幻視
重く湿った空気は、飯田将の肺の奥深くまで澱み、呼吸するたびに鉛のような倦怠感が全身にまとわりついた。
梅雨特有の鉛色の空が、校舎の窓越しに広がり、降り続く雨は、校庭の砂を黒く濡らしていた。
水滴が窓ガラスを伝い、景色を歪ませる。視界がぼやけるたび、飯田の心もまた、現実との境界を曖昧にしていくようだった。
放課後の廊下は、いつもより人影がまばらだった。部活動に向かう生徒たちの話し声も、雨音にかき消され、遠くで響く雷鳴の方が、よほど存在感を主張している。
飯田は、誰もいない下駄箱へ向かう途中、ふと、視界の隅に白い影を捉えた。
息を呑む。
見慣れた、しかし、決して日常では隣り合うことのない、あの、透き通るような白。
雛川小夜だった。
彼女は、まるで湿った空気の中に溶け込むかのように、廊下の突き当たりに立っていた。白いブラウスに、深い紺色のスカート。ただ、そこにいるだけで、周囲の淀んだ空気を浄化してしまうような、圧倒的な存在感。
飯田の心臓が、耳元で激しく脈打った。全身の血が逆流するような感覚。
しかし、彼女は微動だにしない。ただ、飯田の方をじっと見つめている。その瞳は、吸い込まれそうなほどに深く、飯田の奥底に秘められた、誰にも触れさせたくない領域を覗き込んでいるかのようだった。
飯田は、足を止め、動けなくなった。口を開こうとしたが、喉は乾ききって、声が出ない。
一歩、また一歩と、飯田が近づくと、彼女の唇が、ほんのわずかに動いたように見えた。
「見てるよ」
そう、言ったのだろうか。
聞き取れないほどの微かな、しかし、脳髄に直接響くような囁き。
次の瞬間、雷鳴が轟き、校舎全体が揺れたかのように感じた。
同時に、雛川の姿は、陽炎のように揺らめき、そして、あっけなく消え失せた。
残されたのは、ひんやりとした廊下の空気と、雨の匂い、そして、飯田自身の荒い息遣いだけだった。
幻覚だ。わかっている。
ここ数週間、飯田は頻繁に同じような幻覚に苛まれていた。学校の廊下、通学路の片隅、そして、自宅の自室。どこにいても、不意に雛川の姿が目に飛び込んでくるのだ。
特に、彼女と目が合った瞬間の顔が、鮮烈なフラッシュバックとなって、飯田の意識を支配した。その、何もかも見透かすような、あるいは、何も見ていないかのような、あの虚ろな瞳。
飯田は、手のひらで顔を覆い、荒々しく目を擦った。瞼の裏に、まだ残る残像。
自宅に帰り着いても、幻影は飯田を追いかけるように付き纏った。
湿気を吸い込んだ自室は、カーテンが閉められ、薄暗い。壁には、雛川の盗撮写真が何枚も貼られている。しかし、最近は写真を見るたびに、その瞳が、まるで生きているかのように飯田を見つめ返してくる錯覚に陥る。
飯田は、それらの写真を慌てて剥がし、引き出しの奥に押し込んだ。
しかし、安心は得られない。
パソコンの画面に映る、無表情な自分の顔。疲労困憊した顔には、目の下に深い隈が刻まれている。鏡を見れば、そこに映るのは、ひどく憔悴しきった男の顔だ。
もう何日もまともに眠れていない。睡眠薬も試したが、効かない。目を閉じれば、すぐにあの虚ろな瞳が、暗闇の中に鮮やかに浮かび上がるのだ。
「一体、何なんだ……」
飯田は、掠れた声で呟いた。誰もいないはずの部屋で、自分の声が不気味に響く。
テーブルの上に置かれたマグカップからは、冷めきったコーヒーの香りが微かに漂っている。数時間前に入れたはずだが、まるで別の世界の出来事のようだ。時間感覚すらも、曖昧になりつつあった。
風呂に入って、少しでも気分転換をしようと試みた。
しかし、湯船に浸かると、湯気がまるで紗幕のように飯田の視界を覆い、その向こうに、再び雛川の姿が浮かび上がる。
湯気で湿った髪が顔に張り付き、水滴が頬を伝う。それは、涙のようにも見えた。
彼女は、湯気の中で微笑んでいるように見える。無表情なのに、どこか慈愛に満ちた、悟ったような微笑み。
その微笑みが、飯田の心臓を締め付けた。
彼女は、すべてを知っているのだ。飯田の醜い感情も、歪んだ執着も、何もかも。そして、それらすべてを許しているかのように、ただ、そこにいる。
「……違う」
飯田は、思わず声を上げた。湯船から飛び出す。心臓が激しく動悸を打つ。
幻影は、まるで飯田の感情に呼応するかのように、一瞬にして掻き消えた。震える手でタオルを掴み、乱暴に体を拭く。
壁に貼られた湿気で歪んだポスターのモデルが、まるで嘲笑っているように見えた。
翌日も、雨は止む気配を見せなかった。
重い足取りで学校の門をくぐり、自分の下駄箱へ向かう。そこには、普段と何も変わらない、ごく普通の光景が広がっていた。
しかし、飯田の目には、すべてが歪んで見えた。
すれ違う生徒たちの顔が、一瞬、雛川の虚ろな瞳に置き換わる。談笑する女子生徒の笑い声が、雛川の囁き声に聞こえる。
授業中も、黒板の文字が雛川の顔に変化したり、ノートの行間から、あの目が覗き込んでいるように感じられた。窓の外の雨音は、もう現実の音ではなく、飯田の脳内で響き続ける幻聴の一部と化していた。
現実と幻覚の区別が、もうほとんどつけられない。
まるで、雛川が、飯田の精神の奥深くへと侵食し、彼の世界を塗り替えていっているようだった。
彼女は、どこにでもいる。そして、どこにもいない。
この世界は、いつの間にか、彼女の幻影で満たされていた。
飯田は、机に突っ伏した。頭の奥が、ずきずきと痛む。
自分は、もう、一体どこにいるのだろう。
あの、静かで美しい彼女の世界に、堕ちていくのか。
それとも、このまま、狂気に呑み込まれていくのか。
雨音だけが、絶え間なく、彼の意識の淵で囁き続けていた。
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