差出人不明の手紙

自宅の玄関を開けた瞬間、生ぬるい、じめりとした空気が井川楓の全身にまとわりついた。梅雨特有の、カビ臭いような湿り気が鼻腔をくすぐる。靴を脱ぎながら、彼女は重く淀んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。学校の蒸し暑さとはまた違う、自宅の閉塞感が、日中のざわめきで疲弊した神経をさらに重くする。玄関の脇に設置された郵便受け。いつもは広告や請求書が詰まっているだけの、何の変哲もない箱だ。だが、今日は、その隙間から白い封筒の端が僅かに覗いているのが目に入った。いつもの無関心な癖で、そのまま通り過ぎようとした井川の足が、ふと止まる。何かに導かれるように、いや、むしろ引き寄せられるように、彼女は郵便受けに手を伸ばした。


指先が触れたのは、厚手の、しかしどこか粗い質感の白い封筒だった。その重さは、中に何枚かの紙が収められていることを示唆していた。表には差出人の名前はなく、ただ、手書きで「井川楓様」とだけ記されている。そして、裏面には、一見すると何の変哲もない、しかし井川の心臓を鷲掴みにする五文字が、丁寧に、しかし不気味なほど整然と書かれていた。「雛川より」。


その瞬間、彼女の頭の中に、昨日までの教室の光景が、まるで走馬灯のように駆け巡った。佐野愛の顔に浮かんだ恐怖と焦燥。美香の空席。春の掠れた声で呟かれた「祟り」という言葉。そして、クラスの隅で、まるでこの世の出来事とは無関係であるかのように、ただノートに何かを書き続ける飯田将の、あの不気味な笑み。点と点が、今、この手紙を媒介にして、一本の嫌な線で結ばれたかのように感じられた。


井川は、封筒を握りしめたまま、その場で立ち尽くした。指先が僅かに震えている。雛川小夜。あの透明な少女が、なぜ自分に手紙を?死ぬ前に?彼女はいつも、教室の隅でひっそりと息を潜めていた。佐野たちの執拗ないじめにも、抵抗することなく、ただ静かに耐えていた。その姿は、まるでそこに存在しないかのように、あまりにも希薄だった。井川は、その全てを遠い舞台の上の出来事のように傍観していた。何の感情も抱かず、ただ「ああ、またか」と、惰性で眺めていた。あの時の無関心さが、今、重い鎖となって井川の喉元に絡みつき、呼吸を困難にしているかのようだった。


なぜ雛川が自分に?内容への漠然とした恐怖が、井川の手を硬くする。開けてしまえば、何か取り返しのつかないことが始まる。そんな確信にも似た予感が、彼女の全身を支配した。雨音が、外から途切れることなく聞こえてくる。しとしとと、時にはざあざあという音に変わり、またすぐにしとしとと、その音は家の壁を叩き続ける。湿気を帯びた空気が、封筒の紙の感触を一層生々しく、冷たく感じさせた。薄い一枚の紙なのに、鉛のように重く、そしてどこか生臭いような匂いがする錯覚に襲われた。


リビングのソファに、井川はゆっくりと腰を下ろした。手紙は、膝の上に置かれたままだ。白い封筒の上に、自分の震える指先を滑らせる。わずかな凹凸が、そこにある紙の繊維の存在を主張する。開けてしまえば、美香の死を取り巻く得体の知れない事態に、自分もまた引きずり込まれてしまうような気がした。過去の記憶が、濁流のように押し寄せる。雛川が、教室の隅で膝を抱えて小さくなっていた姿。彼女が纏っていた、あの透明な空気。まるで最初からこの世界に存在しないかのように、希薄な存在だったはずの彼女が、今、確かな質量を伴って、目の前にある。


窓の外は、もう薄暗くなり始めていた。空は鉛色を通り越し、夜の帳が降り始める直前の、曖昧な青灰色に染まっている。雨は、少し弱まったものの、まだ止む気配はない。部屋の隅に転がる、数日前の新聞が目に入った。美香の死を報じる、大きく躍る見出し。それはまるで血痕のように、井川の網膜に焼き付いている。その記事と、目の前の手紙が、不可分なものとして彼女の意識の中で結びついた。


井川は、手紙から目を離し、薄暗い部屋の隅に視線を向けた。誰もいないはずの空間に、何かの視線を感じるような、おぞましい錯覚。それは、雛川小夜という存在が、もはや単なるクラスメイトではなく、不可視の、しかし強大な力を持った「何か」に変貌してしまったかのような、戦慄すべき感覚だった。この手紙が、自分を、どこへ連れて行こうとしているのか。その問いは、雨音に掻き消され、ただ虚しく響くだけだった。不吉な予感。それは、梅雨の湿気のように、どこまでもまとわりついてくる。井川は、手紙を胸元に引き寄せ、そのままじっと目を閉じた。呼吸が、浅く、速くなるのを感じた。

