ひび
ビーフシチューの穏やかな香りに、私は小さく息をついた。
時計を見る。十七時二十分。
あと三十分くらいで、帰ってくるかな……。
真一さんは、同じマンション内の別の部屋を執筆用に購入している。
朝八時半から夕方五時半まで、そこで書く。
それは同棲時代、もともと私がやっていたやり方だった。
生活と創作を分ける。
そうした方が、気力も感性も保てる。
広い部屋。
木目調で、やわらかく、それでいて高級感のある室内。
ドラマのワンシーンのようだ、と時々思う。
私が好みだと話したらそのような内装で揃えてくれた。
二作目が売れた頃、真一さんは言った。
「香さん、専業主婦でいいよ。好きな時に小説も書けばいい」
職場での誹謗中傷が増え、私が精神的に参っていたのを見かねての提案だった。
ありがたくて、優しくて、正しい判断。
だから私は、喜んでそれを受け入れた。
——私の能力は、三橋真一を支えるためにある。
そう信じた。
自分は自分のペースで書けばいい。
小説は呼吸で、人生で、手放せないもの。
夫の小説と、私の小説を包み込んで生きていこう。
あの頃は、本気でそう思っていた。
鍋が煮立つ音に気づき、慌てて火を弱める。
真一さん……遅いな。
最近、帰りが遅れることが増えていた。
対談、サイン会、テレビ。
執筆以外の仕事が、雪だるま式に増えている。
そのとき、スマホが鳴った。
画面には、真一さんの担当編集者——
私は通話に出る。
「……はい」
「あ、奥さまですか。左京です。突然すみません」
「いえ、大丈夫です。何かありましたか?」
「先生ですが……今日は、もう少し書きたいそうで。帰りが遅くなります。奥さまに謝っておいてほしい、と」
ぐつぐつと煮えるビーフシチューの湯気が、視界を曇らせる。
「分かりました。執筆に専念して、とお伝えください」
「ありがとうございます。助かります」
ほっとしたような、その声に胸がちくりと痛んだ。
そして、彼女は続けた。
「ところで、奥さまの新作も好調ですね。サスペンス・ホラー部門で三位。来週には一位も狙えそうですよ」
——まただ。
「そんなことありません。皆さん、素晴らしい方ばかりで……」
「ご謙遜を。三橋真一の奥さまが、今も投稿サイトで創作を続けている。それ自体が話題なんです」
言葉が、耳を滑っていく。
「成功した作家の“妻”が現役で書いている例は少ないですから。サイトの注目度も上がっていて」
私は、曖昧に笑った。
笑顔って、こんなにも疲れるものだっただろうか。
電話を切り、キッチンに立ち尽くす。
視線の先に、テーブルの上のクマのぬいぐるみが入った。
出版社が特注したマスコット。
「国光シリーズ」の主人公の机に置かれている、作中アイテム。
二作目が年間ベストセラー一位を取った記念に、贈られたものだ。
——マスコット。
私はクマをそっと手に取り、頬に当てる。
やわらかくて、何も言わない。
……私は、これなの?
そんな考えを振り払うように、ぬいぐるみを元に戻した。
真一さんが帰ってきたのは、二十時半を回ってからだった。
私は玄関で出迎え、そっと彼の背中を撫でる。
「お疲れさま。今日は大変だった?」
「……うん。順調だよ。たぶん、過去一番の出来になる」
「へえ、すごい。さすがベストセラー作家、三橋真一。
“ミダスの手を持つ作家”だっけ? 触れたものすべてを黄金に変える、って」
冗談めかして言うと、彼は苦笑して首を振った。
「そんなの、あったらいいよね」
私は彼の頬にキスをする。
「あなたの才能が、そうなんだよ」
「ありがとう。香さんもすごいよ。サイトでずっと人気だし」
「……お腹、空いてない? ビーフシチュー、作ってたんだけど」
「ごめん。今日は食欲なくて」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「先に、お風呂入ってもいい?」
「もちろん。湧かしてあるよ。
前に気になるって言ってたバスボムも、置いてあるから」
「ありがとう。香さんは、ほんと僕のことよく分かってる」
——夫婦じゃん。
そう返しながら、浴室へ向かう背中を見送った。
●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●
翌日も、真一さんは遅かった。
私は先に風呂に入り、全身を丁寧に洗う。
鏡に映る裸の自分を見て、なぜか目を逸らした。
黒と藍色の下着。
こんなの、同棲していた頃には身につけなかった。
パジャマのボタンを一つ、わざと外す。
執筆で疲れている真一さん。
こういう刺激なら、いいよね——
……愛したいのか、勝ちたいのか。
自分でも、分からなかった。
テーブルの上のクマのぬいぐるみが、視界に入る。
私は、マスコットなんかじゃ——
玄関のドアが開く音。
「ただいま」
心臓が跳ねる。
「お帰り。ごめんね、先にお風呂入っちゃった」
「大丈夫だよ。いつも気、使わせてごめん」
「ううん。我が家の大黒柱だもん」
ビーフシチューを出すと、彼は少し嬉しそうに笑った。
「昨日、食べられなかったから」
その笑顔を見て、胸が痛む。
食後、昔の話をした。
付き合い始めた頃。
小説の話ばかりしていた、あの頃。
「香さんって、昔からセンスあったよね」
「今さら言わないでよ。公開処刑じゃん」
「本気で尊敬してた」
その言葉が、なぜか刺さった。
夜、ベッドの中で、私は彼にすがるように口づけた。
「……天才の赤ちゃん、産ませて」
「……ごめん」
拒絶は、優しかった。
「大丈夫。また、今度で」
そう言いながら、私は彼の胸に顔を埋めた。
●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●
彼が眠ったあと、洗濯機に向かう。
脱いだ服を手に取った瞬間、息が詰まった。
——知らない匂い。
何度か嗅いだことのある、あの香水。
鏡に映る自分が、ひどく滑稽に見えた。
ぶら下がって、縋って、食らいついて。
それで、何を守りたかったんだろう。
「……私、マスコットじゃない」
震える声が、夜に溶ける。
私はスマホを取り出し、
小説投稿サイトのアカウントを、すべて削除した。
●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●
翌日。
私は、真一さんの仕事部屋の前に立っていた。
ここに来るのは、初めてだ。
手が震える。
喉が、からからに渇く。
合鍵を差し込み、ドアを開けた。
——静かだ。
中は、驚くほど簡素だった。
カップ麺の山。
最低限の家具。
冷蔵庫には、彼の好きな納豆と漬物。
そして、手つかずのケーキ。
私は、はっとする。
この部屋……
付き合い始めた頃の、あのワンルームと同じだ。
書斎に足を踏み入れた瞬間、
視線が、机の上に吸い寄せられた。
古びた木の机。
その上に置かれた、小さな写真立て。
中に入っていたのは、一枚の紙。
「小説が好きなあなたなら、小説もあなたを大好きです!」
それは、昔、私が送った言葉だった。
何気なく。
深い意味もなく。
それを——
彼は、ずっと置いていた。
背後で、ドアが開く音がした。
振り返ると、左京敬子が立っていた。
「……奥さまも、心配になったんですね」
彼女の声は、疲れていた。
「先生、いま限界で。新作……間に合わないかもしれません」
「そんな……」
「期待が大きすぎるんです。
奥さまの存在も、支えであり、重荷でもあって」
彼女は、それ以上、言わなかった。
それで、十分だった。
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