動揺と疑惑
佐野愛は、爪先で床を苛立たしげに叩いた。視線は、美香の空席に釘付けになっている。その席は、昨日まで乱雑に置かれていた教科書やノートが全て片付けられ、まるで最初から誰も存在しなかったかのように、虚ろな空間を晒していた。クラス中のひそひそ声が、湿気を帯びた空気に吸い込まれては消え、また新たな囁きとなって耳に届く。佐野は、その全てを煩わしく感じていた。自分の周りの秩序が乱されることを何よりも嫌う彼女にとって、美香の死がもたらしたこの不穏な空気は、まさに忌々しい波紋だった。
「本当に、バカな子ね」
佐野は、隣の席で俯く春に、わざとらしく聞こえるような声で呟いた。その声には、僅かながらに苛立ちが混じっていた。春は、ビクリと肩を震わせ、顔色をさらに悪くする。その焦点の定まらない瞳は、自分の膝を見つめたまま動かない。唇は青ざめ、か細く震えている。佐野は、そんな春の怯えを目の当たりにし、内心で舌打ちをした。自分の取り巻きが、こんなにも無様に恐怖に震えている姿は、彼女の優位性を揺るがすようで気に食わなかった。しかし、同時に、春の底知れない恐怖が、佐野自身の心の奥底にも、薄ら寒い影を落とし始めていた。
「……佐野、さん。あの、本当に、美香は、自殺、だったのかな」
春が、掠れた声で、ようやく言葉を絞り出した。その声は、ほとんど息のようなもので、佐野の耳に届くか届かないかの瀬戸際だった。佐野は、ギロリと春を睨んだ。春は、その視線に怯え、またしても身体を縮こまらせる。しかし、彼女の言葉は、佐野の胸に鈍い石を投げ入れた。警察の発表は「自殺」。それは疑う余地のない事実として、佐野も自分に言い聞かせていた。だが、春の震える声に宿る疑念が、佐野の内にあった、薄い膜のような均衡を破った。
「馬鹿ね。警察が自殺だって言ってるんだから、そうなんでしょ。だいたい、誰かが関わったとしたら、あたしたちが知らされないわけないじゃない」
佐野は、努めて冷徹な声で反論した。だが、その言葉には、どこか無理があった。美香の遺体が発見された廃墟。その現場で見つかったという、雛川小夜のペンダントの破片。ニュースでは「奇妙な痕跡」としか報道されていなかったが、佐野は以前、雛川をいじめた際に、そのペンダントを足で踏みつけた記憶が鮮明に残っていた。あの時、踏み砕いたはずのそれが、なぜ今、美香の死体があった場所に?
頭の中で、いくつもの点と点が、不気味な線で結ばれていく。雛川小夜。あの薄気味悪い女。いつもどこか遠い世界を見ているような瞳で、あたしたちを蔑んでいた。そんな雛川を、あたしたちは徹底的に追い詰めた。そして、その数日後に、美香が……。梅雨のじめじめとした湿気が、全身にまとわりつくように重い。窓の外は、相変わらず鉛色の空で、雨脚はさらに強くなっていた。校舎全体が、まるで巨大な牢獄のように、生徒たちを閉じ込めているようだった。
「……まさか、雛川の、祟り、とか……」
春が、ほとんど口パクで呟いた。その言葉は、佐野の耳に、雷鳴のように響き渡った。佐野は、思わず息を呑む。そんな非科学的なことを信じるなんて、自分らしくもない。だが、美香の死を取り巻く不自然さ、そして、あのペンダントの存在。何よりも、自分たちの行動が、結果的に雛川を追い詰めたという罪悪感にも似た感情が、佐野の心を苛んでいた。恐怖が、傲慢な彼女のプライドを、内側から少しずつ侵食していく。
佐野は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。自分の支配下にない、理解不能な力が働いている。それは、彼女にとって最も忌避すべき事態だった。もし、本当に雛川の怨念が、自分たちを狙っているとしたら……。佐野の顔から、普段の余裕が消え失せ、代わりに得体の知れない不安が宿る。彼女は、ふと視線を教室の隅へと向けた。そこでは、飯田将が、変わらずノートに何かを書き続けている。その口元には、やはり微かな笑みが浮かんでいるように見えた。彼は、この状況を、まるで他人事のように傍観している。いや、それどころか、この状況を楽しんでいるかのようにさえ見えた。
飯田の、その異様なまでに穏やかな表情が、佐野の胸に新たな疑念の波を立てた。美香の死と、飯田。二つの線が、頭の中で無理やり結びつきそうになる。しかし、具体的な証拠は何もない。ただ、胸の奥で、じっとりとした湿気のように、嫌な予感が広がるだけだった。井川楓は、そんな佐野の僅かな動揺を、まるで遠い舞台の上の演劇でも見るかのように、冷めた瞳で眺めていた。彼女の心にも、美香の死と、その背後にある見えない影に対する、漠然とした疑念が、ますます深く根を張っていた。しかし、その疑念を声に出すことは、結局のところ、彼女にはできなかった。
井川楓は、冷めた瞳でその光景を眺めていた。佐野の顔から生気が失われ、焦燥と怯えが刻まれていく様は、まるでこれまで貼り付けていた仮面が剥がれ落ちる瞬間のようだった。クラスの中心に君臨していた女王の、まさかの動揺。それは井川にとって、どこか遠い場所で起きている芝居のように映った。彼女自身の心には、同情もなければ、特別な感情の揺れもない。ただ、漠然とした好奇心と、この日常がどこへ向かうのかという、薄い興味だけが漂っていた。
美香の死。雛川のペンダント。飯田の不気味な笑み。点と点が結ばれていくのを、井川は静かに見つめていた。まるで、誰かが用意した筋書きの通りに、登場人物たちが踊らされているかのように。そして、自分もまた、その舞台の片隅に立たされた観客の一人なのだと。
窓の外では、雨音が途切れることなく続いていた。じめりとした空気が肌にまとわりつき、教室のあらゆるものが、その湿気を吸い込んで重く沈んでいるかのようだった。黒板のチョークの文字はぼやけ、教科書のページは湿って指に貼り付く。全てが曖昧で、不鮮明な世界。その中で、佐野の微かな嗚咽が、ひそひそ声の合間を縫って、井川の耳に届いた。
佐野は、隣に座る春に縋るように、しかしどこか突き放すように、掠れた声で呟いた。
「……どう、すればいいのよ。あいつ、本当に……」
その声は、かつての威厳を完全に失い、ただの怯える少女のそれだった。春は、何も言えずにただ首を横に振る。その瞳には、佐野とはまた違う、諦めにも似た深い絶望が宿っていた。二人の間に、重苦しい沈黙が降り注ぐ。
井川は、ふと飯田に目をやった。彼は相変わらず、何事もなかったかのようにノートにペンを走らせている。時折、その細い指が不自然なほど素早く動き、新たな文字を綴っていく。そして、その口元には、やはり変わらない、薄気味悪い笑みが浮かんでいた。それはまるで、遠い昔から全てを知っていたかのような、あるいは、この事態を心から歓迎しているかのような、歪んだ表情だった。
井川は、その飯田の笑みが、佐野の恐怖と、雛川小夜そして美香の死が織りなす不協和音の中で、最も異質な存在感を放っていると感じた。彼の存在は、この閉塞した教室に、さらなる不穏な影を落としている。井川の心の奥底に眠っていた「何か」が、微かに蠢き出すのを感じた。それは、退屈な日常を揺るがす、得体の知れない予感。しかし、それを形にする言葉は、やはり見つからなかった。
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