死の誘い
美香の部屋は、普段の彼女の陽気さとは裏腹に、鉛色の重苦しい空気に満ちていた。梅雨の雨音が窓の外で絶え間なく囁き、その湿った音は、美香の胸の奥に澱んだ不安を増幅させていた。
ここ数日、原因不明の倦怠感が彼女を蝕んでいた。いつもは無邪気に笑い飛ばせた佐野のグループの軽薄な冗談も、今は耳障りな雑音にしか聞こえない。特に、雛川小夜の話題が出るたびに、彼女の胸の奥がちくりと痛み、言いようのない嫌悪感と罪悪感が混じり合った奇妙な感情が湧き上がった。それはまるで、遠い昔に閉じ込めたはずの、醜い記憶の蓋が、少しずつ開いていくような感覚だった。
「なんで、こんな時に……」
美香はスマートフォンを握りしめ、ベッドの上で丸くなっていた。ディスプレイには、見覚えのないメールアドレスから送られてきた、たった一文のメッセージが青白く光っている。
『貴女の穢れが、私を苦しめる。償いなさい。今夜、あの廃墟で、待っている。』
差出人の名前は記されていなかった。しかし、その文面から漂う冷ややかな気配は、美香の脳裏に、ある一人の少女の顔を鮮明に浮かび上がらせた。雛川小夜。いつも、何を見ているのか分からない虚ろな瞳で、世界を傍観していた少女。彼女を虐げることに、何のためらいも感じなかったはずなのに、なぜだろう、今は、その幻影に胸を締め付けられるような気がした。
美香は何度もメールを消去しようと試みた。しかし、その指先は奇妙な拒絶反応を示し、デリートキーを押すことができない。まるで、画面の向こうから無数の見えない手が伸びてきて、彼女の自由を奪っているかのようだった。
その文面は、一度読んだきりなのに彼女の意識の奥底にへばりつき、薄暗い部屋の隅々から、無数の声となって囁きかけてくるかのようだった。
「いたずらよ、いたずら。疲れてるだけ……」
震える声で独りごちたが、その言葉には何の力も宿っていなかった。彼女は普段、深く考えることを嫌い、目の前の楽しいことに身を投じることで、漠然とした不安から逃れていた。だが、この夜のメールは、彼女の心の奥底に眠っていた「一人でいること」への恐怖を、そして「自分の意思で何かを決定すること」への漠然とした不安を、容赦なく抉り出していた。
外では、雨脚がさらに強くなっていた。窓を叩く雨粒の音が、次第に誰かの足音のように聞こえ始める。
ヒタヒタ、ヒタヒタ……それは、彼女の心臓の鼓動とシンクロし、部屋の空気をいっそう冷たく、重苦しいものに変えていった。
美香の部屋は三階にある。それでも、その音が、じわじわと階段を上ってくるような錯覚に囚われた。全身の産毛が逆立ち、背筋を這い上がる冷たい汗が、パジャマを肌に張り付かせる。時計の針は深夜を指していた。こんな時間に、誰もいない廃墟へ行くなど、正気の沙汰ではない。
しかし、「行くべきではない」という理性的な判断とは裏腹に、美香の体は、まるで何かに操られるかのように、ベッドから抜け出し、冷たい床に足をついた。スカートと薄手のカーディガンを手に取り、無意識のうちに着替える。その一連の動作には、彼女自身の意志が介在しているようには思えなかった。
廃墟と化した、かつての工場跡地。そこは、この街の若者たちの間で、肝試しの定番スポットとして知られていた。しかし同時に、そこには不気味な噂が絶えず、夜中に一人で近づく者はいなかった。美香も何度か佐野たちと肝試しに行ったことがあったが、いつもは仲間と一緒で笑い飛ばすことができた恐怖も、今は鉛のように彼女の全身を圧迫していた。
スマートフォンを握りしめ、美香は玄関のドアを開けた。梅雨の湿った夜気が、彼女の頬を撫で、ゾッとするような冷たさを肌に残した。アスファルトを叩きつける雨は視界を遮り、彼女の足元を鈍く照らす街灯の光さえも不気味な靄のように霞ませていた。
