手紙への抵抗

けたたましいチャイムの音は、井川の思考の糸を寸断し、その手から手紙を取り落とす寸前まで追いつめた。心臓は、まるで身体から飛び出そうとでもするかのように激しく脈打つ。誰が。こんな雨の日に。そして、なぜ今。頭の中を、混乱と恐怖が嵐のように駆け巡る。目の前の封筒が、まるで底なしの沼への入り口であるかのように思えたその時、現実に引き戻すかのように鳴り響いたチャイムは、皮肉にも井川に猶予を与えた。


チャイムは一度止み、そしてすぐに再び、今度はより長く、執拗に鳴り続ける。ひび割れた声が、玄関の向こうから微かに聞こえるような気がした。しかし、その声が誰のものであるかは判然としない。こんな時間に訪ねてくる人物として、井川の脳裏には一人しか浮かばなかった。――佐野愛だ。しかし、彼女が何の用で?あるいは、手紙に記された「雛川より」という文字を知る誰かが、この状況を見透かすかのように現れたのか。いずれにせよ、今、この手紙を開封するべきではない。玄関の向こうにいる存在が、この瞬間の井川にとって、手紙を開くことへの確かな障壁となった。彼女は、恐怖に凍りついたまま、ただその場に立ち尽くしていた。


チャイムは数度鳴り響いた後、やがてぷつりと途切れた。外から聞こえるのは、豪雨が打ちつける音だけだ。足音が遠ざかるような気配はなかったが、玄関の向こうからは何も聞こえなくなった。井川は、呼吸を整えるために、深くゆっくりと息を吐き出す。しかし、肺を満たすのは、雨がもたらす重い湿気だけだった。張り詰めていた糸が切れたかのように、全身の力が抜けていく。開けなくて済んだ。胸の奥に、安堵と同時に、言いようのない罪悪感が広がった。


手紙は、まだ彼女の膝の上に置かれたままだ。白い封筒は、照明の落ちた部屋の中で、ぼんやりとその存在を主張している。井川は、それに触れることすら躊躇し、視線を逸らした。まるで、少し目を離した隙に、その封筒が何か別の、おぞましいものに変貌してしまうのではないかと恐れるように。ゆっくりと立ち上がり、リビングの隅に置かれた本棚の方へ向かう。埃を被った小説の束の間に、その白い封筒をそっと差し込んだ。表紙の間に埋もれるように、手紙は姿を消した。これで一旦は、目の前から消え去った。そう思うことで、井川はわずかな平静を取り戻そうとした。


しかし、手紙はそこにある。姿が見えなくなっても、その存在感は、部屋の空気そのものに染み渡り、井川の意識を離れることはなかった。数日間、雨は降り続いた。じめじめとした湿気が、家の隅々までまとわりつき、何もかもが重苦しい。梅雨特有の陰鬱な空気が、井川の心にも深く根を張っていた。食欲は湧かず、食事はただ義務的に胃に流し込むだけ。眠りにつこうと目を閉じても、瞼の裏にはあの白い封筒が焼き付いている。そして、その背後には、雛川小夜の透明な姿が常にあった。彼女が、かつて教室の隅で膝を抱え、小さくなっていた姿。佐野たちの執拗な嘲笑にも、ただ俯いて耐えていた、あの希薄な存在。その姿が、今はまるで、井川の寝室に潜む、不可視の監視者のように感じられた。


夢もまた、安息を与えてはくれなかった。白と黒の曖昧な世界の中を、井川はただひたすら歩き続ける。やがて、遠くに小さな人影が見える。それは、美香だった。振り返る美香の顔は、驚くほど生気がなく、口元は歪んだ笑みを浮かべていた。その手には、一枚の白い紙。美香がその紙を差し出すと、それは瞬く間に巨大な封筒へと姿を変え、井川の目の前に立ちはだかる。封筒からは、どろりとした黒い液体が染み出し、地面に広がる。その液体が、井川の足元にまで迫り、彼女は恐怖に金縛りにあったように動けなくなる。そこで、いつも目が覚める。心臓は激しく鼓動し、全身からは冷や汗が噴き出していた。


朝を迎えても、倦怠感は消えなかった。朝食を摂るリビングの片隅に、手紙は確かに存在している。井川は視線を向けないように努めるが、その方向から常に何かを見られているような感覚に苛まれる。まるで、手紙が彼女の意識を、静かに、しかし確実に侵食しているかのようだ。開けるべきか、開けざるべきか。その問いは、彼女の頭の中で無限に繰り返され、思考を麻痺させた。開けてしまえば、美香の死を取り巻く醜悪な真実が、あるいは、雛川という存在の底知れぬ闇が露わになるだろう。それは、井川の波風立てずに生きてきた平凡な日常を、根本から破壊する。しかし、開けずにいることは、美香への、そして雛川への、計り知れない罪悪感を募らせる。自分は、傍観者でいることを選んで、また何かを失うのか。その自問自答は、梅雨の長雨のように、とめどなく続き、井川の心を深く沈ませていった。


