私の季節

 私は、リビングのテーブルの前に座って、ひたすら待っていた。


 自分にできることなんて、たかが知れている。

 ずっと真一さんに寄りかかって、甘えて、背負わせてきた。


 それでも——

 だからこそ。


 ドアが開き、「ただいま」と声がした。


 私は立ち上がらなかった。

 テーブルの上に置いたものを、じっと見つめたまま。


 カップ麺が、二つ。


 真一さんはそれを見て、目を丸くする。


「……香さん、それ、カップ麺?」


 私は、少し照れたように笑った。


「一緒に住み始めた頃、よく食べてたでしょ。

 懐かしいなって思って」


「いや……でも……」


 私は立ち上がり、彼の顔を見た。


 目の下の濃い隈。

 赤く滲んだ目。

 張りのない肌。


 期待という名の大きな車輪の中で、

 降りられずに走り続けるハムスター。


 ——それを回していた一人が、私だった。


「守らなくていいよ」


 私は、彼に近づいた。


「どうしたい? どんなのを書きたい?

 自分勝手になっていい。

 全部、なくなっても……」


 言葉が、少し震えた。


「なくなっても、私はいる。

 降りてもいいし、辞めてもいい。

 いろんなことから」


 真一さんは、黙ったまま私を見つめていた。


「私、半分こするから」


 私は、彼を抱きしめる。


「全部は無理だけど、半分。

 どうしたらいいかも、分かんない。

 才能もない。

 でも——半分こする」


 彼の腕が、ゆっくりと私の背中に回る。


「……ずっと、書けなかった。

 浮かばなくて……

 でも、君には見せたくなかった」


 私は、もっと強く抱きしめた。


「見せて。背負うよ。

 だって夫婦じゃん。

 売れてるとか、どうとかじゃなくて」


 彼の肩が、小さく震えた。


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●


 三橋真一は、復活した。


 新作を仕上げ、それは月刊ランキングの首位を取った。

 再び、大輪の桜のように。


 私は、言葉どおり、彼を支えた。

 妻としても、そして書き手としても。


 創作そのものに、私が入る余地はない。

 だから、食事を作り、愚痴を聞き、黙って隣にいた。


 そして、私はまた投稿サイトに戻り、小説を書いている。

 別の名前で、別の場所からやり直そうとも思った。

 でも、結局戻ってきた。


 世間は、「三橋真一の妻」という書き手に、もう飽きたのだろう。

 復帰してからは、嘘のように読まれなくなった。


 それでも。


 世間が飽きたのか、

 それとも——私が“誰かの影として書く”ことをやめたからか。


 分からない。

 分からないけれど。


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●


 緑地公園を歩きながら、私は立ち止まった。


 梅の花が、咲いている。


 桜のように派手じゃない。

 でも、確かに香る。


 夫のキラキラを見ると、

 正直、まだ胸はチクチク痛む。


 それでも——

 一緒に歩きたい。

 支えたい。


 だって、私は物書きだから。


 私は梅の花に、そっと触れる。


「大丈夫。私は、私の季節で咲く」

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キラキラ 京野 薫 @kkyono

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