幻影
楓の胸の奥底で蠢いていた、怒りともつかない不快感は、佐野たちの高笑いが梅雨の湿った空気に溶けていくにつれて、得体の知れない重苦しさへと姿を変えていった。
その日から、彼女の日常はまるで色褪せた写真のように、現実感を失い始めた。
窓の外で降り続く雨音は、いつの間にか楓の心を蝕む不協和音となり、乾いたはずの喉の奥に常に淀んだ鉛の塊が詰まっているかのような不快感がつきまとった。
視界の端で、小夜の、あの虚ろな瞳が、鮮明に蘇っては消える。
屋上の冷たいコンクリート、微かに揺れる彼女の黒髪、そして、一切の感情を排したかのような、ただ遠い宇宙を映し出すかのようなあの眼差し。それは、井川がどれだけ振り払おうとしても、脳裏に焼き付いて離れなかった。
夜になると、その幻影はより一層、鮮明な悪夢となって井川を襲った。
じめじめとした空気がまとわりつく寝室で、何度、息を呑んで跳ね起きたことだろう。夢の中の小夜は、いつも同じだった。
屋上の縁に立ち、風に揺れる制服のスカート。そして、井川が手を伸ばそうとすると、ゆっくりと、しかし確かな意志をもって、虚空へと身を投げる。
その瞬間、井川の心臓は激しく波打ち、全身を冷たい汗が伝う。
その落下する様が、まるでスローモーションのように脳裏に焼き付いて、何度目覚めても、その重苦しさが胸の奥に澱んでいた。
枕は涙と汗で湿り、隣に置かれたスマートフォンは、常に午前三時過ぎを指していた。
時計の針が刻む音だけが、まるで楓の心の奥底で響く不穏な響きと共鳴し、部屋全体に満ちていく。
彼女は毛布を頭から被り、目をぎゅっと閉じても、瞼の裏にはあの光景が繰り返し再生されるのだった。
学校にいても、その精神的な疲弊は隠しきれないものとなっていた。
授業中、黒板に書かれた文字は、意味をなさぬ記号の羅列に見え、教師の声は遠い海の底から聞こえてくるようだ。
思考は常に、小夜の、あの最後の瞬間に囚われていた。
窓の外は、今日も鉛色の空から絶え間なく雨が降っている。窓ガラスを伝う雨粒の一つ一つが、小夜が流した涙のように見え、井川の心を締め付けた。
ふと、視線を隣の席にやった。そこは、もう空席だった。小夜の置いていった私物は全て片付けられ、そこにはただ、埃一つない清潔な机と椅子が残されているだけだ。
その光景が、かえって雛川の不在を際立たせ、楓の胸に鉛のような寂しさを落とした。彼女の視線が、まるで幽霊のように、その空席に吸い寄せられていく。
友人たちの楽しそうな話し声も、井川の耳には届かない。
彼女は、まるで透明な壁の向こう側にいるかのように、周囲との間に深い溝を感じていた。
ランチタイムも、以前のように気兼ねなく笑い合うことができない。
無理に笑顔を作っても、顔の筋肉がひきつるような不自然さを感じ、すぐに無表情に戻ってしまう。
話しかけられても、的を得ない返答をしてしまったり、あるいは、生返事になってしまう。
友人の一人が、井川の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「楓、まだ元気ないね、大丈夫?辛かったらもう少し休んだら?」
その優しい問いかけも、楓の心には届かない。彼女はただ、曖昧に微笑むだけで、何もないと答えた。
しかし、その声はひどく掠れていて、自分でも驚くほどだった。
その日以来、友人たちは楓に話しかける回数を減らしていった。まるで、楓の周囲に広がった暗い影に、無意識のうちに距離を置くかのように。
それが、楓にとっては、むしろ居心地が良かった。自分の内に渦巻くこの感情を、誰にも理解されたくない、触れられたくない、という拒絶の気持ちが、彼女を一層、孤独の淵へと沈めていった。
教室の喧騒の中にいながらも、楓はかつてないほどの深い孤立感を味わっていた。机に肘をつき、掌で頬杖をつく。
その指先が、ひどく冷たく感じられた。小夜の死は、井川の平凡で無気力だった日常に、初めて明確な波紋を投げかけた。
その波紋は、想像以上に深く、広く、彼女の内面を浸食し始めていたのだ。
雨は止むことなく降り続き、教室は、まるで水の中に沈んでいるかのような静寂と重苦しさに包まれていた。
黒板に書かれた漢字が、水中で揺らめく水草のようにぼんやりと見えた。
チョークが擦れる乾いた音さえ、耳の奥ではくぐもった響きとなり、やがて波紋のように消えていく。
楓の頬杖をつく指先は、まるで凍えているかのように冷たく、そこに微かな拍動を感じるだけだった。
彼女の視線は、再び小夜の空席へと引き戻される。あの机には、いつも薄い文庫本が置かれていた。休憩時間も、昼休みも、雛川はただ静かにページを繰っていた。
その細い指、時折窓の外を眺める横顔。全てが今、楓の網膜に焼き付いた幻影と重なる。
あの透き通るような肌、長い睫毛に縁取られた瞳。最後に見た、あの何の色も宿さない虚ろな眼差し。
「……井川さん、大丈夫?」
突如、すぐ隣からかけられた声に、井川はびくりと肩を震わせた。視線をやると、クラス委員長の田中が、心配そうに顔を覗き込んでいる。
普段は真面目でおとなしい印象の田中だが、その眼差しは明確に井川の顔色を案じていた。
「え……あ、うん。大丈夫」
井川は曖昧に答え、咄嗟に口元を歪めて微笑みを作った。
しかし、やはり顔の筋肉は言うことを聞かず、ひきつったような不自然な笑みになってしまう。田中の表情が、僅かに曇ったのが見て取れた。
「顔色、悪いよ。無理してない?」
田中は小さく首を傾げ、さらに声を落として尋ねた。その声は優しく、気遣いに満ちていたが、井川の心には鉛の膜が張られたかのように、何一つ届かなかった。
むしろ、その優しさが、楓を一層追いつめる重荷のように感じられた。
自分の中にある、説明できない、したくない感情の渦。それをこの言葉一つで理解されようとしているような、無意識の拒絶感が胸を塞ぐ。
「うん、今は少し寝不足なだけ。気にしないで」
井川は再び、掠れた声で答えた。声はほとんど囁きに近く、自分自身でも何を言っているのか分からないような状態だった。
田中は、それ以上何かを言うのを躊躇っているようだったが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「そっか。まあ、無理しないでね」
そう言って、田中は自分の席に戻っていった。その背中を見送りながら、楓は胸の奥で、わずかな安堵を覚えた。
同時に、また一人、自分から遠ざかっていったのだという、冷たい事実を突きつけられたような感覚も芽生える。
友人たちが距離を置くのも当然だろう。こんな、感情の泥沼に足を取られている自分など、誰がまともに相手にするものか。
窓の外では、雨脚がさらに強くなっていた。ザー、ザーという雨音が、井川の耳の奥で、まるで遠い場所で誰かが泣いているかのように響く。
空はいつまでも変わらず鉛色で、太陽の光が差し込む気配は微塵もなかった。
楓は、ふと、このままどこかへ消えてしまいたい、と思った。この息苦しさから、この重苦しさから、全てから解放されたい。
しかし、その願いが生まれると同時に、脳裏には再び小夜の顔が浮かび上がる。そして、その瞳が楓の目をじっと見つめ返すのだ。
まるで、「お前も、私と同じように苦しめ」とでも言うかのように。
楓は、両腕で自分の体を抱きしめた。制服の上からでも、肌の冷えを感じる。
この寒さは、外気温のせいだけではない、と彼女は直感していた。それは、彼女の内側から、魂の奥底から染み出してくるような、凍えるような冷たさだった。
心の芯が、まるで氷漬けにされたかのように固く冷たくなっている。
周囲の喧騒、生徒たちの笑い声、教師の声。それら全てが、遠く、現実味を帯びない残響としてしか、井川の意識には届かなかった。
彼女は、まるで深海の底に沈んだ小石のように、ただ一人、世界の重力に引きずり込まれるまま、静かに、そしてゆっくりと沈んでいく感覚に囚われていた。
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