第2話

放課後の校舎は、人がいないだけでこんなにも音が消えるのかと思うほど静かだった。


目指すのは二年一組。

ヒロによれば、そこで“例の先輩”はよく作業をしているらしい。


......何してんだ僕。

心のどこかが、そう呟く。

でも、昼間と放課後のあの曲を思い出すと、引き返す理由なんて一つも浮かんでこなかった。


角を曲がった先で、教室の扉が半分だけ開いているのが見えた。

中から、かすかにリズムを刻む電子音が漏れている。


PCのスピーカーから直接響いているらしく、放課後の静まり返った廊下ではやけに鮮明だった。


(……いた。)


ツカサは息を吸い、そっと扉に手をかけた。


ガラリ。


教室の窓側後ろ端の机。その上にはノートPCと、小さなポータブルスピーカー。

青白い画面の光の中で、少女がひとり座っていた。


肩まで伸びた黒髪はところどころ寝癖が残り、光に揺れている。

横顔は驚くほど細く、指先だけがリズムに合わせてせわしなく動いていた。

まるで、自分だけの世界に沈んでいくみたいに。


ゆっくりと、彼女は振り向いた。


「……誰?音、外に漏れてたかな」


声は思っていたより低く、乾いていた。


「あ、えっと……一年の、ツカサです。放送の曲を……その、聴いて」


言葉が途中で崩れた。

彼女の視線は妙に真っ直ぐで、逃げ場がなかった。


「曲……」


「今日の昼と、放課後の……すごい、良くて。誰が作ってるのか知りたくて……」


言ってみて、自分が何をしているのかいよいよ分からなくなってくる。

でも、彼女は眉を寄せるでも笑うでもなく、ただこちらを見ていた。


数秒の沈黙。

やがて、ミナトは小さく瞬きをした。


「ああ、それ。……私だね」


心臓が一度だけ派手に跳ねた。


そして次の瞬間、ミナトはスピーカーの電源を切りながら、淡々と言った。


「それで、どうしたの?」


ツカサの内側を、事前にぜんぶ見透かしているような声だった。


ツカサは言葉を詰まらせた。彼女の持つ「特別」を自分のものにできないかと覗きに来た、と素直に言うことはできない。


「あんな曲……」絞り出した声は、予想以上に震えていた。

「あんな曲を作れる人間が身近にいたこと、今まで知らなかった。ミナト先輩が、どうしてあんなものを作っているのか、それが聞きたくて来ました」


初めて、ミナトの表情が微かに変わった。彼女の細い眉が、ごくわずかに上がる。


「面白いね」

ただ観測した結果を告げるように、彼女は言った。

「普通、この状況で出るのは『すごい』か『どうやって作ったんですか』のどっちかだと思うよ。それをきみは、どうしてと聞いた」


まっすぐにこちらを見つめながら話すミナトに、ツカサはたじろいだ。彼女は、僕の秘めた目的を既に感じ取っているように思えた。


「僕にも、あなたと同じようなものがあるような気がしたんです」

ツカサは開き直った。

「自分を特別だと思いたいのに、どこにも証明するものがない。そんな焦りや、欠落が」


「……欠落」

ミナトは呟き、机の上のPCに視線を落とした。

そこには、動画サイトに上げられたミナトの曲が映っていた。画面の下部で、いくつものコメントが流れている。


「これを見たら、きみは私と同じものなんてないって思い直すよ」

ミナトは続けた。その声には、一切の感情がなかった。


「私はね、ツカサくん」

初めて名前を呼ばれた。

「コメントが欲しくて曲を作ってる。でも誰かに愛されたいとか、共感されたいとか、そんなんじゃない。コメントがあると、息がしやすいの。みんなの評価が、私を生かしてくれる」


ミナトの視線は、こちらを通り越してどこか遠くを見ているようだった。


「曲より、コメントを見てる時間の方が長いかもね。……自分が空っぽじゃないって確認できるから。どう?これでも、私と同じものがあると思う?」


ツカサの喉が渇いた。この人は、やはり自分と似ている。けど、自分よりずっと壊れている。

こんなふうに何かに殉じきれたら、もっとマシに生きられるだろうか。


「それで、どうするの。帰るなら扉閉めといて」


ツカサは胸を締め付けるような恐怖で動けなかった。だが、同時にこの異常を独占できるかもしれないという、身の毛のよだつような興奮を感じていた。自分の中の黒い部分に、初めて他人の指が触れた。

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