ざくろの叫び

深海かや

第1話

 私は柘榴ざくろらしい。


 初めてそんな風に言われたのは、今や私の元彼という称号を顔面に貼り付けている隆二りゅうじに背中をさすられていた時だった。男性にしては細く長い指先が、ちょうど窓ガラスを伝う雨粒みたいに裸の私の背中をなぞっていく。くすぐっさたさと頭の奥まで響いてくるような痺れにも似た感覚に、私は思わず目を閉じていた。


──美桜みおは、柘榴ざくろみたいだな。


 低音の、甘い声がふいに胸に舞い落ちてきて、私は意味が分からず咄嗟に振り返った。それが何がすら分からなかったのだ。柘榴? は? なにそれって感じだった。隆二は私の反応が面白かったのか声を上げて笑い、それから教えてくれた。柘榴はどうやら果物のようで、真っ二つに割ると濃度の濃い血液のような色のちいさな粒々の果肉が姿を現し、それを歯で噛み締めた時には濁流のように果汁が溢れるらしい。私をそれに喩えたのは、肌の質感がこれまで出会ったどの女よりも肌に水気があるうえにキメが細かく、抱き合うとヒルのように吸い付いてくるからだそうだった。


 隆二はまるでそれが自分に課したルールかのように行為を終えたあとは決まってこう言った。美桜は柘榴みたいだと。私たちは一年程付き合っていたのだと思う。デートというデートはほとんどしていなかったし、会うのは週末だけという縛りも向こうの都合で、正直私からしてみればいつ切ってやっても良かったが、変にちゃらけた若い男に振り回されるかよりはよっぽど増しだった。それに、年が二十も離れていた為に、その年齢の男性にしか出せない色気や包容力がほんの少しだけ心地よくもあった。


 私は当時十九歳。隆二は四十一歳で大学で講師をしていた。けれど、ある時私と二人でホテルに入っていくところを学生にみられ、そのうえ写真をSNSで拡散され、妻子ある身でありながらなんちゃらみたいな感じで世間的に抹殺された。私はその時になって初めて隆二に家族がいることを知ったのだけれど、へーという感じだった。元々週末しか会えない時点で大方察し察しはついていたし、そもそも私は逆上する程お前に対して気持ちはないよ、と「もう会えない。すまない」と泣きながら謝罪の電話をしてきた隆二に優しく諭してあげた。私たちの関係はそれで終わった。後腐れなんてなかった。排水溝に流れていく髪の毛みたいに、ぬるっと私の頭から消えていった。


 もう二度と思い出すこともないだろう。そんな風にすら思っていたのに、ついさっきあの言葉を言われた。それも、別の男に。


「なんかジジ臭いんだよねそれ」


 アフター終わりに入ったホテルで、もう何度も言われいい加減飽きた言葉を久しぶりに耳元で呟かれたのでそう言ってやった。客dは枕に頭を乗せたままこちらをみて目を丸くしている。


「どこがジジ臭いんだよ」

「いや、女の身体をざくろに喩えるとことか? 少なくとも私と同年代の男の子なら絶対そんな年寄りじみたセリフ吐かないし」


 客dはくっくっと歯を鳴らすようにして笑った。「まあそう言うなよ」と身体を起こし、サイドテーブルに置かれていたライターと煙草に手を伸ばしている。蜜色の明かりに照らされて客dの身体が闇の中で浮き彫りになる。筋肉質で引き締まった身体をしているが、髪の生え際の辺りには白いものが混じっている。年は、確か50代。こいつは私の働くキャバクラの客で、身体の関係を持つようになったのは去年の夏からだった。私は隆二から別れてからというものタガが外れたように複数の男と関係を持つようになり、こいつはその一人だ。


「それにしても良かったな」


 客dが部屋の奥の方に眼差しを向けながら遠い目をしている。数分前の私との行為を思い浮かべているのかもしれない。客dの口から吐き出された煙が生き物のように揺れ動いている。


