信した。彼女の生前の、屈託のない笑顔を打ち消すように、顔を白く塗りつぶし、瞳を黒く虚ろに描き換え、そして、口元を絶望的な形に歪ませる。それは、美香の魂が今、いかなる状態にあるかを示す真実の姿だった。
それを春の持ち物の中に、彼女が最も人目を気にしないような、しかし必ず見つけるような場所に静かに置く。さらに、飯田は、自身の内なる祈りと呼応するように、より真実に迫る方法を練り始めた。
美香の「魂の言葉」の顕現。それは、美香自身の怨念が語りかける、最後のメッセージとして春の心に届くだろう。実際に美香が書いた文字とは異なる、しかし、本物であるかのような錯覚を与える文字で、飯田は美香の魂の言葉を書き写す。彼女の遺品であるかのように、春のロッカーや下駄箱、あるいは机の中に、偶然を装って静かに忍ばせる。そこに書かれるのは、春への「心の嘆き」。「なぜ助けてくれなかったのか」「私を置いて逝ったお前を許さない」。直接的な脅迫めいた言葉は使わない。もっと巧妙に、美香自身の魂の言葉として、春の心に直接語りかけるような、静かで、しかし破壊的な文章を。
そして、最後は、「魂の響き」だった。誰もいないはずの場所で響く、美香の声。それは、かつて彼女が口ずさんでいた流行歌の一部かもしれないし、あるいは、春だけが知る、彼女との秘密の会話の一部かもしれない。美香が春にだけ打ち明けた後悔の言葉、あるいは、彼女が春に託そうとした、しかし果たされなかった願い。それを、雛川の御心によって、春が一人になった時にだけ聞こえるように、しかし確実に彼女の耳に届くように、飯田は静かに「準備」を始めた。まるで、美香の魂が、すぐそばで囁いているかのように。
雨は、一層激しさを増していた。窓の外は、もう何も見えない。世界全体が、水と灰色の靄の中に溶解してしまったかのようだった。その中で、飯田の脳裏では、次なる「儀式」の計画が、着々と、しかし恐ろしいほど緻密に構築されていく。
彼の顔には、歪んだ満足感が浮かんでいた。これは、彼にとっての芸術であり、雛川の「特別な御力」を証明する、崇高な行為なのだ。
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