最初の異変

梅雨の季節特有の、じめじめとした重い空気が春の部屋にも澱んでいた。


窓の外では、夜の闇に吸い込まれるように雨粒がアスファルトを叩き続けている。


春はスマートフォンの光を頼りにベッドに横たわっていた。


佐野愛との他愛ないメッセージのやり取りを終え、SNSのタイムラインをぼんやりと眺めていた、その時だった。


見慣れない番号から一通のメッセージが届いた。


「見ているよ」


たったそれだけの、短く、しかし異様な言葉。


春は一瞬心臓が跳ねるのを感じたが、すぐに悪質なイタズラだろうと片付けた。


誰かの間違いか、あるいはクラスの男子の悪ふざけ。大したことではない。


そう自分に言い聞かせ画面を消した。


しかし一度意識したその文字は、奇妙な残像のように瞼の裏に焼き付いて離れない。


雨音だけがまるで自分の心のざわめきを代弁するかのように、窓の外で止むことなく響いていた。


翌日以降もそれは続いた。


夜中にスマートフォンが振動する。


通知を確認すると、また同じ見慣れない番号から、意味不明な文字列や、ノイズのような音声ファイルが送られてくるのだ。


最初のうちは無視していた春も、連日のように続くメッセージに次第に不気味さを感じ始めた。


送り主に心当たりはない。


ブロックしてもなぜか別の番号からすぐに届く。その度に雨音の中、誰もいないはずの部屋の隅に、誰かの視線を感じるような錯覚に陥った。


自分の背後で何かが蠢いているような、漠然とした恐怖が、静かに彼女の心を侵食し始めていた。


ある夜、いつものようにスマートフォンを手に取り受信履歴を確認しようとした瞬間、奇妙な音が耳に届いた。


壁の向こうから、とんとん、と規則正しいノッキングのような音がする。


最初は何かの物音かと思ったが、それは間隔を置いてまるで何かを伝えようとするかのように繰り返された。


心臓が早鐘を打つ。 


壁の向こうは隣の部屋だが、両親はすでに寝静まっているはずだ。


恐る恐る耳を澄ますと、ノッキングは止み代わりにごく微かな、まるで風が吹き抜けるような囁き声が聞こえた気がした。


幻聴だろうか。しかし、その声は、確かに春の名前を呼んだような抑揚を帯びた響きを持っていた。


毛穴が総毛立つ。


春は布団を頭まで被り、震えながら朝を待った。


学校でも春は漠然とした不安に苛まれていた。


廊下を歩く時視線を感じる。


教室で笑い合う友人たちの声もどこか自分を嘲笑っているように聞こえる。


特に、ひっそりと教室の隅に佇む飯田の姿が、妙に目に付いた。


いつもは存在感が希薄で、まるで壁と同化しているかのような彼が、その日だけはまるで獲物を品定めするかのような、冷たい眼差しで自分を見つめているような気がしたのだ。


勘違いだと自分に言い聞かせたが一度芽生えた疑念は、まるで湿った土壌に根を張るカビのように、じわじわと広がり続けていた。


その日の放課後、春は部活動を終えどっと疲れて自室に戻った。制服を脱ぎ捨てベッドに腰を下ろした、その時だ。


机の上に、見慣れないものが置かれていることに気づいた。


それは、黒ずんだ小さな木の人形だった。


顔はのっぺらぼうで、手足は不自然なまでに長く紐で吊るされている。


どこからどう見ても、可愛らしいとは言えない、むしろ不気味な造形だった。


春は息を呑んだ。


こんなものは、自分の部屋にあったはずがない。誰が、いつ、どこから? 鍵は閉めていたはずだ。しかし、人形は、そこに確かに存在していた。


その視線の定まらない顔は、春の心を深く抉り、底知れない恐怖を呼び起こした。


春は震える手で人形を掴んだ。冷たい。そして、その木肌からは、微かに、しかし確かに、湿った土のような匂いがした。


まるでつい先ほど土の中から掘り起こされたばかりであるかのように。


その瞬間、春の脳裏にかつて雛川小夜の机に置かれていた、落書きだらけの気味の悪い人形の残像が蘇った。


あの時、自分たちが行った行為がまるでブーメランのように自分に返ってきたかのような錯覚に陥り背筋に冷たいものが走った。


彼女の部屋は一階にある。


窓の鍵は閉めていたはずだったが、もし、もしも、ほんの少しでも隙があったとしたら……。


春は窓の外を見た。


梅雨の雨は小康状態に入っていたが、庭の植え込みは夜の闇の中で一層深く、不気味な影を落としている。


その影の中に誰かの気配を感じたような気がして、春は慌ててカーテンを閉めた。


スマートフォンが不意に振動した。


また、例の番号からだ。恐る恐る画面を開くと、そこには、一枚の画像が添付されていた。


春は思わず息を詰めた。


そこに写っていたのは、紛れもない自分の部屋だった。しかし、そこに写る机の上には、昨日までなかったはずの今見つけたばかりの黒ずんだ木の人形が確かに置かれているのだ。


