雨堕ちる

月雲花風

暗い雨、灰色の衝動

朝を告げる空は、厚い鉛色の雲に覆われ、地上の全てを淡い灰色に染め上げていた。


梅雨特有の重苦しい湿気が肌にまとわりつき、深く呼吸するたびに肺の奥までじめりとした空気が入り込む。


アスファルトに打ち付ける雨粒の音だけが、世界の存在を主張しているかのようだった。


井川楓は、いつものように傘を差さず、ただフードを深く被って通学路を歩いていた。


制服のシャツが湿気で少し肌に貼りつく感触が不快だったが、それを直す気力も湧かない。気だるさは、もう彼女の日常の一部となっていた。


濡れた革靴が水たまりを避けきれずに小さな音を立てる。その音さえも、この陰鬱な朝にはやけに響く気がした。


何の変哲もない日常。いつもの通学路。全てが予測可能で、だからこそ退屈だった。退屈。その言葉が、彼女の胸の奥で常に薄い膜のように覆いかぶさっていた。


梅雨の明けきらぬ六月は、毎日がこんな風にじめじめとして、世界全体が薄暗いフィルターを一枚かけたように見えた。


井川楓は、湿った空気の重みに肩を押し付けられるような感覚を覚えながら、いつもと同じ通学路を歩いていた。


雨は降ったり止んだりを繰り返しているが、今は小康状態を保っている。しかし、いつまた容赦なく降り始めるか分からない、そんな不安定な空気が街全体を覆っていた。


彼女の足元で、古びたローファーが水たまりの縁をそっと避ける。その動きは、彼女自身の人生に対する姿勢を象徴しているかのようだった。


波風を立てず、摩擦を避け、ただ流されるままに。何もかもが退屈で、しかしその退屈さにも特段の不満を抱くこともなく、ただ毎日をやり過ごしている。今日もまた、何事もなく一日が始まり、何事もなく終わるのだろうという漠然とした予測が、楓の思考を支配していた。


道の脇に咲く紫陽花は、雨露に濡れて色鮮やかさを増しているが、その彩りすら、この陰鬱な季節の中ではどこか沈んで見えた。


生ぬるい風が前髪を撫で、まとわりつくような湿気が肌に不快な膜を張る。イヤホンからは、いつもの気だるいロックが流れていたが、その音も心なしか遠く、現実から切り離されたように聞こえた。


やがて視界が開け、馴染み深い校舎が目の前に現れる。灰色のコンクリートに覆われた無骨な建物は、今日の空と同じ色をしていた。いつも通りの光景。何も変わらない。そのはずだった。


楓は、視線を何気なく校舎の上へと滑らせた。その瞬間、世界の色彩が、音までもが、一瞬にして消え失せた。


屋上のフェンスの向こう側、本来なら誰もいるはずのない場所に、人影があった。それは、細く、儚げな輪郭だった。


スカートが、まるで意思を持ったかのように、風に煽られて大きくはためいている。そこには、クラスメイトの雛川小夜が立っていた。


彼女の姿は、いつものようにどこか浮世離れしていて、この陰鬱な風景の中にあってさえ、異質なほどに繊細な美しさを放っていた。


楓の脳裏に、遅れて警鐘が鳴り響く。しかし、身体は鉛のように重く、声も出ない。


ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。雛川は、まるでダンスでも踊るかのように、しかしその動きはどこまでも緩慢で、重力から解き放たれる瞬間の美しさを見せつけるように、ふわりと一歩前へ踏み出した。


時間が引き伸ばされたように感じられた。小夜の身体が、地面に向かって垂直に、しかし優雅に落下していく。まるで、重力と戯れているかのようだった。


その顔は、無表情に見えた。あるいは、すべてを諦観したような、悟りの境地にも似た静けさすら感じられた。


そして、落下する途中、ほんの一瞬、小夜の視線が楓の目に吸い寄せられるように向けられた。


目が合った。その瞬間の記憶は、楓の脳裏に鮮烈な絵画のように焼き付いた。小夜の瞳は、底知れない深淵を覗かせているようで、しかし同時に、何の感情も宿していないかのような虚ろさも帯びていた。


それは、助けを求める目ではなかった。怨嗟の目でもなかった。ただ、そこに、深く、静かな、諦念の光が宿っていた。


言葉にならない問いかけと、答えの見つからない虚無が、その瞳の奥底で蠢いているように見えた。


次の瞬間、鈍い音がアスファルトに響き渡った。ドスッ、という、まるで生々しい果実が潰れたかのような、湿った音。


世界の音が、一斉に楓の耳に飛び込んできた。遠くで車の走る音、雨粒が葉を叩く音、そして、彼女自身の心臓がけたたましく脈打つ音。


膝から力が抜け、身体の均衡が崩れ落ちそうになるのを、必死で踏みとどまる。呼吸ができない。肺が、まるで水で満たされたかのように重い。


地面に横たわる、動かない小夜の姿。赤く広がる染みが、雨に濡れたアスファルトにじわりと滲んでいく。


それは、楓がこれまで生きてきた中で経験したことのない、あまりにも生々しい「現実」だった。


日常は、何の前触れもなく、音を立てて崩れ去った。そのひび割れた隙間から、これまで楓が目を背けてきた世界の醜悪さが、顔を覗かせ始めたかのように思えた。


目の奥に、あの虚ろな瞳が、鮮明に焼き付いて離れない。この日、この瞬間から、井川楓の世界は、決定的に変質してしまったのだった。


楓の意識は、視界の隅に広がる不自然な赤色に縫い付けられたまま、その場で立ち尽くしていた。胃の奥からせり上がるような、嫌な吐き気が込み上げる。喉が締め付けられ、呼吸が浅くなる。まるで、自分自身の身体が、目の前の光景を拒絶するように硬直していた。


遠くから、生徒たちのざわめきが聞こえ始めた。最初は単なる通学路の喧騒だと思った。しかし、それは次第に悲鳴のような、あるいは絶叫に近い声へと変わっていく。


一人が、また一人と、異変に気づき、校舎の屋上を見上げていた視線が、地面へと滑り落ちる。そして、その衝撃的な光景に、次々と反応を示す。


「キャアアアアアアアアアアアア!」

甲高い悲鳴が、雨上がりの湿った空気を切り裂いた。それは、一人の女子生徒が上げたものだった。


それに続くように、次々と複数の声が上がる。悲鳴、絶叫、嗚咽。生徒たちは、信じられないものを見たかのように、顔を真っ青にしてその場に立ち尽くしている。


恐怖と混乱が伝播し、見る見るうちに校門前は、異様な空気に包まれていった。ある者は呆然と立ち尽くし、ある者は口元を塞いで震え、またある者はその場にへたり込み、嘔吐する者までいた。


その瞳には、信じがたいものを見たかのような恐怖が宿っている。彼らの指が、震えながら雛川の横たわるアスファルトを指す。


「だ、誰か……人が潰れて……!」


誰かが絞り出すような声で呟き、それがまた、他の生徒たちの恐怖を煽る。彼らの顔は、血の気を失い、まるで蝋人形のように白く固まっていた。


校門から教師が飛び出してくるのが見えた。普段は生徒指導で厳しい顔をしている数学教師が、息を切らしながら駆け寄ってくる。彼の背後から、さらに数人の教師や事務員が続く。


「おい、何を騒いでいる!……な、なんだ、これは……」


教師の声が途中で途切れ、絶句する。彼の視線もまた、地面の雛川へと吸い寄せられた。


楓は、まるで別世界の出来事を見ているかのような感覚に囚われていた。周囲の喧騒も、悲鳴も、教師たちの狼狽も、すべてが薄い膜を通して聞こえるかのようだった。


耳の奥で、自分の心臓がドクンドクンと不規則に脈打つ音だけが、やけに鮮明に響いていた。


あの瞳。あの虚ろで、それでいて底知れない深淵を覗かせた瞳が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。なぜ、あんな目をしていたのだろう?


何が、彼女をあそこまで追い詰めたのだろう?

楓の全身を、冷たい悪寒が駆け巡る。それは、恐怖だけではなかった。


これまで感じたことのない、言い知れぬ不快感と、そして何よりも、途方もない喪失感が、彼女の胸にゆっくりと浸食していく。


通学路を歩く生徒たちの数はみるみる増え、校門前は瞬く間に騒然とした雰囲気に包まれていく。しかし、誰もが一定の距離を保ち、地面に横たわる雛川には近づこうとしない。


誰もが、目の前のあまりにも残酷な現実から、無意識のうちに目を背けようとしていた。


楓は、自分の掌を見つめた。薄い皮膚の下を走る青い血管が、やけに生々しく見える。まるで、あの時の小夜の命が、そこを流れる血液が、今も自分の手の中に残っているかのような錯覚に陥った。


いつもの退屈な日常が、永遠に終わったことを、呆然と受け止めるしかなかった。


雨は、容赦なく降り注ぎ、全てを洗い流そうとしているかのようだった。しかし、この瞬間の記憶だけは、決して消えることはないだろう。まるで、深い傷跡のように、井川の心に刻み込まれていく。


「おい!何をしている!みんな、見るな!すぐに校舎の中に、教室に入っていなさい!」


教頭らしき中年の男教師が、眼鏡を歪ませながら、震える声で叫んだ。顔は蒼白で、その声はほとんど悲鳴に近い。


だが、彼の指示は、すでにパニックに陥った生徒たちの喧騒にかき消され、ほとんど意味をなさなかった。


生徒たちは、未だ呆然と立ち尽くす者、顔を覆ってうずくまる者、そして顔を寄せ合い、ヒソヒソと信じられない現実を囁き合う者たちで、混乱の坩堝と化していた。


井川の足元の水たまりでは、赤黒い色が、雨粒の波紋と共に不規則な模様を描きながら脈動しているようだった。それは、血の塊が、徐々に、しかし確実に周囲の濁った水へと溶け出していく過程。


泥と雨、そして微かに鉄の混じった、生ぬるい匂いが鼻腔の奥にこびりつき、吐き気を催させた。


彼女の手は、気づけば無意識のうちに固く握りしめられていた。指の関節は白くなり、感覚は麻痺している。


冷たい雨がフードを通り抜け、額を伝って頬を滑り落ちていく。それは涙ではない。しかし、その冷たさが、井川の内に渦巻く途方もない虚無感を、かえって鮮明にさせた。


視界の端に、校舎の三階の窓が見える。彼女たちの教室の窓だ。あの窓の向こうで、小夜はいつも静かに本を読んでいた。


あの淡々とした横顔が、今ではもう、そこにはない。その事実が、ひっかかるように重く、井川の胸にのしかかった。


遠くから、何かを切り裂くような甲高い音が、雨音の向こうから聞こえてきた。最初はかすかだったそれが、徐々に、しかし確実に大きくなっていく。


サイレンだ。救急車の、それともパトカーの、あるいは両方だろうか。その音は、この現実離れした光景に、外界の冷たい介入を告げる狼煙のようだった。


それは、この奇妙な夢のような時間が、ついに終わりを告げ、冷徹な現実が押し寄せてくる合図。


かつて井川を支配していた「退屈」という感情は、雛川小夜のあの虚ろな瞳によって、無残にも粉々に打ち砕かれ、二度と元には戻らないことを、彼女は漠然と悟っていた。


世界は、変わってしまったのだ。そして、井川楓自身も、もう元の自分ではいられないのだと理解していた。

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