水底の澱

じめじめとした空気がまとわりつく放課後の教室で、飯田将は窓際の席に座りただひたすらに外界の雨を眺めていた。


水滴が窓ガラスを伝い、歪んだ景色を映し出す。


その向こうには鉛色の空がどこまでも広がり、終わりなき梅雨の到来を告げていた。


教室は生徒たちのざわめきで満ちているが、飯田の耳にはそれは遠い国の雑踏のようにしか届かなかった。


彼の顔は、いつも以上に青白く、俯き加減の視線は、まるで自身の内側に沈み込んでいるかのようだった。


しかし、その瞳の奥には以前にはなかった、静かで冷たい光が宿っていた。


それは、雛川小夜の死によって、彼の内側に灯された、名状しがたい、しかし確かな変質だった。


まるで、彼女の消え去った魂の一部が、彼という器に憑依したかのような、抗いがたい変化だった。


雛川小夜の死以来、飯田の日常は完全に変貌していた。


かつては、雛川小夜への純粋なまでの執着と、それが報われないことへの内なる葛藤が彼の心を占めていた。


彼女がそこに存在しているという事実が、彼の唯一の拠り所だった。


だが彼女がこの世から消え去った今、その執着は形を変え、一つの冷徹な決意へと昇華されていた。


彼の聖域を汚し、彼女を絶望の淵に突き落とした者たちへの、決して許しがたい感情が彼の中で深く根を下ろしていた。


それは彼にとって、雛川小夜への最後のそして唯一の愛情表現だったのかもしれない。


しかし、それ以上に彼を突き動かす何かが、見えない糸のように彼の精神を操り始めているかのようだった。


学校に来てからの彼は以前にも増して目立たないように振る舞っていた。


いや、彼自身は常にそうだったがその行動にはかつてないほどの、まるで何かに導かれているかのような精緻さが加わっていた。


廊下を歩くときは壁に体を寄せ、視線を床に落とす。授業中はひたすらノートにペンを走らせる。


しかしその耳と目は常に周囲の生徒たちに向けられていた。


特に佐野愛とその取り巻きたちの動向には、神経を研ぎ澄ませていた。


彼らは、雛川小夜がいた頃と変わらず、クラスの中心で、はしゃいだ笑い声を上げている。


その無邪気さに見える悪意が、飯田の胸の奥で、じりじりと燻る炎となって燃え盛っていた。


彼らの言葉一つ、視線の一つ一つが、雛川に向けられた過去の嘲笑や侮蔑と重なり、飯田の心に焼き付いて離れなかった。


そしてその焼き付いた残像が、彼に何かを囁きかけているようだった。


ある日の昼休み、飯田は食堂の片隅、他の生徒から見えにくい柱の陰で冷めたパンを齧っていた。


賑やかな喧騒の中に、佐野と取り巻きたちの甲高い声が紛れ込んできた。


彼らのテーブルはいつも笑い声に溢れている。


「ねえ、あの時さ、小夜が顔真っ赤にして泣き出しそうになったの、マジウケるんだけど」


「そうそう、いつも澄ましてるくせにさ、意外とガラスのハートだよねー。あたしたち、ちょっとからかっただけなのに」


取り巻きの女子たちが、キャッキャと笑い合う。


その言葉の端々から彼らが雛川小夜に対して行っていた陰湿な行為が、露骨に滲み出ていた。


飯田は、握りしめたフォークの柄が手のひらに食い込むのも構わず、ただひたすらにその言葉の断片を脳裏に焼き付けていた。


彼の内臓が冷たい塊になったような感覚を覚えた。


彼らの言葉は飯田がこれまで抱いていた漠然とした疑念を、確固たる憎悪へと変える燃料となった。


雛川小夜は、彼らの手によって確かに傷つけられ、追い詰められていたのだ。


彼の聖域を汚した者たちへの絶対的な許しがたい感情が、彼の心臓を冷たく締め付けた。


その瞬間、彼の臆病な外殻が内なる冷たい何かの意思によって打ち砕かれる音を聞いた気がした。


それは、彼自身の意思とは異なる、見えない存在の覚醒の音だった。


放課後、飯田は図書室の奥にある、埃っぽい書架の陰に身を潜めていた。


普段は誰も利用しないような、哲学書ばかりが並んだ一角だ。


湿った空気と古紙の匂いが彼の心を落ち着かせる。


彼は使い古されたノートを広げ、ボールペンを握りしめた。


ノートのページには、すでに雛川小夜の過去に関する情報が細かく書き連ねられていた。


彼女の成績、出席状況、そして佐野たちとの接触の記録。


いつ、どこで、誰が、何を言ったか。


それは飯田が雛川小夜をストーキングする中で集めた、膨大な断片的な情報とこの数日で得た新たな証拠の集大成だった。


飯田は昼休みに聞いた会話の内容を一言一句違わず書き記していく。


しかし、それは彼自身の意思で「計画」を立てるためではない。


まるで何か見えない力が彼を動かし、集められた情報が、そこに「あるべき姿」として記されていくかのように。


彼の視線は、書かれた文字の上を滑るように追いながら、次第にその奥に、不可解な思惑が形を成し始めていた。


彼の脳裏には複数の可能性が、緻密な思考の網目の中で絡み合っていく。


それは、彼自身が紡ぐ思考ではなく、むしろ何かが彼の頭の中で、静かに繋がりを見出しているかのようだった。


彼は、手元に広げたノートの行間を滑るように視線を動かす。


佐野愛はまだその時ではない。彼女にはより深く、複雑な影が潜んでいる。


今は、その周囲に漂う澱を探るべきだ。


飯田の脳裏に佐野の取り巻きの一人、春の顔が浮かんだ。


彼女は佐野の影に隠れて、いつも雛川小夜に嫌がらせをしていた人物だ。


佐野ほどではないが、彼女もまた雛川小夜を傷つけた張本人であることは間違いない。


飯田は春が雛川小夜に投げかけた陰湿な言葉や、馬鹿にしたような視線を克明に思い出していた。


それに彼女は比較的単純で、感情の起伏が激しい。


佐野の取り巻きの中でも、特に承認欲求が強く、SNSでの自己顕示も目立つ。


その脆さが何かの扉を開く鍵となるかもしれない。


澱は常に最も弱い部分から滲み出すものだ。


飯田は、ノートの余白に「春」と大きく書き込んだ。


その文字は彼の内側に宿った、不可視の力が確かに作用し始めたかのように、静かな熱を帯びていた。


彼の頭の中では、すでに春という存在を巡る、いくつもの手がかりが、まるで定められたプログラムのように組み上げられ始めていた。


彼女にどのような影響が及ぶべきなのか。彼は、一つ一つの事象が、まるでパズルのピースを嵌めるかのように、あるべき場所へ収まっていくのを、静かに見つめていた。


彼の表情は、一見すると何の感情も読み取れない無表情だったが、その奥底では冷徹な何かの意思が、静かにしかし確実に形を成し始めていた。


彼の口元は微かに、しかし確かに、見えない何かの意思を象っていた。


窓の外の雨は相変わらず降り続いていた。


ザー、ザーという音は、飯田の耳には、まるで新しい何かが、静かにそして確実に動き始めた合図のように響いた。


彼の心の中にも、その雨のように、とめどなく冷たい決意が降り積もっていく。それは、彼自身の決意であると同時に、彼ではない何かの決意でもあった。


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