傘をさすのも億劫で、彼女はただ、フードを深く被り、雨に濡れるがままに歩き出した。
人気のない夜道を美香は独り足早に進んだ。街灯の切れ間では視界が完全に闇に包まれ、そのたびに、道の両脇から無数の視線が彼女を嘲笑しているような錯覚に襲われた。
濡れたアスファルトに映る自分の影が、まるで意思を持ったかのように彼女の歩調に合わせて揺らめき、時には彼女を嘲笑うかのように歪んで見えた。
耳元で、風と雨の音が、「行くな」「戻れ」と囁いているような気がした。しかし彼女の足は止まらない。止めることができなかった。
廃墟の入り口は、朽ちかけたフェンスで囲まれていた。錆びた鉄条網が絡みつく蔦の中に埋もれ、まるで怪物の血管のように脈打っている。
その隙間を潜り抜け、美香は廃墟の敷地へと足を踏み入れた。途端に街の喧騒が遠ざかり、そこだけが世界の終わりに取り残されたかのような、絶対的な静寂に包まれた。
雨音さえもここでは反響を失い、ぼんやりとした残響となって彼女の鼓膜を震わせる。足元に散らばる瓦礫や折れた木片が彼女の歩くたびにカサカサと不気味な音を立てた。
美香はスマートフォンのライトを点けた。その細い光の筋が目の前の闇を切り裂くたびに、錆びついた機械の残骸や崩れ落ちた壁の向こうに何かの影が揺らめいているように見えた。
「だれか、いるの……?」
掠れた声が闇に吸い込まれていく。返事はない。ただ彼女の吐く白い息がライトの光の中で僅かに揺れるだけだ。
しかしこの場所に来れば、何か、きっと何かが分かるはずだ。あのメールの意味が、雛川の苦しみが、そして自分たちが雛川小夜に何をしてきたのかが理解できるはずだと、美香は半ば錯乱した頭で必死に信じ込もうとしていた。
工場の中心部へと進むにつれて空気はさらに冷たさを増し、美香の体は小刻みに震え始めた。
屋根が崩落し雨が容赦なく降り注ぐ空間は、まるで異界の入り口のようだった。
鉄骨が剥き出しになった天井からは雨水が滝のように流れ落ち、地面には泥水がたまり腐敗した何かの匂いが鼻腔を刺激する。
美香は震える手でスマートフォンを取り出し少しでも恐怖を紛らわそうと佐野の番号をタップした。呼び出し音が鳴る。しかしすぐに「電波が届きません」という無機質なメッセージが流れた。
何度も、何度も、春や他の仲間の番号を試したが、結果は同じだった。電波塔から隔絶されたこの場所では、彼女の声は、誰にも届かない。
「誰か……出てよ、誰か……!」
美香の声は闇の中で無力に響き渡り、やがて雨音に掻き消された。
彼女の脳裏に佐野の冷酷な笑みや、自分たちが雛川小夜をいじめていた時の嘲りの声がフラッシュバックのように蘇る。その一つ一つが彼女の罪の重さを嘲笑うかのように響いた。
膝から崩れ落ち美香は瓦礫の山に座り込んだ。濡れた髪が顔に張り付き、冷たい雨水が彼女の頬を伝って流れ落ちる。
それは涙なのか雨なのか、もはや彼女自身にも判別できなかった。ただこの場所には雛川小夜の姿はなく、ただ彼女自身の絶望だけがその空間を支配していた。
誰も来ない。誰も、助けてくれない。
彼女は自分が作り上げた「楽しい」という幻影の脆さを初めて突きつけられていた。
仲間といることで保たれていたはずの自分は、こんなにも弱く脆いものだったのか。その虚無感が、彼女の全身を覆い尽くし、美香は深い絶望の淵へとゆっくりと沈んでいった。
雨は容赦なく降り続き、彼女の小さな体をさらに深く、暗闇へと押し込めるかのようだった。
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