犠牲者
雨は、容赦なく降り続き、美香の小さな体を、さらに深く、暗闇へと押し込めるかのようだった。瓦礫の山に座り込んだ彼女の意識は、すでに現実と幻覚の狭間をさまよっている。佐野の冷笑が、春の無表情が、美香自身の薄っぺらな笑い声が、雨音の中に混じり合って響く。そして、その全てを嘲笑うかのように、雛川小夜の、虚ろな瞳が、暗闇の奥でじっとこちらを見つめているような気がした。胃の腑に鉛のように重くのしかかる罪悪感が、彼女の全身を蝕んでいく。なぜ、こんなことになったのだろう。皆と一緒に楽しく過ごしたかっただけなのに。その願いは、いつの間にか、誰かを傷つける刃に変わり、その鋭い切っ先は、今、自分自身に向けられている。そのことに、この廃墟で独り、美香は初めて気づかされていた。だが、それはあまりにも遅すぎた。救いは、どこにもない。冷たい雨と、朽ちた鉄とコンクリートの匂いが、彼女の魂を深く沈み込ませていった。
ふと、美香は顔を上げた。崩落した屋根の隙間から、ぼんやりとした月明かりが、奇妙な形に歪んで地面に落ちている。その光の筋が、壁の奥へと続く通路の入り口を淡く照らしていた。そこに、白いワンピースをまとった少女の幻影が、ゆらゆらと揺らめいた。長い黒髪が、雨に濡れて重そうに垂れ、闇に溶け込み、ゆっくりと振り返ったその顔は、他ならぬ雛川小夜だった。美香は息を呑んだ。疲労と恐怖が作り出した妄想だと頭では分かっていても、その幻影はあまりにも鮮明で、美香の目に焼き付いた。心臓が激しい警鐘を鳴らし、全身の血液が一気に冷え切るのを感じた。
償いなさい……
どこからともなく、囁きが聞こえた。それは、あのメールの文面と全く同じ言葉だった。音源は特定できない。美香の耳の奥で、直接響いているかのようだった。その声は、雛川小夜のものではなく、もっと深く、暗く、感情のない、しかし底知れぬ怒りを宿した声だった。だが、その冷たさは、雛川小夜が纏っていた、あの隔絶された透明感と酷似していた。美香の全身から血の気が引く。心臓が、まるで誰かに鷲掴みにされたかのように、激しく脈打った。震える手でスマートフォンを再び握りしめるが、もはや何の役にも立たない。ディスプレイには、罪悪感と恐怖に引き攣った彼女の青白い顔が映るだけだった。
幻影は、ゆっくりと奥へと誘うように、身を翻した。逃げなければならない。理性はそう叫ぶが、美香の足は地面に縫い付けられたかのように動かない。恐怖と、抑えきれない破滅的な好奇心が、彼女の思考を鈍らせ、ただ幻影の動向を追うことしかできなかった。囁き声は、美香の背後から迫り、彼女の耳元で、嘲笑うかのように繰り返される。償いなさい……償いなさい……その声は、雨音に混じり、美香の精神を徐々に侵食していった。
美香は、後ずさりながら、震える足で通路の奥へと進んだ。足元の瓦礫が、ガリガリと不気味な音を立てる。通路の奥は、かつて大きな機械が置かれていたであろう広大な空間へと続いていた。そこは、屋根が完全に崩落し、雨が滝のように降り注ぐ、巨大な吹き抜けとなっていた。足元は泥水で満たされ、腐敗した金属と、湿った土の匂いが充満している。その空間の中央に、ひときわ高く積み上げられた、錆びついた鉄骨とコンクリートの瓦礫の山が、まるで祭壇のように鎮座していた。その祭壇の頂から、冷たい風が吹き下ろし、美香の髪を乱した。
幻影は、その祭壇のような瓦礫の山の頂に立っていた。白いワンピースが、風もないのにゆらゆらと揺れる。その姿は幽玄にして冷酷。美香は、もはや理性的な判断ができなかった。それは、雛川小夜の霊が、自分を責め立てているのだと確信した。この醜い罪を、全て償わなければならない。美香の心は、絶望の淵で思考を停止し、ただ幻影に引き寄せられるように、泥水の中を進んでいった。足元のぬかるんだ泥が美香の靴を重くし、一歩一歩が永遠にも感じられた。
その時、足元がぐらりと揺れた。長雨で地盤が緩みきっていたのだろう。そこに堆積した瓦礫が、まるで美香を拒むかのように、足元からずるりと崩れ落ちた。美香は、何かに足を取られ、体勢を崩した。崩れたコンクリートの破片が、足元からずるりと滑り落ちていく。美香は、必死に手を伸ばしたが、掴むべきものは何もない。目の前に迫る幻影が、嘲笑うかのように歪んで見えた。そして、彼女の視界は、激しい衝撃と、冷たい泥水の感触に包まれた。全身を襲う痛みと、底なしの闇が、彼女の意識を急速に奪っていった。
飯田将は、通路の影から、その全てをじっと見つめていた。彼の目には、美香の恐怖に歪んだ顔も、泥水に沈むその姿も、ただの「過程」として映っていた。雨音に混じる幻聴のような囁き声、月明かりと雨水が織りなす光の乱反射が作り出す不気味な幻影。全ては、彼女の罪の意識が作り出した幻覚として、完璧に機能していた。飯田は、美香が倒れた場所のすぐ近くに、かつて雛川が身につけていたペンダントの破片が、雨に濡れて鈍く光っているのを見た。それは、佐野たちが雛川をいじめた際に踏み潰したものの一部だ。飯田は、それが霊の「証」として、警察の目に留まるだろうことを確信していた。彼は、美香の破滅を静かに見届けていた。