撮影されたのは、ごく最近、いや、ほんの数分前の出来事であるかのようだった。


「見てるよ」


画像の下に、たった一言、その言葉が添えられていた。春の全身の血が凍り付く。


部屋に人形が置かれたのは、学校に行ってから帰るまでの間の出来事だ。


ということは、誰かが自分の部屋に侵入しこの写真を撮った後、このメッセージを送ってきたとしか考えられない。


一体誰が、何のために? 春の思考は恐怖によって完全に麻痺した。


誰かが自分のすぐ近くにいる。


今もこの家のどこかに潜んでいるのかもしれない。


彼女は悲鳴を上げようとしたが、喉から出たのは、ひゅう、という微かな空気の音だけだった。


雨音だけがまるで何もなかったかのように虚しく響き続けていた。


春の瞳の奥には、恐怖と混乱が入り混じった深い絶望の色が滲み始めていた。


それは嵐の前の静けさのように、これから訪れるであろう更なる悪夢の序章を告げる、静かで、しかし確かな異変の始まりだった。 


喉の奥で詰まった悲鳴は結局外に漏れることはなかった。 


代わりに、肺が圧迫されるような苦しさが、春の胸いっぱいに広がっていく。


視線は、恐怖に縫い付けられたかのように、スマートフォンの画面とそこに移る自分の部屋の光景。


そして目の前の机の上に実在する黒ずんだ木の人形を交互に行き来していた。


人形は、まるで最初からそこにいたかのように、春の教科書とノートの間に鎮座している。


のっぺらぼうの顔がわずかに傾いているように見えた。


その歪んだ姿が、今や生きているかのような存在感を放ち、春の視界を支配する。


肌に鳥肌が立ち体の芯まで冷え切っていくのを感じた。


「見てるよ」


その一言が、まるで部屋のどこかから響いているかのような錯覚に陥る。


雨音に混じって、ごく微かにしかし確かに、嘲笑のような声が聞こえた気がした。


幻聴だ。そう言い聞かせようとしても、心臓の鼓動は暴れる馬のように胸郭を打ち付け、全身の血流が逆流しているかのような不快感が春を襲った。


本当に、誰かがこの部屋に入ったのか。


鍵は閉めていたはずだ。窓も。何度も確認した。なのに、なぜ?


思考の歯車は恐怖で完全に錆びつき、論理的な答えを見つけ出すことができない。


ただ目の前の現実だけが、冷たく、容赦なく春を追い詰める。


震える指先でスマートフォンの画面をタップし、メッセージを消去しようとした。


だが、指はうまく動かず、何度か空を切った後、ようやく画面に触れる。メッセージは消えた。しかし、その残像は、鮮烈な炎のように網膜に焼き付いている。


そして人形はそこに変わらず存在していた。


その瞬間、春の耳に、ごく微かな音が届いた。


カタン。


それは窓の外、庭の植え込みの方から聞こえたように思えた。


何か小さなものが落ちるような音。あるいは、何かがそこに触れたようなか細い音。


春はビクリと肩を震わせた。


カーテンは閉めてある。闇に覆われた窓ガラスは、まるでこちらを覗き見る黒い瞳のようだ。


そこに誰かがいる。今も。


自分の背筋に、冷たい汗が伝うのを感じた。


全身が金縛りにあったかのように動かない。逃げなければ。誰かに助けを求めなければ。そう頭では理解しているのに、手足は鉛のように重く、布団から抜け出すことすらできない。


部屋の隅々に、不気味な影が蠢いているように見える。


幼い頃、暗闇に潜む怪物を想像しては怖がったあの時の感覚が蘇る。


しかし、今目の前で起こっていることは想像を遥かに超えた、現実のそして異常な出来事だった。


飯田の顔が、脳裏にちらつく。


あの冷たい眼差し。あの小夜の机に置かれていた落書きだらけの人形。


あの時、佐野と一緒に自分も笑っていた。


笑って見て見ぬふりをした。 


あの時小夜は、一体どんな気持ちだったのだろう。


恐怖と同時に言いようのない後悔と罪悪感が、春の心を蝕み始めた。


これは罰なのだろうか。自分たちの行った、残忍な行為に対する報いなのだろうか。


心臓の鼓動が一段と激しさを増す。


喉の奥からは、ひゅう、ひゅう、と微かな喘鳴が漏れ、まるで窒息寸前のような苦しさに襲われた。


目の前の人形がまるで自分をじっと見つめているかのように感じられた。


そののっぺらぼうの顔が、少しずつ歪んで、嘲笑っているように見えた。


湿った土の匂いが鼻腔の奥にこびりつき、今や部屋中に充満しているかのように錯覚する。


雨音はまるでそれが自分の内側から響いているかのように、頭蓋の奥で響き渡っていた。


春はただ震えることしかできなかった。


布団を頭から被り直そうと腕を伸ばしたが、その力さえ残っていなかった。


体は硬直し、ただ目の前の恐怖に飲み込まれていくしかなかった。


朝はまだ遠い。長い、長い夜が、今始まったばかりだった。


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