「ねえ、私にもちょうだい」


 肩に手を添えながらそう言うと、客dは「ほら」と煙草の箱を手渡してきた。


「いや、一本もいらない。一口吸わせてくれたらそれでいい」

「なんだヤニとか気にしてんのか?」

「はあ? あんたと違って私は真っ白だから」


 思い切りニッと笑って白い歯をみせつけてやる。


「そう言えば美桜は差し歯だったな」

「いや、インプラントだから」


 笑みを浮かべながら、なんで私は今こんなやつと会話をしているんだろうと胸のなかで毒づいた。


「一緒だろ?」

「全然違うし。いいから早くちょうだい」


 あーーー、と胸のなかだけで叫び声をあげる。死にたい。死にたい。死にたい。無理やり煙草をもぎ取ると、ベッドの上に黒い雪が舞った。あっおい、と客dが途端に声を上げたが、そんな事はどうでも良かった。黒い雪を手で払い、思い切り煙を吸い込んだ。一瞬で肺の中にそれが満ちていき微かに高揚感を覚えたが、私の中が満たされることはなかった。


 子供の頃から私はずっと何かを求めていた。けれど、一体自分が何を求め、どうすれば満たされるのか分からなかった。ずっと渇き、干からびてる。そんな感じだった。


 女友達と馬鹿みたいな話をしている時も、彼氏にどれだけ愛を注がれようとも、私は顔の表面にその時々で適切な表情を貼り付けるだけで、心が波打つことは無かった。凪いだ海みたいだと言えば聴こえは良くなるが、実際はそんな綺麗なものじゃない。どす黒く染まった沼が、カピカピに干からびてる感じだった。


 私は今年で二十一歳になる。それまで何もしなかった訳ではなかった。少しでも私の中が満たされるようにと、まずは人間の三大欲求に目を向けてみた。仕事を休み、家から一歩も出ずに一週間ただひたすらに寝続けたこともあったし、携帯に指を滑らせながら食べたいと思ったものは片っ端から注文し、吐くまで食べたこともあった。けれど、便器に顔を突っ込みながら口から漏れ出てくるものは唾液と吐瀉物が入り混じった黒い沼だった。手の甲で口を拭いながらそれをみて、ああこれじゃない、とすぐに気付いた。残った欲求はあと一つ。それは、性欲だった。私は元々性欲がそこまで強い方では無かったけれど、もしかしたら私が知らない私が中に潜んでいて、そいつは滴り落ちてくる果汁を手をこまねいて待っているのかもしれない。そう思ってからは片っ端から男と身体を重ねた。隆二と別れたのは、ちょうどいい機会でもあった。


 目が覚めたら客dはいなかった。枕はあいつの頭のかたちでへこんだままで、裸の私の隣にはすっぽりと開けた空間があり、キングサイズのベッドがいやに広く感じた。


 下着をつけていた時、サイドテーブルの上にお金が置かれていることに気付いた。全部一万円札で数えてみると十枚あった。それを鞄の中に乱雑に詰め込み、携帯に指を滑らせると客dからメッセージが届いていた。


〈今日はありがとう。仕事があるから先に行くわ〉


 その下に二時間前に届いたばかりのメッセージが一件ある。


〈今なにしてんの〉


 愛美まなみからだった。受信した時刻は午前十時とある。ということは今はもう昼なのか、と今更ながら私はそんな時間まで寝てしまっていたことに気付いた。カーテンが締め切られている為、時間の感覚が分からなくなっていたのだ。


〈今起きた〉


 そう返事を返すと、〈おそっ、今日暇? ランチとかどう?〉とすぐに返信が届いたので私は身だしなみを整えてからホテルをあとにした。


 ランチは駅前にあるオーガニックカフェですることになり、私はホテルを出たその足で真っすぐに向かった。


 二人です、と店員に告げると、春の透明なひかりが降り注ぐテラス席に通された。アイスコーヒーを頼み、ぼんやりと空を眺めていると「美桜ー」と声がする。振り向くと通りの向こうから愛美が手を振っていた。白のシャツにピンクのマーメイドスカートといういかにも女子大生らしい服装だった。


「待った?」


 笑みを向けられ、首を横に振る。すると愛美の視線が私の鎖骨の辺りに向けられた。


「美桜ってやっぱりそっち系の服似合うよね。鎖骨とか肩とかめちゃくちゃ綺麗」


 私は黒のオフショルダーを着ており、肩から胸の辺りまでは素肌をむき出しにしていた。自分で言うのもなんだが、肌にだけは自信があった。新雪のように白く透明感があって、肌質も良い。男たちは、そんな私の肌に触れながら柘榴みたいだと言う。


「今週忙しかった?」


 店員に注文を告げたあと、愛美が大きな目を何度も瞬きしながら問いかけてくる。


「いや、なんで?」

「全然返信返してくれないから」

「愛美が送ってくるメッセージのスパンが速すぎるんだって」


 愛美は少なくても一日に五、六通。多ければ二十通程メッセージを送ってくる。それに私が返事を返しているか否かは関係なくて、いつも一方的に送ってくるのだ。私はそれにまとめて返事を返す時もあれば、一番最新のものにだけ返す時もある。


