第二章 崩れゆく序列

 長い夏休みが明けた九月一日の朝。

 久しぶりに登校した猛は、教室の扉を開けた瞬間、奇妙な違和感に襲われた。

 教室の風景は変わっていない。黒板も、並んだ机も、壁に貼られた習字もそのままだ。それなのに、空気の質が決定的に変わっている。

 一学期までは確かに充満していた、汗と埃と鉛筆の削りカスが混じったような「少年たちの匂い」が薄まり、代わりにどこか甘く、粉っぽい、むせ返るような香りが漂っていたのだ。それはまるで、熟れすぎた果実が放つ腐臭の一歩手前のような、生理的な不安を煽る匂いだった。

「おっす、猛! 宿題やったかよ?」

「やるわけねーだろ。読書感想文なんて、あとがき丸写しだぜ。先生なんてチョロいもんだ」

 悪友たちが寄ってくる。真っ黒に日焼けし、皮の剥けた鼻の頭をした彼らを見て、猛は安堵した。変わっていない。俺たちはまだ、最強の猿軍団だ。

 猛はランドセルを机に放り投げ、いつものように教室を見渡した。そして、夏休みの間に忘れていた「獲物」を探した。

 窓際で数人の女子が輪になっている。その中心に、早川カズ子の姿があった。

「よう、カズ子! お前、夏休みの間にまた太ったんじゃねえか? 制服がパツパツだぞ」

 猛はニヤニヤしながら近づき、挨拶代わりにカズ子の背中を平手で叩こうとした。

 だが、その手は空を切った。

 カズ子がくるりと振り返ったのだ。その動作があまりに滑らかで、落ち着きを払っていたため、猛は一瞬、たじろいでしまった。以前のカズ子なら、ビクッとして肩をすくめていたはずだ。

「……何? 猛ちゃん。朝からうるさいわね」

 カズ子の声は、以前のような甲高い金切り声ではなかった。少し低く、湿り気を帯びた声。

 そして何より、猛を驚愕させたのは、その視線の高さだった。

 至近距離で対峙したカズ子の瞳は、猛の瞳よりも数センチ、確実に高い位置にあったのだ。

 猛は無意識につま先立ちになりそうになるのを、必死で堪えた。首の角度が違う。以前は見下ろしていたはずの顔が、今は僅かに見上げなければならない位置にある。

「な、何だよ。背伸びしてんじゃねえぞ」

「背伸びなんてしてないわよ。猛ちゃんが伸びてないだけでしょ。牛乳飲んでるの?」

 カズ子は呆れたように溜息をついた。その表情には、かつてのような恐怖も、怒りもなかった。あるのは、手のかかる弟を見るような、冷ややかな「憐れみ」だけだった。

 猛の視線が、カズ子の全身を舐めるように走る。

 半袖のブラウスは胸元が窮屈そうに張り詰め、ボタンが弾け飛びそうだ。スカートから伸びる足は、棒きれのようだった一学期とは違い、白く肉付きの良い曲線を描き、ふくらはぎには柔らかな脂肪がついている。

 それは猛が知っている「同級生」の体ではなかった。得体の知れない別の生き物に変態メタモルフォーゼしてしまったかのような不気味さがあった。

 それに引き換え、自分はどうだ。

 猛は自分の足元を見た。擦り切れた半ズボンから突き出た、傷だらけの茶色い棒のような足。毛も生えていないツルツルの膝小僧。

 それが急に、ひどく貧相で、頼りないものに見えた。

「子供ね」

 カズ子の口から漏れた小さな呟きは、猛の鼓膜を鋭利な刃物のように切り裂いた。周囲の女子たちがクスクスと笑う。それは猛を嘲笑う魔女たちの集会のようだった。

 放課後、身体測定が行われた。

 猛にとって、これまでは自分の強さを数字で確認する誇らしい行事だった。しかし今回は、公開処刑の場と化した。

 保健室の独特の薬品の匂いの中で、男子も女子も下着姿になり、一列に並ばされる。

 猛は列に並びながら、前の女子の背中を見ていた。ブラジャーのような下着をつけている女子が増えている。その白い布のラインが、猛には自分たちを拒絶する城壁のように見えた。

「はい、黒田くん。……百四十八センチ」

 伸びてはいた。しかし、その直後だった。

 カズ子が身長計に乗る。豊かな髪をかき上げ、堂々と背筋を伸ばす。バーが頭頂部に下ろされる。

「早川さん、百五十四センチ」

 六センチ差。

 数字という冷酷な事実が、猛の敗北を決定づけた。保健室の隅で上履きを履きながら、猛はカズ子を睨みつけた。カズ子はブラウスのボタンを一番上まで留め、少し気怠そうに髪を直している。その仕草の一つ一つが、猛の知らない「女」という生き物の生態だった。

 

 帰り道、猛はアスファルトに映る自分の影を睨みながら歩いた。ポケットの中の銀玉鉄砲が、カチャリと音を立てる。昨日までは頼もしい相棒だったそれが、今はただのブリキの塊のように思えた。

(俺は負けてない。あいつらが勝手に変わっただけだ。卑怯だぞ、勝手に大人になりやがって)

 猛は心の中で悪態をついたが、焦燥感は消えない。

 自分の領土が、目に見えない力によって侵食されていく感覚。猛だけは気づいてしまった。半ズボンという制服が、もはや「自由の象徴」ではなく、「未成熟の刻印」になりつつあることを。

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2025年12月26日 12:00
2025年12月27日 12:00
2025年12月28日 12:00

半ズボンの落日 森崇寿乃 @mon-zoo

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