第6話

 葉山の家は団地の1室だった。玄関扉の郵便受けには、よれよれの封筒がいくつも入っていた。

 中に入ると、玄関に物が散乱していた。そして、異臭が鼻をついた。腐敗臭とも生臭さとも言えない色々な悪臭を含んでいて息を止めないと吐き気が止まらなかった。

 葉山についていって、リビングに入っていくと、暗がりでテレビだけがやけに明るく光っていた。テレビの前にはダイニングテーブルがあり、椅子には葉山の母親が座っていた。テレビの光で気づいたが、あちこちに食べ終えた食品の容器が散乱していて、玄関よりもひどい悪臭がして息もできなかった。葉山が母親の背中に向かって「ただいま」とか細い声で言ったが、葉山の母親はピクリとも反応を見せなかった。この家庭の異常性というか、張り詰めた緊張感というか、息苦しさを感じた。

 葉山は気にとめていない様子で、リビングの隣の戸を開き、部屋に入っていった。僕も続けて部屋に入ると、リビングとは異なり、整理整頓されていた。そこは葉山の部屋で、全くの別の場所に来たかのように感じた。葉山はおもむろに制服を脱ぎ始めたため、僕は視線をそらす。

 布が擦れる音が止むと、スプレーの音がした。もう着替え終えたと思い、振り向くと、葉山はハンガーにかけた制服にしきりにスプレー型の消臭剤を吹きかけていた。

 どれだけ時間が経っただろうか、葉山はベッドでうつぶせになって休んでいたが、僕は妙な緊張感のせいか、言葉を出すことすら忘れていた。すると、玄関からガチャリと音がした。それと同時に葉山が重荷を外したかのように大きなため息をついき、「お母さんが仕事に行ったからお風呂に行く」と言って、すぐに荷物をまとめる。そして風呂場へ行くのかと思いきや、玄関に向かった。僕が訝しんでいるのがわかったのか、葉山は風呂場に僕を案内した。

 葉山が風呂場の戸を開き、電気をつけると、壁から床までびっしりと黒ずんでいて、湿っぽい不快な臭いに包まれていた。ここでもし風呂に入ったらと思うと、生理的な嫌悪感から吐き気がこみ上げてきた。葉山は自嘲したように笑みを浮かべていた。手をつけられない状況への諦めなのだろうか。

 葉山はいわゆるネグレクトの状態で、親からの一切の干渉がなく、一人で生きているようだった。なぜそうなったのかは知りようもないが、僕だったらこんな家には帰りたくはないと思った。だから、夜遅くまでバイトしていたのではないか。親に生活を頼らないためにはお金が必要だろうし、家にいなければならない時間を減らすことができる。僕に性的な取引をしてまで口止めを懇願したのは、この家での生活を避ける方法を維持するほうがよほど重要だったのだ。それほどまでに苦しかったのだろうと思うと、自然と涙がこぼれ落ちてきて、止まらなかった。すると、「なんで泣いてるの」と葉山が言って、気づいたら二人で泣いていた。

 翌日、葉山と一緒に登校した。葉山は誰とも会話せずに1日中を過ごしていた。休憩時間は教室で突っ伏して、授業が始まれば起きることの繰り返し。そういえば、葉山ってどんなふうに学校生活を過ごしていたのだろうと思った。おそらく鷹野と一緒に過ごしていたのだろうが、鷹野はもう葉山と会ってはいないようだった。

 そんな繰り返しが終わったのは5限目の休憩時間でのことだった。5人の女子グループが談笑しながら歩いており、そのうちの1人が不注意で葉山が寝ている椅子に腰をぶつけた。その瞬間、ぶつかった女子はホラー映画で何かが飛び出してきたときのような叫び声をあげて、スカートの腰まわりを、こびりついた油を落とすかのように、しきりにハンカチで擦る。グループの他の4人は、「汚い」「くさい」と冗談めかして笑っている。葉山は気にしてなさそうに顔を突っ伏したままだったが、きっと寝たふりに違いない。では、気にしていないのだろうか。きっとそうではない。僕が葉山に匂いを嗅がせてほしいと言ったとき、葉山は強く拒否した。僕は葉山に突然迫ったことで怖がらせていたと思っていたが、家で念入りに消臭剤を振りまいていたことから察するに、体臭がコンプレックスなのだろう。あの悪臭に包まれた家で過ごしていれば無理もない。突っ伏したままの葉山の顔はわからなかったけれど、僕には傷ついているように見えて、グツグツと煮えたぎるような衝動が押し寄せた。

 そこに女子グループの1人が「なんとか言えよ」と、葉山の椅子を蹴り飛ばした。葉山が椅子から転がり落ちて、蹴とばした女を見上げたため顔が見えた。その顔は、無表情だった。悲しくもなんともなく見えた。でも、僕には感情に蓋をして、自分を守っているように見えた。そう思ったら、僕の身体は、声にならない雄たけびを上げて、蹴っ飛ばした女をグーでパンチしていた。身体はないはずなのに、パンチにはたしかに感触があった。

 すると僕が殴った女は吹っ飛び、鼻血を垂らしていた。ほどなくして女が泣き始めた。とっさに、僕は女を殴ったという罪悪感に駆られた。父母にこんなことが知れたら、どう思うだろう。

 そんなことを悩んでいると、笑い声が聞こえてきた。声がほうを見ると、葉山がお腹を抱えて笑っていた。葉山の笑顔を見ると、罪悪感なんてどこかへ行ってしまって、正しいことをしたと思えた。

 女子を殴り飛ばして以降、葉山は上機嫌だった。歩いている途中で突然笑い出して少し気味が悪かったが、ツボにハマったらしい。葉山曰く、そのときの僕はかっこよかったそうだが、女を殴ってかっこいいと言われるのは複雑な気持ちだった。

 そんなとき、「ずいぶん楽しそうだね」と後ろから声をかけられた。もちろん僕にではなく、葉山にだ。振り向くと、声の正体は鷹野 恭介だった。

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