胸元に引き寄せた封筒が、心臓の鼓動に合わせて微かに震えている。紙一枚の薄っぺらさが、こんなにも重く、そしてどこか生々しい質量を帯びていることに、井川は戦慄した。この封筒には、もはや紙以上の、何か別のものが宿っているかのようだった。


薄く開いた瞼の隙間から、リビングの輪郭がぼんやりと滲んで見える。部屋の隅に置かれた、いつか誰かが置いていったままになっている雑誌の山が、まるで人影のように見え、井川は思わず息を呑んだ。幻覚だと分かっていても、背筋を這い上がる悪寒は消えない。雛川小夜の存在が、今や現実の境界線を超え、この閉鎖的な空間全体を蝕んでいるような錯覚に陥る。


「雛川より」。その五文字が、彼女の脳裏に焼き付いて離れない。透明な少女。誰の目にも触れず、誰の心にも残らず、ただそこにいるだけの存在。そんな彼女が、一体何を伝えようとしているのか。否、伝えたがっているのは、本当に雛川なのか?彼女のあの希薄な存在が、これほどまでに執拗なメッセージを、自分の元に送るとは考えられなかった。


ふと、井川の脳裏に、飯田将の顔が浮かんだ。あの、教室の隅でノートに何かを書き続ける、不気味なほどの集中力。そして、美香の死が明るみに出てからの、彼のあの歪んだ笑み。点と点が線で結ばれていく。まさか、飯田が?しかし、封筒に書かれた「雛川より」という文字は、まるで雛川本人が書いたかのように、丁寧で、そしてどこか儚げな筆跡だった。それは、飯田の無骨な文字とは似ても似つかない。


混乱が、思考を鈍らせる。手紙を開ければ、全ての謎が解けるかもしれない。だが、その謎が、どんな醜悪な真実を暴き出すのか。美香の死の裏に隠された、人間の暗部。あるいは、雛川という存在の、今まで誰も知らなかった側面。どちらにせよ、それは井川の平凡で退屈な日常を、根本から破壊するだろう。波風立てずに生きてきた自分には、到底受け止めきれない、深い闇がそこに広がっているような気がした。


外の雨音が、再び強くなった。ざあざあと、まるで世界が洗い流されるかのような豪雨。その音は、井川の耳の奥にまで響き渡り、やがては自分の心臓の鼓動と混じり合って、一つになっていくようだった。喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込もうとしても、うまく機能しない。


井川は、ゆっくりと目を開けた。そこには、やはり誰もいない、いつもと変わらない薄暗いリビングが広がっている。だが、一度感じてしまった「視線」は、拭い去ることができない。ソファの背もたれに身を預け、手紙をもう一度、目の高さまで持ち上げた。白い封筒の端が、湿気を吸って僅かに波打っている。その紙肌の粗い感触が、指先に生々しく伝わってくる。


「……雛川」


か細い声が、乾いた喉から漏れた。それは、祈りにも似た、あるいは呪詛にも似た、曖昧な響きを持っていた。自分がこれまで傍観してきた、あの透明な少女が、今、自分に何を語りかけようとしているのか。あるいは、何を要求しようとしているのか。考えるほどに、その未知の領域への恐怖が、井川の思考を麻痺させた。


開けるべきか。開けざるべきか。その問いが、頭の中で無限に繰り返される。開ければ、引き返せない一歩を踏み出すことになる。開けなければ、このまま疑問と恐怖に苛まれ続けるだろう。どちらを選んでも、この梅雨のようにじめじめとした陰鬱な気持ちから逃れられない。


井川は、封筒の封がされた部分に、震える親指の爪をそっと立てた。ひゅう、と微かな空気が漏れるような音がした。湿気で糊が弱くなっているのか、あるいは、この手紙自体が、まるで生き物のように彼女に開かれることを望んでいるのか。もう後戻りはできない、という諦めにも似た感覚が、全身を駆け巡った。


指先に僅かな力を込め、ゆっくりと封を破ろうとした、その瞬間――。

玄関のチャイムが、けたたましく鳴り響いた。不意を突かれた音に、井川の全身は大きく跳ね上がった。心臓が、まるで肋骨を打ち破るかのように激しく脈打つ。誰が?こんな雨の日に、こんな時間に。考えられるのは、ただ一人……。だが、その可能性を打ち消すように、チャイムは再び、今度はより長く、しつこく鳴り続けた。ひび割れた声が、玄関の向こうから微かに聞こえるような気がした。


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