本棚の隙間に隠された手紙は、まるで生き物のように井川の意識にまとわりつく。ある日の午後、いてもたってもいられなくなり、井川は再びその手紙を手に取った。薄い紙の感触は、以前よりも冷たく、そして生々しい質量を帯びているように感じられた。指先が封のされた部分をなぞる。ひゅう、と微かな空気が漏れるような音がする錯覚。この中に、どんな言葉が隠されているのか。それは、雛川小夜の最後の言葉なのか、それとも、彼女を取り巻く、より深い闇への招待状なのか。考えるほどに、指先の震えは止まらない。しかし、結局、井川は手紙を開くことができなかった。鉛のように重く、生臭い匂いのする錯覚を伴うその白い封筒を、彼女は再び、本棚の奥へと押し込んだ。蓋をしたはずの恐怖は、今や部屋の空気と一体化し、井川の呼吸のたびに、肺の奥深くまで侵入してくるかのようだった。雨音だけが、絶え間なく鳴り響く。その音は、井川の心臓の鼓動と混じり合い、まるで世界全体が、彼女の内に秘められた恐怖を増幅させているかのようだった。

その雨は、翌日も、またその翌日も降り続いた。梅雨前線が停滞し、日本列島全体が重苦しい灰色の雲の下に閉じ込められたかのようだった。井川の家もまた、例外なく湿気に覆われ、壁紙の隙間から黴の匂いが微かに漂う。窓の外は常に白い膜が張られたようにぼやけており、世界の輪郭が曖昧になっていくような感覚が井川を襲った。


本棚の奥に押し込んだはずの手紙は、もはや幻覚のように井川の視界の端にちらつき、あらゆる思考の中心に居座っていた。朝、目覚めて最初に思い出すのはあの白い封筒の形状だったし、学校へ向かうバスの中で車窓を流れる雨粒を眺めていても、その一粒一粒が手紙に染み出した黒い液体に見えるような錯覚に陥った。友人と何気ない会話を交わしていても、心ここにあらず。空虚な笑顔の裏で、井川は常に「開けるべきか、否か」という終わりのない問いに苛まれていた。


ある日の夕方、雨脚が少し弱まったかと思いきや、再び窓を叩きつける音が激しくなった頃、不意に電話が鳴った。ひっきりなしに続く雨音の中で、突然響いた電子音は、井川の神経を逆撫でするように不快だった。受話器を取るべきか否か。一瞬の逡巡の後、ディスプレイに表示された「美咲」の文字を見て、井川はゆっくりと受話器を手に取った。


「もしもし?」


井川の声は、思っていたよりもずっと掠れていた。呼吸すらまともにできていなかったことに、そこで初めて気づく。


『楓?よかった、出てくれて。あのね、最近、楓が元気ないみたいだから心配で。』


美咲の声は、いつもにも増して小さく、不安げに揺れていた。雨音のせいか、あるいは美咲自身の緊張のせいか、ところどころ聞き取りにくい。


「ううん、元気だよ。雨続きで、ちょっと体がだるいだけ。美咲こそ、大丈夫?」


井川は、不自然なほど明るい声を出そうと努めた。しかし、喉の奥から絞り出された言葉は、自分の耳にもひどく嘘くさく響いた。自分の頬が引きつるのを感じた。心臓が、まるでマラソンでもした後のように激しく脈打っている。


『私も、なんか、変な感じ。クラスの中も、みんな、いつもより静かだし……。なんだか、どこか落ち着かないっていうか。』


美咲は言葉を選びながら、ゆっくりと話す。美咲は普段ならもっと他愛ない話をするはずなのに、今はただ漠然とした不安だけを口にしている。その気遣いが、かえって井川の胸を締め付けた。この沈黙が、美香の不在を、そして雛川小夜の影を、雄弁に語っているかのようだった。スピーカーからは、途切れることのない雨音が聞こえてくるだけだ。その音は、まるで美咲の言葉にならなかった不安を、代わりに語っているかのようだった。


「そっか……。この雨じゃ、気分も沈むよね。」


井川は無理やり話をそらした。これ以上、美咲と美香や雛川の話をするのは、今の自分には耐えられなかった。美咲もそれ以上は踏み込まず、曖昧な返事をした後、「またね」と告げて電話を切った。


受話器を置くと、井川はソファに深く沈み込んだ。美咲の言葉は、井川の心を揺さぶっただけだった。まるで、波紋が広がるように、手紙への罪悪感が再び井川を襲う。傍観者である自分。ただ見て見ぬふりをし、嵐が過ぎ去るのを待つだけの自分。それは、美香や雛川を、再び孤独の中に置き去りにしているのと同じではないか。


ずしりと重い体が、しかし、まるで磁石に引き寄せられるように、本棚のほうへ向かっていた。埃を被った小説の隙間から、あの白い封筒が、わずかに顔を覗かせている。その薄い紙の存在が、今の井川には、世界の真実全てを内包しているかのように感じられた。指先が震える。今度こそ。今度こそ、私はこれを……。

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