「めんどくさかったら言ってね。私さ、携帯開いたらSNSに呟くみたいな感じで美桜にメッセージ送っちゃうとこあるから」


 夕立が降ったみたいだった。途端に悲しげな顔をする愛美の目を見ながら「そんな風に思ったことないよ」と言った。事実だ。愛美と同じ時間を過ごせる事もメッセージが来る事もむしろ嬉しかった。愛美と私は高校の同級生だった。でも、何をしても満たされなかった私は行く意味を見失い、高二の時に中退し夜の世界へと羽ばたいた。そんな私に今でも連絡をくれるのは愛美だけだったのだ。


「お待たせしました。パスタセットをご注文のお客様」


 トレイに料理を乗せた女性の店員さんに微笑みかけられ、私はちいさく手を上げた。すぐに愛美の頼んだ料理も運ばれてくる。最初は他愛もない話をしていたが「ねえ、私の手触ってみて」と手首から二の腕にかけてを目で促し、愛美がそれに触れてから「私の肌さ、水気が多くてざくろみたいだって男に言われるんだけどどう思う」と問いかけると、途端に愛美の顔が曇った。


「まだそんなことやってんの? もういい加減やめなって」


 私が唯一心を許している愛美には全てを告げていた。私のなかが渇いているということ。そのせいで、なにをしていても満たされず、実験的に男を漁っているということ。


「なんで」

「なんで? 身体を大切にしなよ」


 愛美には私が満たされないことを話している。なのに、何故そんなことを言われなければならないのか分からなかった。


「食事とか睡眠の時はさ、私も目を瞑ってたけど身体は駄目だって」


 凄い剣幕だった。かといって私は私の主張をねじ曲げるつもりもない。平行線になるくらいならと思って話題を変えることにした。


「そんなことよりさ大学はどう? 彼女とか出来たの」


 愛美の恋愛対象は女性だ。それを知っているのは高校の時から私だけだった。


「出来るわけないじゃん。思いが通じ合うのって奇跡みたいなもんなんだよ。男女の恋愛でもそうなのに、私みたいな人間は尚更難しいよ」


 薄く笑みを浮かべながらも微かに水の膜が張っているように私にはみえた。私はそれをみながら、ついさっき愛美に触られた二の腕の感触を確かめるように指先でなぞった。


*

 目が覚めたら、ひどく喉が渇いていた。思わず喉元に手を添えてしまう程に。サイドテーブルに置いていたグラスに手を伸ばしあおるように飲んだ。空になったグラスを手にキッチンへと向かい、流しに置く。飲み口についていた水滴がつぅっと流れ、流しを湿らせていく様をみている内に無性に死にたくなった。私の人生ってなんなんだろ。ふいに芽生えたその疑問が、私のなかで急速に虚しさとして枝葉を伸ばし、私は一瞬だがそれに殺されてしまうかもと恐怖すら感じて床にへたり込んだ。


 なんだか力が入らなくなった。家には私意外誰もいない為、隣にあった黒の冷蔵庫に頭を預けさせてもらう。耳を澄ませると、冷蔵庫の心音を感じた。ごぉぉぉって、絶えず流れる機械音はどこか歪で、いつかふいに止まってしまうんじゃないかと心配になった。


「私の心臓と取り替えてあげようか?」


 部屋のなかで私とこいつ。相手は冷蔵庫。空虚な空気で満ちた部屋のなかに、こいつの鼓動だけが満ちている。窓の向こうではたぶんきっとひかりで満ちている。太陽が、ちょうど空の真ん中を陣取った頃だろう。私のいつもの起床時間だ。母親に手を繋がれたちいさな子供、制服姿の女の子たち、お昼時のスーツ姿のサラリーマン。皆、この世界で生きることのなにが楽しくてそんな風に笑えるのかと疑問に思ってしまう程に、この時間の世界は笑顔で満ちている。


 私には、その世界があまりにも眩し過ぎて、こんな風に部屋のなかで冷蔵庫と話しているくらいがちょうどいい。私は、生き方が分からなかった。自分の人生の、歩み方が分からなかった。生きる意味すら見出だせないこの世界で、なにも満たされないこの世界で、どうやって笑ったらいいのか、どうやって幸せになったらいいのか、それが分からなかった。


 仕事は順調だ。太客は数人いるし、夜をしているだけあって給料もいい。心から信頼出来る友達だって愛美だけだがちゃんといる。だけど、なにかが足りない。私のなかはずっと渇いたままで、私のなかで生きるわたしは、ずっとその渇きに藻掻き苦しんでいる。薄暗く、やたらと湿度の高い部屋をぼんやりとみつめ、いつかその日が訪れるなら今死にたいと願った。


 客aが私が働く店に来たのはその一週間後のことだった。ゲストグラスに氷を足していた時、「なあ今日どう」と耳元で呟かれ、私は「いいよ」と笑みを浮かべた。すると、客aは分かりやいくらいにやりと笑い、私が濃いめに作った麦焼酎を口元に運んだ。テーブルの上に置いていた携帯が震えたのはそんな時だった。


〈今日仕事? 終わったら会えない?〉


 愛美からだった。すぐに指を滑らせる。


〈ごめんまだ風邪治ってないから今日は無理〉


 あの日以来、私は愛美に対して嘘をつくようになってしまった。不特定多数の男の人と関係を持つのは今すぐに辞めるべきだという内容のメッセージを何通も送ってくるうえに、夜が更けてくると私の行動を知ろうとしてくる。昔から世話焼きなところは確かにあったがここまで私の考えを改めさせようとしてくるのは初めてだった。


「誰だ? 男か?」


 客aが横から覗き込んできたので「女の子だよ」と携帯をみせた。それから「おせっかいな友達」と付け足した。


 客aはいつもオーラスで来てくれる。目的は私の身体だろうけど、私自身自分の中を満たせる可能性があるならなんでも良かった。アフターで近くのBARで一杯だけ飲み、ホテルへと向かった。淫靡な香りを孕んだ夜の空気が充満した、古びた店が立ち並ぶ通りを歩いていた。しばらくすると、闇の中でピンク色に発光する看板がみえてきた。心なしか私の手を引く客aの足取りが早くなる。手は、BARを出てからすぐに繋がれた。


──相変わらず柘榴みたいだな。


 私の手に触れてそう呟いた客dの顔を思い浮かべていると、「美桜」と名を呼ばれた。振り返ると愛美が立っていた。ぐんぐんと歩みを進め、客aから私の手を引き剥がしてきた。


「ちょっとなに? 仕事中なんだけど」


 意味も分からずそう口にすると、「仕事? 風邪じゃなかったの」と愛美が私の瞳の中心を捉えてくる。


「美桜、こんな事やめなって前にも言ったよね」

「関係ないでしょ」

「あるよ。私の友達だから」

「……友達」


 確かに愛美は私の友達だ。でも、友達との時間で私が満たされる事はない。それに、愛美の世話焼きにはもううんざりだった。いくら友達とはいえ他人は他人だ。自分ではない誰かのご機嫌取りをするくらいなら、私は私の為に時間を使いたい。欲を、満たしたい。


「いい加減にしてよ」


 そう呟くと、愛美が目を見開いた。


「自分が男を好きになれなくて彼女も出来なくて暇なのはわかるけどさ、その時間を私で埋めようとしないでよ」

「なに言ってんの」

「私は満たされたいの。今この瞬間もずっと渇いてる。ずっと求めてる。だからさ、愛美に付き合ってる暇なんか私ないの」


 瞬間、愛美は決壊した。私は客aの腕を掴み「早く入ろう」と促した。背を向けたその瞬間、肩をつかまれた。思い切り力を込められ振り返ると、唇に柔らかいものが触れた。少しして、それが愛美の唇だと分かった。


「なにしてんのよ!」


 思い切り突き飛ばした。


「愛美が女を好きになるのは勝手だけど、私まで同類にしないで!」


 声を張り上げた時、私の中から微かに水の揺らぐ音が聴こえた。愛美は指先で涙を拭いながら真っすぐに私を見つめていた。


「いつまで自分に嘘つくの」

「なにを」

「どうして美桜が満たされないか、私には分かるよ。高校の時からずっと一緒にいたから。さっき、キスした時、なんも感じなかった? 本当に分かんないの」


 うるさい。黙れ。黙れ。黙ってよ。私たちのやり取りを呆気にとられ見ていた客aの腕を掴み、ホテルへと引きずり込んだ。背中に「美桜!」と私の名を呼ぶ声が突き刺さったが振り返らなかった。


