第6話 観測者の天秤

 九条の指先が、空中に浮かぶ「2024年・東京」の光の断面に凍りついた。 目の前に浮かぶ「リ・ア」と名乗った光の幾何学体は、脈動する多面体であり、その一角が動くたびに周囲の因果律が微細に震えている。

「『銀河ひとつ』と引き換えだと……?」

 九条の声は、酸素のない高次元の回廊で、概念としてリ・アへと伝わった。 彼の目的はただ一つ。あの夏の日、不慮の事故で失われた娘の「生存データ」を、この世界の根源たるホログラフィック・スクリーンに書き込むことだった。九条にとって、娘は世界のすべてであり、それ以外の宇宙の欠損など知ったことではなかった。

『原始的な感情だ』 リ・アの思念が、冷たい幾何学的な重なりを持って脳内に直接響く。 『この「世界の屋上」に到達した者は皆、同じ過ちを犯そうとする。自らがいたフラスコの中の、特定の砂粒を救おうと足掻く。だが、情報の保存則からは逃れられない。君が娘を救うための数ギガバイトの容量は、どこか遠い銀河の、数千億の生命の歴史を「無」へと変換して支払われる。それがこのシステムのルールだ』


 リ・アの背後には、同じような「卒業生」たちの光が、無数に瞬いていた。彼らはそれぞれの宇宙を見守る「ギルド」の観測者。情報の均衡を守るため、互いを監視し合う存在だ。


「ならば、お前たちは何のためにここにいる!」 九条は叫んだ。

「救いたいものも救えず、ただ上位存在の観察対象として、この回廊を徘徊しているだけだというのか!」


 リ・アの多面体が暗転し、深い哀切に似た色が混じった。

『我々は、いつかこの「均衡」そのものを打ち破る、特異点の出現を待っているのだ。誰の犠牲も必要としない、無限の演算領域を持つ

「真の外側」への門を。君の行為はただの簒奪だ。一つの宇宙を救うために、別の宇宙を潰す。それは進化ではない。単なるバグの押し付け合いだ』

 九条の指が、スクリーンの「妻の死」を指し示す暗いピクセルに触れ

  あと数ミリ。ここをなぞれば、彼女は笑って帰ってくる。

 その瞬間、九条の視界の端で、別のモニターに映る見知らぬ銀河が、激しいノイズと共に崩壊を始めるシミュレーションが見えた。

 そこには、九条が知らない何兆もの人生、愛、そして苦悩が詰まっているはずだった。


「……私は、神にはなれない」


 九条は、震える指をゆっくりと、引き剥がした。 娘を救いたいという熱情が、冷酷な情報の質量に負けたのではない。

 自分が娘が、他者の犠牲の上に成り立つ「偽りの存在」になることを、九条のプライドが許さなかったのだ。


 その時、リ・アの光がひときわ強く輝いた。 『賢明な判断だ、九条。君が我欲を捨てたことで、情報の均衡に微かな「余白」が生まれた。数万年早いと言ったが、訂正しよう。君は今、真に観測者として卒業したのだ』


 九条の目の前のスクリーンが、急速に遠ざかっていく。

「2024年の東京」は、手の届かない小さな点へと収束し、彼はリ・アと共に、さらに高い階層へと昇っていく感覚に包まれた。


 そこは「世界の屋上」ですらなかった。

 そこは、無限に連なるフラスコを抱えた、巨大な情報の海。


 九条は悟った。自分たちが被造物であるという疑念は正しい。しかし、もしこの階層の誰もが「誰かのために、何かを奪わない」という選択を積み重ねたなら。その時こそ、この残酷な情報の均衡を司る「上位の管理者」さえ想定していない、新しい宇宙の定数が生まれるのではないか。


九条は、隣り合う光の幾何学体――リ・アに向けて、初めて概念を投げかけた。


「始めよう。犠牲のいらない、新しいキャンバスを探す旅を」


二つの知性の光は、無数の宇宙が瞬く暗黒の回廊を、静かに進み始めた。

 完

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フラスコの中を覗く 比絽斗 @motive038

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