不信感
梅雨特有の重く湿った空気が、放課後の教室に澱んでいた。窓の外では、朝から降り続く雨が、しとどにアスファルトを濡らし、遠くで時折雷鳴が轟く。じめじめとした空気は、壁に染み付いた古びた匂いと混じり合い、生徒たちの疲弊を誘う。佐野愛は、そんな淀んだ空気を切り裂くように、椅子の背もたれに体を預け、腕を組んでいた。その視線は、向かいの席で肩をすぼめている春に、冷たく注がれていた。隣に座る美香は、いつもの快活さを潜め、所在なく指先をもてあそんでいる。
「で? 何が言いたいの、春。昨日からずっとうじうじしてさ」
佐野の声は、雨音に負けないくらいの冷徹さを含んでいた。春の顔は青白く、目の下には深い隈が刻まれている。前夜の恐怖が、いまだにその瞳に焼き付いているかのようだった。彼女の白い制服のブラウスは、妙にだらしなく着崩れており、普段のきちんとした印象とはかけ離れている。
「あの……ほんとに、ほんとだってば。昨日の夜、私の部屋に……」
春の声は、か細く震えていた。言葉が喉の奥で詰まり、途切れ途切れになる。美香が、少し心配そうな表情で春の顔を覗き込んだが、佐野は眉一つ動かさない。
「何? また幽霊話? もういい加減にしないと、さすがに飽きるよ。佐野もそう思うでしょ?」
美香は、そう言って佐野の顔色を伺った。佐野は小さく鼻を鳴らす。
「そんなものにいちいち怯えてる方がどうかしてる。もしかして、また注目されたいとか?」
その言葉は、まるで氷の刃のように春の胸を突き刺した。春は、ふるふると首を横に振る。
「違う、そんなんじゃない! ほんとに変なの。メッセージとか、夜中の音とか……昨日は、部屋に、人形が……」
春は、必死に訴えようとした。しかし、その声は上擦り、ほとんど聞き取れない。人形、という言葉に、美香の顔から、微かに残っていた笑顔が消えた。数週間前、雛川小夜の机に置かれていたあの不気味な人形が、美香の脳裏をよぎったのだ。あれは、自分たちがやったこと。だが、今回、春の部屋に置かれたという人形は、一体誰が……? 美香の背筋に、わずかな悪寒が走った。
「人形? ふざけてんの? まさか、あんたが自分で置いて、ビビってるんじゃないでしょうね」
佐野は、嘲笑うように言った。しかし、その言葉の裏には、春の不可解な行動に対する苛立ちと、僅かながら芽生え始めた不信感が隠されている。自分の支配下に置くべき「取り巻き」の一人が、こんなにも不安定なのは、佐野にとって許しがたいことだった。彼女は、集団の秩序を保つことに執着していた。春の「異常」は、その秩序を乱す要因となりかねない。
「違う! ほんとに、知らないの。それに、スマホに写真が送られてきて……『見てるよ』って……私の部屋の写真、人形が置いてある、数分前の写真が……」
春は、震える手でスマートフォンを取り出し、履歴を見せようとした。しかし、例のメッセージはなぜか削除されており、そこには何も残っていなかった。春の必死な様子に、美香は思わず後ずさりする。春の言葉は、あまりにも具体的で、そして恐ろしかった。もし、それが事実だとしたら……。美香の心臓が、ドクン、と不規則に脈打った。雨音が、まるで不吉な予兆のように耳に響く。
佐野は、春の手からスマホをひったくるように奪い取った。画面をスクロールするが、春が言ったようなメッセージや画像は見当たらない。佐野の顔に、明確な苛立ちの色が浮かんだ。
「何もないじゃない。やっぱり、あんたの妄想でしょ。いい加減にしてよ。そんなことで、私たちまで巻き込まないでくれる? 本当に迷惑なんだけど」
佐野の言葉は、春を突き放すような冷たさだった。春は、顔色をさらに失い、唇を震わせた。視線は、助けを求めるように美香へと向けられたが、美香は佐野の視線を恐れるかのように、わずかに目を逸らした。集団から孤立することへの恐怖が、美香の心を支配していた。春が嘘をついているとは思えなかったが、それ以上に、佐野に逆らうことへの恐怖が勝ったのだ。
「でも、ほんとに……誰かが、見てる気がするの。飯田君も、変だったし……」
春は、最後に飯田将の名前を口にした。その瞬間、佐野の眉間の皺が深くなった。飯田は、クラスの中でも浮いた存在だ。そんな彼が関わっているかもしれない、という可能性が、佐野の心に新たな不信の種を植え付けた。だが、それはまだ明確な恐怖ではない。ただの不快感、そして、自分の支配の外にある存在への軽蔑だった。
「飯田? あいつがどうしたって言うのよ。あんた、どうかしてるんじゃない?」
佐野の声は、苛立ちを隠そうともしなかった。春は、もうこれ以上は何も言えない、というように、力なく俯いた。その姿は、まるで嵐の後の濡れた子犬のようだった。教室の窓を叩く雨は、一層その勢いを増し、遠雷はさらに近くで轟き始めている。それはまるで、これから訪れる嵐の序章を告げるかのように、ひっそりと、しかし確実に、三人の関係に亀裂が入り始めていることを示唆していた。佐野は、春の言葉の真偽を疑いながらも、その異常な怯えようから、漠然とした不穏さを感じ始めていた。美香は、恐怖に顔色を失った春と、冷酷な佐野の間で、自身の立場が危うくなるのを感じ、ただ黙って視線を落とすしかなかった。
梅雨の長い夜は、まだ始まったばかりだった。
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