キラキラ

京野 薫

キラキラ

 あ、梅の花……。


 私は足を止めて、ふっと見上げた。

 頭上に咲く、細やかで可憐な花。

 甘い香りを放ちながら、風に揺れている。


 自宅マンション近くの緑地公園。

 結婚とともに引っ越してから、ここが何よりもお気に入りになった。

 歩いていると、脳細胞がぷちぷちと音を立てて目覚め、創作のアイデアが浮かんでくるのだ。


 もう少し歩こうかな……。

 でも、そろそろ夕食の準備も始めたい。


 真一さんの好きなビーフシチュー。

 それを作ると約束したのだ。


 発売予定の新作小説の追い込みで、毎日へとへとになっている夫。

 去年から注目度が一気に上がってきた出版界の新鋭——それが彼、三橋真一みはししんいち


 二年前に発表したサスペンス小説『朝と夜の国境』がベストセラーとなり、書店では平積み。

 電車では中吊り広告。

 テレビでも特集された。

 

 半年後に出た続編、さらに三作目も大ヒット。

 ドラマ化が決まり、来年夏には初の映画化も予定されている。

 主人公の探偵の名から「国光シリーズ」として知られるようになった。


 私はそんなことを思い出しながら、小さくため息をついてマンションへ戻る。


 誇らしいこと。

 夫がベストセラー作家になり、生活も変わった。


 目の前にそびえる高級マンション。

 高級外車が並び、住民同士が顔を合わせにくい造りのエレベーター。


 そんな住民の間でも、

「三橋真一」と、その妻である私——三橋香みはしかおりは、一目置かれている。


 そう……「妻」である私も。


 エントランスに入ると、コンシェルジュが頭を下げる。

 プロなので顔には出さないが、彼女も夫のファンなのは知っている。ちらりとサイン本が見えたのだ。


 だから、私を見る目も、心なしか上気している。


(この人、あの三橋先生の私生活を知っているんだ)

(あの三橋先生に愛されているんだ)

(一般人の知らない先生の姿を知っている……)


 憧れと、羨望と——そして、嫉妬。

 それが湯気のように、つかみどころなく漂いながら、でもはっきりと伝わってくる。


 私は気づかないふりをして、にっこりと微笑んだ。

 ここで変な態度を取れば、夫の印象が下がる。


(三橋真一の妻は無愛想)

(お高く止まっている。三橋先生はあんなに気さくで優しいのに)

(きっと家庭でも先生を押さえつけているんだ)


 匿名で流れる噂。

 SNSにとって、これほど美味しい餌はない。


 ああ……嫌だ。


 私はコンシェルジュに、できるだけ柔らかな声で言う。


「いつもご苦労さまです。ありがとうございます」


 会釈する彼女の脇をすり抜け、エレベーターに乗る。

 密室になると、壁にもたれて大きく息を吐いた。


 彼が売れる前。

 一緒に暮らしていたアパートでは感じなかった、喜びと優越感と、疲労。


 胸にそっと手を当て、スマホを取り出して小説投稿サイトを開く。


 そこには、自分のペンネーム。


 新作へのいいねや評価ポイントは、相変わらず途切れない。

 ランキングでも、毎回上位だ。


 それを見て、乾いた笑いがこぼれた。


 ——ばかみたい。


(私の「作品」なんて、見ていないくせに)


 エレベーターを降り、歩きながらコメントを流し読む。


 前は嬉しかった。

 でも、今は作業だ。


「三橋先生の奥さまの新作、最高です」

「やっぱり夫婦ですね! ヒロインの心理描写が三橋先生そっくり」

「このどんでん返し、先生っぽくてワクワクします」

「ぶっちゃけ、コツ教えてもらってますよね?」

「夫婦生活のエッセイ、書いたら絶対読みます!」


 私は立ち止まり、画面を凝視した。


 呼吸が浅くなる。

 こめかみが、脈打つ。


 返信欄に指を伸ばす。


『夫からは何も聞いていません。これは私が考えた——』


 途中で、全部消した。

 そして、深く息を吸う。


 こんなことなら、執筆なんて続けなければよかった。

 ——でも、私は。


 通路の奥から、母子の笑い声が聞こえてきて、はっとして笑顔を作る。


 綺麗な服を着た母親と、名門小学校の制服を着た子どもたち。

 母親は私を見ると、顔を赤くして微笑んだ。


 ああ、あなたも——夫のファン。


 私は微笑み、静かに頭を下げた。


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●


 夫とは、同じ小説投稿サイトで知り合った。


 共通の知り合いである書き手が主催した、小さなオフ会。

 その場に、偶然二人とも顔を出したのだ。


 もともと、お互いにサスペンスや恋愛小説を書いていて、作風もどこか似ていた。

 コメント欄や近況日記での交流はあったけれど、直接顔を合わせるのはこの時が初めてだった。


 彼——三橋真一は、当時サイト内では「知る人ぞ知る」存在。

 私は評価ポイントやPV数でも、いわゆる上位層だった。


 そんな私に対して、彼は少し緊張したような、それでいて純粋な憧れの視線を向けてくれていた。


 私も、彼の小説への真摯な姿勢や、底に流れる受賞への野心に惹かれていった。


 感覚と衝動で書く私に対して、彼は氷のように冷静で、精密機械のようなロジックで物語を組み上げる人だった。

 自分にはない感性。


 それが眩しくて、刺激的で——

 気づけば、お開きの時間まで二人で小説談義に夢中になっていた。


 その場で連絡先を交換し、やがて二人きりで会うようになり、

 いつの間にか、一緒に住み始めていた。


「香さん、絶対そのうち受賞しますよね……いいな。そしたら、専業主夫にしてください」


「だめ。一緒にデビューするの。あなたのこと、日記で『天才』って書いたんだから」


「え……そんなこと書いたんですか。勘弁してください。公開処刑じゃないですか」


「ふふ。大丈夫。私は見る目があるから」


 私はそう言って、彼に抱きついてキスをした。


 あの頃の彼は、よく泣きついてきた。

 読まれないこと、評価されないこと。

 それでも書きたいのに、書けなくなりそうな夜。


 私はそのたびに言った。


 ——私の目に狂いはない。

 ——小説が好きなあなたなら、小説もあなたを好きになる。


 深く考えた言葉じゃなかった。

 自分の原稿の合間に、何気なく送ったメッセージ。


 それでも、彼は踏みとどまった。


 半年後、私たちは結婚した。


 そして、その翌年。

 三橋真一は、サイト内の賞を受賞した。


『朝と夜の国境』で。


 私は、心から嬉しかった。

 自分のことのように誇らしかった。


 あの頃は、まだ信じていたのだ。


 このまま、

 同じ場所に立ったまま、

 同じ速度で、

 一緒に歩いていけると。

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