泥水の中に沈んだ美香の体は、ピクリとも動かない。その表情は、死の直前まで抱いていた恐怖と、どこか安堵したかのような、奇妙な静けさに満ちていた。飯田は、冷たい雨に打たれながらも、まるで何もなかったかのように、その場を後にした。彼の心には、一片の罪悪感もなかった。ただ、深い満足感と、自らが世界を支配する者であるかのような冷酷な達成感が満ちていた。これから始まる復讐劇の、最初の幕が、静かに、そして完璧に下ろされたことを、彼は確信していた。
翌日、美香の遺体は、廃墟の泥水の中から発見された。死因は、鈍器による頭部損傷と溺死。しかし、現場の状況、特に遺体の周辺で見つかった奇妙な痕跡や、かつて雛川小夜が身につけていたペンダントの破片から、警察は「幻覚と罪悪感に苛まれたことによる、心中の衝動的な自殺」と断定した。それは、まるで亡霊の仕業だとでも言うかのような、不可解な状況だった。世間は、連日の報道に騒然となる。しかし、井川楓は、ただそのニュースを、まるで他人事のように冷めた目で見つめていた。そして、雛川小夜は、遠いニュースの向こうで、ただ静かに、世界を傍観しているだけだった。
ブラウン管テレビから流れるニュース映像は、美香の変わり果てた姿を映し出し、無機質なアナウンサーの声が、その死の不可解さを淡々と伝えていた。井川楓は、自宅のリビングで、まるで遠い世界の出来事でも眺めるかのように、その画面をぼんやりと見つめていた。指先でリモコンを弄ぶが、チャンネルを変える気にはなれない。雨は、朝から容赦なく降り続き、窓ガラスを打ち付ける音が、テレビの音をかき消すかのように響いていた。
「また雨か……」
楓は、乾いた唇でそう呟いた。喉の奥に、何か得体の知れない違和感がこびりつく。美香の死。心中の衝動的な自殺。警察の発表は、妙にわざとらしく、どこか薄ら寒いものを楓に感じさせた。誰かが、何かを、巧妙に隠蔽しようとしている。そんな漠然とした疑念が、彼女の無気力な心に微かな波紋を広げた。しかし、その波紋は、すぐに濁った水底へと沈み込んでいく。結局のところ、それは自分には関係のないことだ。そう結論付けることで、楓はいつもの気だるさを取り戻そうとした。だが、胸の奥に残る、形容しがたいざわつきは、消え去ることはなかった。
翌日の学校は、重く湿った空気に満ちていた。生徒たちの間には、美香の死に関する様々な憶測が飛び交い、廊下を歩く誰もが、ひそひそ声で囁き合っていた。普段の喧騒は影を潜め、校舎全体が巨大な葬儀場のようだった。
佐野愛の取り巻きだった春は、顔色を失い、焦点の定まらない目でただ俯いていた。隣に座る佐野に時折、怯えたように視線を送るが、その視線はすぐに逸らされる。美香の席は、昨日まであった教科書やノートが全て片付けられ、がらんどうになっていた。その空席が、まるでぽっかりと開いた穴のように、周囲の生徒たちの動揺を物語っていた。
「ったく、馬鹿なことしてくれたわよね、美香も」
佐野の冷ややかな声が、春の耳に突き刺さった。佐野は、顔こそ普段通りに取り繕っているが、その瞳の奥には、いつになく鋭い光が宿っている。それは、仲間を失った悲しみや動揺ではなく、むしろ自分の支配領域が侵されたことへの苛立ちと、この状況をいかに乗り切るかという計算めいたものに見えた。
「あんな廃墟に、夜中に一人で行くなんて。アタシ達を巻き込まなくてよかったわ」
佐野は、腕を組み、わざとらしくため息をついた。その言葉の節々から、美香の死を「自業自得」として片付けようとする意図が透けて見える。春は何も言えなかった。ただ、佐野の剣幕に怯え、小さく震えるだけだった。自分の心臓の音が、異常なほど大きく聞こえる。次に、誰の身に何が起こるか分からない。そんな漠然とした恐怖が、春の胸を締め付けた。
教室の隅では、飯田将が、熱心にノートに何かを書き込んでいた。彼の表情はいつになく穏やかで、その口元には微かな笑みが浮かんでいるように見えた。耳を澄ませば、周囲の生徒たちのひそひそ話が嫌でも耳に入ってくるが、飯田はそれらに全く関心がないようだった。ただ、ペンを走らせる音だけが、彼の周りに静かな空間を作り出している。時折、満足げに顔を上げ、窓の外に広がる灰色の空を見上げる。そこには、雨に滲む世界の終わりを祝福するかのような、冷酷な光が宿っていた。
井川楓は、その飯田の姿を、まるで吸い寄せられるかのように見つめていた。その無関心さと、どこか達観したような表情が、美香の死を「自殺」と結論付けた警察の発表とは全く違う、別の真実を語っているような気がした。楓の心に、再び漠然とした疑念が頭をもたげる。しかし、それを言葉にする気力も、具体的な行動を起こす意志も、彼女には持ち合わせていなかった。ただ、鉛色の空から降り続く雨を、ぼんやりと眺めるだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます