第5話
ツカサがミナトの異変に気づいたのは、彼女の新曲が投稿された翌日の、放課後のことだった。
いつもの2年1組の扉を開けたが、そこには誰の姿もなかった。
ミナトは来ていない。ツカサの意識に、冷徹な計算が走る。
逃げたか。
ツカサは、彼女は「脆くて凡庸」だと見下されることを恐れ、戦いの場から逃亡した、と判断した。それは、ツカサにとっては完全な優位性を意味した。
その日から数日、ツカサは放課後の動きを変えた。
2年1組には寄らない。代わりに、校門付近で人の流れを観察した。
三日目の放課後、ツカサはそれを見つけた。
人の波をすり抜けるように、校門を離れていくミナトの姿。
イヤホンをしたまま、足早に歩いている姿は、世界を拒絶しているようだった。
ツカサは、静かに尾行を始めた。
陽が傾き始めた頃、ミナトは古いアパートの前で足を止めた。
彼女が建物に入るのを見届けてから数分待って、ゆっくりとアパートに近づいた。
横に並んだポストの一つには小さく「湊」の紙札が貼られている。
彼女の異常な才能が、こんなにも凡庸で静かな場所から生まれている事実に、ツカサは奇妙な興奮を覚えた。
インターホンを一度だけ押す。反応はない。
だが、ツカサは彼女がこの部屋の中にいるという予感を信じきっていた。
もう一度インターホンを長く押しながら、ドアの向こうに呼びかける。
「先輩、居ますか。放課後いつもの場所にいなかったので、会いに来てあげましたよ」
「......逃げるんですか?それなら、あなたの負けですね」
少しして、ドアの奥でカチッと音が鳴るのが聞こえた。
ロックが外れたらしい。ドアに手をかけて軽く引くと、それは簡単に開いた。
滾る興奮に思わず口元が緩むが、すぐに自分を諌めた。
家の中は、思っていたよりも整然としていた。
カーテンの隙間から漏れる夕日が、部屋を薄く照らしている。
静かな部屋に、換気扇の低いモーター音だけが響いていた。
机の上のPCは開いたまま、画面は例の動画サイトで止まっている。
PCの側で、ミナトが床に座り込んでいた。
「……あ」
ツカサの姿を認識した瞬間、彼女の喉から短い音が漏れた。
驚きではない。拒絶でもない。
情報を処理しきれなかった人間の、空白の音だった。
「……見た?」
絞り出したような、掠れた声だった。
何を、とは言わない。
「ええ」
ツカサは即答した。
「コメント、見ましたよね。『パクリだ』『裏切られた』。今のあなたは、彼らにとってただの詐欺師です」
わざと大袈裟な言葉を使った。
あまりに残酷な事実を突きつけられ、ミナトの肩が震え始めた。
泣き声は出ない。ただ、崩れる。
「……あの有名曲に近いフレーズがあることはわかってた。でも私は……っ!盗用なんかしてない!ちゃんと聴いたら、あの曲と私の曲、全然違うってわかる!」
「違う……みんな、わかってくれるはず……」
呟きながら、震える手でマウスに触れようとする。
まだファンに救いを求めるのか。
ツカサは震えるミナトの手を掴み、もう一方の手でPCをパタンと閉じた。
「あ……」
ミナトは、そのまま数秒、固まっていた。
消えた画面の代わりに、黒光りする机の天板に、自分の顔が映る。
目は赤くなっていて、焦点が合っていない。
口を開きかけたまま、言葉を探している。
ようやく、ミナトは理解した。
今、自分を定義してくれる人はどこにもいない。
「……私……」
「……私……間違ってたのかな」
ここで、ツカサは確信する。
ファンは、彼女を生かしている。
だが、それは条件付きだ。
賞賛がある限り、という但し書き付きの命綱。
そして。
この人は今、自分が何者かを定義してくれる他者を探しているはず。
ツカサは一歩、距離を詰めた。
「あの曲を違うかどうかを決めるのは、先輩じゃない。コメントを打つ『彼ら』です」
ツカサの声は落ち着いていた。
「大衆は、真実なんてどうでもいい。叩けるサンドバッグが欲しいだけだ。今の先輩は、彼らにとってただの『嘘つき』ですよ」
「あ……ぅ……」
ミナトが頭を抱え、さらに小さく縮こまる。
彼女は自覚していたのだ。新曲が孕んでいた危険に気づいていながら、これくらいなら大丈夫だろうと奢っていた自分を。ファンがそれを許してくれると甘えていた自分を。
「ミナト先輩。もう、戻れませんよ。謝罪しても、曲を消しても、彼らは永遠にあなたを疑い続ける」
トドメの一撃だった。
ミナトの瞳から光が消え、魂の抜けた肉塊のように力が抜けた。
「……もう、無理……作れない……」
ツカサの背筋に、熱い電流が走った。
今、怪物の心が死んだ。そして、空っぽになったその器が、目の前に転がっている。
ツカサは膝をつき、ミナトと視線の高さを合わせた。
そして、震える彼女の手を、そっと握りしめた。
温もりを伝えるためではなく、確実に捕獲するために。
「先輩。彼らはもう、あなたを愛さない」
ツカサは、これまでで最も優しい声を、逃げ場のない距離で囁いた。
「でも、僕なら」
「僕だけは、その『脆さ』ごと、あなたを見ていられる」
ミナトが、虚な目でツカサを見上げた。
その瞳に、新たな依存先が映り込むのを、彼は満足げに見下ろしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます