嘲笑う声、芽生える憎悪

翌日になっても、学校を覆う陰鬱な空気は晴れることがなかった。


梅雨の雨は相変わらず降り続き、窓の外は鉛色の空がどこまでも広がっている。


校舎全体が、深海の底に沈んだかのように静まり返り、生徒たちの間を漂う囁き声も、すぐに湿った空気に吸い込まれて消えてしまう。


雛川小夜の死は、あまりにも唐突で、そして現実離れしていた。誰もがその衝撃を引きずり、授業中も教師の言葉は上の空で、ただ過ぎ去る時間を耐えているかのようだった。


井川楓は、自分の席から窓の外をぼんやりと眺めていた。あの日の朝、目の前で起きた出来事が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。


特に、落下する雛川と目が合った瞬間の、あの透明な諦観を宿した瞳が。その瞳は、井川の心に、これまで感じたことのない種類の、深い裂け目を残していった。


日常は、確かに終わったのだ。しかし、その先に何があるのか、井川には何も見えなかった。


昼休みになり、教室はいつもよりさらに重苦しい沈黙に包まれていた。弁当を開く音も、誰かの咳払いも、妙に響いて聞こえる。


そんな中、教室の隅、窓際に集まる三人の女子生徒の笑い声だけが、不自然なほどに大きく響いていた。


佐野愛、そして彼女の取り巻きの女子生徒二人。彼女たちは、まるで自分たちだけが世界の法則から外れた場所にいるかのように、笑い合っている。


その声は、他の生徒たちの耳には入らないように、しかし確実に周囲に不快な波紋を広げていた。


飯田将は、いつも通り教室の最も後ろの席で、机に突っ伏して身を小さくしていた。


その日の朝から、雛川の死に関する様々な噂が耳に届いていたが、彼はそれらを全て雑音として遮断していた。


彼の心の中には、雛川小夜という存在が、穢れることのない完璧な偶像として鎮座していた。


しかし、その澄んだ水面に、石が投げ込まれるような感覚が、不意に飯田を襲った。


「ねえ、聞いてよ。まさか本当に飛び降りるなんてさ、マジウケるんだけど」


佐野のわざとらしい軽薄な声が、飯田の耳に飛び込んできた。彼は、顔を上げずに、ただ耳だけをその会話に傾ける。佐野の声には、悲しみも、同情も、微塵も含まれていなかった。あるのは、薄っぺらい好奇心と、どこか冷笑的な響きだけだ。


「だよねー! いつも暗くてキモかったじゃん? まさか死ぬとか、最後にやってくれたって感じ?」


取り巻きの一人が、佐野の言葉に調子を合わせるように言った。もう一人の取り巻きも、ニヤニヤしながら頷いている。飯田の背筋を、ぞくりとした悪寒が駆け上がった。


キモい。彼らにとって、雛川小夜は、ただそれだけの存在だったのか。


彼らの言葉が、まるで刃物のように、飯田が大切にしていた雛川の清らかなイメージを切り裂いていく。痛みよりも先に、底知れない嫌悪感が胃の腑を掴んだ。


「そうそう。いつも本ばっかり読んでさ、いっつも一人ぼっち。友達いなかったもんね。可哀想に」


佐野は、嘲笑を隠そうともせずに続けた。その口調には、表面的な同情の影すらなく、むしろ小夜の孤独を優越感の燃料にしているかのようだった。


友達がいない。その言葉が、飯田の胸を強く締め付けた。雛川小夜は、孤独を愛していたわけではない。そうではないはずだ。


彼女は、ただ、あまりにも澄んでいて、この汚れた世界には存在できなかっただけなのだと、飯田は信じていた。佐野たちの言葉は、その信念を根底から揺るがす、冒涜的な響きを持っていた。


「これであの席も空いたしね。よかったじゃん、テーブル広く使えるよ」


取り巻きの一人が、からかうように佐野に話しかける。佐野は、嬉しそうにクスクスと笑いながら、髪をかき上げた。


「ま、別にどうでもいいけどね。最初から眼中にないし」


そう言い放った佐野の目は、どこか満足げに細められていた。眼中にない。飯田の脳内で、その言葉が、呪詛のように反響する。


彼女たちは、雛川小夜の存在をただの邪魔物としか認識していなかった。そして、その死を、自分たちの優位性を確固たるものにするための道具としか見ていない。


彼らの言葉は、雛川の死を矮小化し、その尊厳を踏みにじるかのようだった。


飯田は、机に突っ伏したまま、握りしめた拳の震えを必死に抑えていた。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。しかし、その痛みは、彼の心に渦巻く冷たい怒りの前では、取るに足らないものだった。


彼の脳裏に、あの日の朝、屋上から虚空に踏み出す雛川の姿が蘇る。そして、あの、遠い宇宙を見つめるかのような、静かで透明な瞳。


あの瞳の中に、彼らが語るような「キモさ」や「孤独」は、微塵も存在しなかった。彼らの言葉は、あまりにも醜悪で、冒涜的だ。


飯田の胸の奥で、何かが音を立てて砕け散る音がした。それは、彼が今まで外界から必死に守り続けてきた、雛川小夜に対する純粋な信仰だったのかもしれない。


その信仰が、佐野たちの無慈悲な言葉によって無残にも打ち砕かれた。だが、砕け散った破片から、別の、もっと冷たく、もっと鋭い感情が、ゆっくりと形を成していくのを感じた。それは、軽蔑だった。そして、その軽蔑の奥底には、煮えたぎるような復讐の炎が、じわりと芽生え始めていた。


彼らは、雛川小夜を穢した。彼の唯一の、そして絶対的な美を冒涜した。許せない。


この世界の全てが醜悪に見える中で、雛川小夜だけが唯一の救いであり、希望だった。


その希望を、彼らは踏みにじった。彼らの存在が、飯田の視界から世界の色彩を奪い、全てを漆黒に染め上げた。


飯田は静かに、しかし決然と、心の中で誓った。この冒涜を決して許さない。


あいつらには、必ず報いを受けさせる。雛川小夜の尊厳を、自らの手で取り戻す。それは、彼にとって、もはや生きる目的へと変わっていた。


彼の内側で冷たい復讐の炎が、静かに、しかし確実に燃え盛っていた。それは、梅雨の湿気た空気を突き破り、彼の全身を支配しようとしていた。


飯田はゆっくりと顔を上げた。その顔は、先ほどまで机に伏せていたことで、頬に赤い跡がついていた。


だが、それ以上に彼の瞳はこれまで見たことのないほど冷たく、底光りしていた。


焦点が定まらないようにも見えるが、その奥には確固たる意志が宿っている。教室の隅で笑い続ける佐野たちを、飯田は直視することなく、しかし、その存在をまるで皮膚で感じるかのように正確に捉えていた。


佐野たちの高らかな笑い声は、ついに他の生徒たちの間にも、無視できないレベルの不快感を広げ始めていた。


何人かの生徒が、ちらりと佐野たちに視線を投げ、すぐに目を逸らす。


彼らの間には、ひそやかな囁きが生まれ、すぐにまた沈黙へと吸い込まれていった。しかし、その短いやり取りが、教室の重苦しさをさらに増幅させている。


楓は、そんな教室の空気の変化を、敏感に感じ取っていた。窓の外の雨粒が、ガラスに叩きつけられる音だけが、単調に響いている。


彼女は、視線を佐野たちのグループへと向けた。佐野は、取り巻きの一人の肩を叩きながら、顔をくしゃくしゃにして笑っている。


その声は、他のクラスメイトの耳には届かないような音量に抑えられているにもかかわらず、井川の耳には、なぜか鮮明に聞こえてくる。


それはまるで、世界の音が全て遠のき、彼女たちの声だけが肥大して響いているかのようだった。


佐野の言葉が、耳の奥で反響する。「キモい」「一人ぼっち」「邪魔者」。


楓は、眉をわずかにひそめた。小夜の死を、彼女たちは本当にそんな風にしか捉えていないのか。楓の心に、漠然とした不快感が広がる。


それは、同情とは違う、もっと個人的な、生理的な嫌悪感に近いものだった。


昨日、屋上から飛び降りた小夜の瞳。あの透明な諦観は、決して「キモい」などという言葉で表現できるものではなかった。 


むしろ、そこに宿っていたのは、この世界の全てを見透かしたかのような、ある種の崇高な静寂だった。


楓は、視線を佐野たちから外し、教室の後方へと向けた。


飯田は、相変わらず机に突っ伏していたが、その肩が微かに震えているように見えた。


あるいは、それは楓の気のせいかもしれない。彼の周囲には、他の生徒が近寄ろうとしない、まるで目に見えない結界があるかのように、不自然な空間が広がっている。


楓は、飯田の存在を、クラスの風景の一部として漠然と認識しているだけだったが、この時ばかりは、その背中がいつもよりも小さく、そして同時に、何かもっと深いものが、その内に秘められているかのように感じられた。


佐野たちの笑い声が、再び高まる。今度は、もっとはっきりと、小夜の死を侮蔑するような言葉が混ざり始めた。


「だってさ、屋上から飛び降りるなんて、漫画かよって感じじゃない? どんだけ構ってほしいのよ」


取り巻きの一人が、口元を隠しながらひそひそと話す。佐野は、それに合わせて、意地の悪い笑みを浮かべた。


「ねー。本当、面倒くさい女。死ぬなら誰にも迷惑かけずに死ねばいいのに、ねぇ?」


彼女たちの言葉は、小夜が死んでさえも、自分たちの世界の中心にいる佐野を脅かす存在であり続けているかのように響いた。


楓は、無意識のうちに拳を握りしめていた。爪が手のひらに食い込むが、痛みは感じなかった。


ただ、胸の奥底で、これまで感じたことのない、抑えきれない何かが、蠢いているのを感じた。それは、怒り、というほど明確な感情ではなかったが、しかし、彼女の内にあった、すべてを傍観するだけの冷めた視点を、少しずつ揺さぶっていくのだった。

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