浄化

机に突っ伏し、意識の淵を彷徨っていた飯田将の頭の奥で、何かが確かな音を立てて繋がった。


それは、壊れた歯車が唐突に正しい位置に収まるような、奇妙で、しかし絶対的な感覚だった。


梅雨の雨音だけが耳元で囁き続ける虚ろな世界の中で、彼の内面に、一つの明確な輪郭が幻影としてではなく、揺るぎない意思として浮かび上がってきた。


雛川小夜の、何もかも見透かすような、しかし何も見ていないような虚ろな瞳が、瞼の裏に鮮烈に焼き付いている。


その瞳は、まるで暗闇を照らす灯台のように、飯田を導いているかのように思えたが、それはむしろ彼の意識そのものを支配し、操るかのように感じられた。


「彼女は、汚れている……」


掠れた声が、乾いた喉から漏れた。幻覚が跋扈し、現実と幻想の境界が融解しきった数週間。


飯田の精神は疲弊の極みにあったが、もはや彼の思考は、彼自身の支配を離れていた。


内なる声が、彼を導くように囁き始めたのだ。その声は、雛川小夜の純粋で美しい姿を守るため、彼女の周りに群がる人間たちの「穢れ」を「取り除く」必要があると、揺るぎない確信として彼に植え付けた。


佐野愛とその取り巻きたち。特に、いつも薄っぺらい笑みを浮かべ、雛川小夜を嘲笑の対象にする美香の顔が嫌悪と共に脳裏に焼き付いた。


彼女こそが、穢れの象徴のように思えてならなかった。


彼女の存在そのものが、雛川の輝きを曇らせているのだと、彼は強く、深く、そして抗いがたく確信させられていた。


雛川小夜の幻影は、彼の世界を侵食し尽くした。今や彼女の幻影だけが、飯田の行動原理そのものとなっていた。


彼女の美しさを守るため、彼女の純粋さを保つため。そう思い込まされた時、彼の心の中に冷たい炎が宿ったかのように、思考は研ぎ澄まされていった。


それは彼自身の思考ではなく、何者かの意思が彼の脳を借りて、次々と指令を組み立てていくような感覚だった。


飯田は、ゆっくりと顔を上げた。


パソコンの画面に映る自分の顔は憔悴しきっていたが、その瞳の奥には、彼自身の意志ではない、別の何かが宿っていた。


もはや彼に迷いはなく、その行動は定められた道を進むかのようだった。


翌日から、飯田の行動は一変した。授業中は、相変わらず上の空で、休憩時間や放課後になると、彼は周囲の目を避けるように佐野の取り巻きである美香の動向を観察し始めた。


いや、観察させられた。彼の目は彼の意思とは無関係に、美香の一挙手一投足を追い続けた。


まるで、内なる何者かがその姿を克明に記録しているかのように。


下駄箱から教室へ向かう道のり、購買でパンを選ぶ仕草、友人たちと談笑する声のトーン、そして、放課後の部活動へ向かう時間。


彼の無意識は美香がいつも同じ時間に、校舎の裏にある非常階段を使ってグラウンドへと向かうことを突き止めた。


そこは人通りが少なく、梅雨の時期でじめじめと湿気た空気と、苔むした壁が、不気味なほどに静まり返っていた。


世界から隔絶された、聖域のように思えた。


「……あそこだ」


彼の唇から、ほとんど音にならない呟きが漏れた。穢れを祓う場所はそこだと、彼の内なる声が告げていた。


幻覚の雛川小夜が、その傍らで静かに微笑んでいるような気がした。


彼女の幻影が、その場所を指し示しているかのように思えた。清めるべき場所は、ここなのだと、飯田は直感した、というより、直感させられた。


飯田は、何かに駆り立てられるように、学校の図書館へと足繁く通った。


インターネットではなく、埃っぽい本のページをめくることに、彼は奇妙な、必然めいた導きを感じた。


建築図面のような専門書から、心理学に関する書籍まで、彼の興味は多岐にわたった。


いや、興味というよりは彼自身の理解を超えた知識が、次々と彼の脳裏に流れ込んできた。


非常階段の構造、物理法則、そして、そこから生じる「自然な結果」について。また、人間の精神がいかにして「自らの意思で道を選ぶ」かに見えるか、といった彼自身の理解を超えた知識が次々と彼の脳裏に流れ込んできた。


彼のノートには、彼自身の筆跡ではないような、しかし確かに彼の手で書かれた、細かな図や意味不明な数式がびっしりと書き込まれていった。


時折美香の姿が簡潔な記号で示され、そこから螺旋状に「消滅の道筋」が描かれていく。


文字の横には時折、雛川小夜の虚ろな瞳が、彼をじっと見つめているような幻覚がよぎる。


そのたびに、彼の意志はより一層強固なものになっていった、というよりも、彼を操る何かの意思が強固になっていった。


準備は、周到に進められた。彼は、導かれるままに、薬局で「清める」と称する特定の液体を、コンビニで「触れるべきではないもの」を扱うための手袋を数種類、人目につかないように買い揃えた。


ホームセンターでは、足元を「不確かなもの」に変える液体、そして、「残るべきでないもの」を消し去るための工具を。


そのどれもが彼自身の意思で選んだものではなく、まるで手が勝手に伸び会計を済ませているかのような感覚だった。


彼の部屋はまるで何者かの意思によって変貌させられたかのように、不気味な様相を呈していった。


かつて盗撮した雛川小夜の写真が貼られていた壁には、今は、雛川小夜の幻影が描くかのような歪んだ線や、美香の姿が徐々に透明になっていくような図がびっしりと書き込まれていた。


それらは、飯田自身の意識からは理解できない、しかし確かな「浄化の儀」の工程を示しているようだった。


夜、自室の明かりを消しパソコンのディスプレイだけが彼の顔を青白く照らす中、飯田はまるで何者かに操られるかのように、脳内で何度も「儀式」の予行演習を繰り返した。


非常階段の湿り具合、足音、タイミング。全てが完璧でなければならないと、彼の内なる声が繰り返し告げていた。


失敗は許されない。完璧な「浄化」のシナリオ。まるで、舞台役者が台本を暗記するように、彼は自分の役割を心に刻み込まされた。


それは彼自身の演技ではなく、何者かの手によって彼の体が動かされているような、奇妙な感覚だった。


幻覚の雛川小夜は、彼の背後で静かに立っていた。彼女は何も語らない。


ただ、そこにいるだけだ。しかしその存在が、飯田の心の奥底に宿る冷酷な決意を、揺るぎないものにしていた。いや、彼の体を借りて、自らの意思を遂行しているかのように、彼を動かしているのだ。


「これで……彼女は、本当の美しさを取り戻す」


飯田は独りごちた。それは、彼自身の言葉というよりは、彼の口を借りて雛川小夜が語りかけているかのようだった。


梅雨の夜は深く、窓の外では雨音が、彼の狂気を祝福するかのように、静かに降り続いていた。


彼の指が、キーボードの上でゆっくりと滑る。画面には、彼自身の意識では理解し得ない、しかし確かな「浄化の儀」の最終段階が、導かれるままに記されていった。

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