 部屋に入るなりすぐに服を脱ぎ、客aをベッドに押し倒した。上にまたがり「ねえ、キスして早く」と泣きながら言った。すぐに客aの唇が触れたが、私の中は渇いたままだった。けれど、先程の愛美との唇を重ねた記憶が噴煙のように頭の中で舞い上がった時、また水の揺らぐ音が聴こえた。


 ──ねえ、美桜。私さ、こうやって美桜の隣にいると凄く落ち着く。


 あれは、高校の屋上だった。隣には私の肩に頭を預ける愛美がいる。当時の私たちは昼休みになるといつも一緒にご飯を食べ、それからグラウンドでサッカーや野球をしている男子たちを眺めながら「愛美はどんな男の子がタイプ?」などと言って、くだらない事で笑い合うのが日課だった。当時の私はまだ、愛美から告げられていなかった。けれど、その時から私は気づいていた。愛美が向けてくる眼差しや、指先の仕草、それから私の身体に触れてくる頻度。それらは全て特別な感情があってこそだと。


「なにこ、れ」


 なにかが、満ちていく気がした。


 もしかしたら私は。その考えに至った時には服を着て飛び出していた。ホテルの前に愛美はいなかった。だから、路地を走り抜けた。


 私は愛美の気持ちに気付いていた。毎日連絡をくれることも、ランチや遊びに誘ってくれることも、私への眼差しやその笑みだって、女の子が愛する人に向けるそれだと気付いていた。ただ、みないようにしていただけで。そして、私自身、愛美に身体に触れられる度にその道を指先で辿りたい衝動に駆られる事にも気付いていた。だけど、認めたくなかった。いや、怖かったのかもしれない。同性を愛するという事は、その難しさは、当時の愛美がひどく悩んでいたから知っていた。そんな風に私も受け入れ、悩み、この世界で生きていくことが怖かったのかもしれない。私は、弱虫だ。だから、愛美の気持ちを受け入れる事が出来なかった。たった一人の女性を、何年間も愛し想い続けるその美しさでさえみないようにしてしまった。


 ピンクや青、それから白と、幾重にも折り重なる光の束が今夜もこの路地には落ちていた。淫靡な香りが夜の空気と混じり合い、どこかよそよそしい雰囲気で建物へと消えていく男女のカップルと何組もすれ違った。愛美。愛美。と何度も胸のなかで叫び探し続けていた時、場違いなハーモニカの音が鼓膜に触れた。お世辞にもうまいとはいえない小汚い音色が路地に響いている。私は導かれるように足を進めたが、その源に辿り着いた瞬間息を呑み思わず足を止めた。そこには、大人二人分程の建物と建物の隙間に座り込み、左手だけでハーモニカを吹いている男がいた。白いワイシャツはすすと埃でまみれ、足元には赤い缶を置いている。視線は地面にやりながら時折身体を揺らし、必死に息継ぎをしながらもハーモニカを吹いていた。


 私はすぐに財布を開き、中に入っていたお札を全て取り出した。目の前に置かれている赤い缶にそっといれ、じゃあね、と背を向けた。その時には涙が溢れていた。一度零れ落ちた涙は、最初に落ちたそれを追いかけるように次々と頬を伝った。感情がぐしゃぐしゃで、もう壊れてしまいそうだった。私はたった一人の友達を失い、そして初めて私のことを柘榴ざくろと呼んだ男の現状をみてしまった。私の、せいじゃない。私だけの、と何度も考えを改めようとするがそれでも罪悪感で胸がいっぱいになる。いや、可哀想だと思う時点でもう駄目なのかもしれない。どこか上からみてしまっているのかもしれない。彼は彼なりに、現状を打破しようと精一杯生きている。生きているのだ。


 私だけだ、と思う。この世界に悲観し、なにも満たされないからと死を願い、そして友達を、愛さなければならない人を、愛するに値する人を傷つけた。夜空を見上げた。もう涙をぬぐう気にすらなくて、首筋まで涙は伝った。失った。失って、初めて気付いた。私は、本当にざくろだったのかもしれない。溢れんばかりの果汁が、その幸せが、愛美が傍にいてくれている間私の中では満ちていたのかもしれない。けれど、私は胸の奥底にまで目を向けることが出来ていなかった。いつもその表面にある渇いた部分にだけ目をやって、ずっと愛美を傷付けていた。


「私、馬鹿だ」


 荒ぶった息を吐き出しながらそう呟いた。辺り一帯には夜の闇が溶け落ちていた。その闇を身に纏い、私は生まれたての赤子のように泣き叫んだ。




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