剣豪とペン先 ——二天一流、現代に吠える 後編
間保町・ガラン書店。
地下鉄の駅から地上に出ると
古書店の独特の匂いが混じった空気が広がった。
「これが現代の知の砦か。されど、ここが今日の戦場よ」
すでに長蛇の列ができていた。
皆、手に『格闘戦士・ムラキ』の最新刊を抱え
熱気と興奮に満ちている。
武蔵は整理券配布の列に並び
なんとか最後の数枚を滑り込みで手に入れた。
現代社会のルールにも順応せねば、戦は始まらない。
サイン会開始時刻。
特設会場に、割れんばかりの拍手と歓声が響き渡った。
壇上に現れたのは、
彼は武蔵が想像していたような武骨な男ではなかった。
細身で、黒縁眼鏡をかけ、神経質そうな顔立ち。
だが、その目は鋭く、人気漫画家としての自信と
どこか満たされぬ飢餓感を漂わせていた。
「皆様、本日はお越しいただきありがとうございます。
短い時間ですが楽しんでいってください」
羽場木の挨拶は事務的だが、ファンはそれでも熱狂する。
武蔵は列の最後尾で、その様子を観察していた。
彼を守る屈強なガードマンの姿はない。
ただ一人、ペンと紙を前に、ファンと対峙している。
なるほど、と武蔵は思った。
この男もまた、孤独な戦場に身を置く者か。
列はゆっくりと進んでいく。
ファン一人ひとりに丁寧にサインをしていく羽場木。
そして、ついに武蔵の番が来た。
「次の、お客様どうぞ!」
スタッフの声に促され、武蔵は羽場木の前に立った。
テーブルを挟んで、二つの視線が交錯する。
その瞬間、会場の空気が変わった。
羽場木の手が止まる。
目の前に立つ男から放たれる、異様な気配。
それは、これまで会ったどんな熱狂的なファンとも違う。
研ぎ澄まされた日本刀の切っ先を
喉元に突きつけられたような冷たい感覚。
「……君は?」
羽場木の声が、わずかに上擦った。
武蔵は無言で、懐から丸めていた『絵』を取り出した。
そして、音もなく、しかし重みを持ってテーブルの上に広げた。
広げられたのは、武蔵が描いた墨絵だった。
そこに描かれているのは、派手なエフェクトも
誇張された筋肉もない、ただ静かに佇む一人の剣士の姿。
しかし、その墨の濃淡、線の勢いには
見る者の魂を斬り裂くような凄まじい『気』が宿っていた。
静止画でありながら、次の瞬間には動き出しそうな、圧倒的な実在感。
羽場木の息が止まった。
プロの漫画家として、絵を見る目は肥えている。
だからこそ、一目で理解してしまった。
目の前の絵が持つ、尋常ならざる力量を。
自分の描く劇画タッチの武蔵が
まるで子供の落書きに見えてしまうほどの『格』の違いを。
「……これは」
「貴様が描いた偽物の武蔵とは、月とすっぽん。いや、天地の差よ」
武蔵の低い声が、周囲の雑踏をかき消すように響いた。
羽場木は顔を上げ、武蔵を凝視した。
現代風の服を着てはいるが
その眼光、佇まい、そして腰に差した大小の存在感。
「まさか、君は……」
「儂は新免武蔵守藤原玄信。貴様のペンが冒涜した、真の宮本武蔵だ」
羽場木は絶句した。
狂人の戯言と一笑に付すことはできなかった。
目の前の男の存在感と、この墨絵が、それを許さなかった。
「羽場木 条殿。貴様の描く武蔵は、ただ人を斬り、血に酔う修羅だ。
二天一流の理も、兵法の道も知らぬ、ただの殺戮機械」
武蔵が、テーブルの墨絵に指を置いた。
「儂が目指したのは『
万物をありのままに映し出す鏡のような心だ。
貴様の筆は、その深淵を覗こうともせず
ただ表面的な暴力の快楽に溺れている」
羽場木は反論しようと口を開きかけた。
自分はエンターテイメントを描いているのだ、と。
しかし、声が出なかった。
武蔵の気迫に、完全に飲まれていた。
次の瞬間、羽場木の隣に控えていた
柔道部上がりとプロレス上がりのアシスタントが動いた。
「おい、あんた、何言ってんだ!?」
「先生に失礼だぞ!?」
一人は大柄で、肩幅が異様に広い。
首は短く、耳が潰れている――柔道部上がりだと一目で分かる体躯。
もう一人は、無駄に筋肉が盛り上がった体。
Tシャツの下で胸板が主張し、歩くたびに床が軋む。
プロレス上がり――動きに見せる癖が染みついている。
「何だお前ら!先生に何してやがる!」
柔道男が前に出る。腰が低い。組み付く気だ。
次の瞬間、羽場木の隣に控えていた柔道男が動いた。
プロレス男も、武蔵の両脇を固めるように動き出す。
「おい、あんた、何言ってんだ!? お客様だろ!」
「先生に失礼だぞ、武蔵とか名乗ってふざけてんのか!?」
「武蔵、私に任せて」
その時、武蔵の背後から、一人の女性が進み出た。
篤子だった。武蔵から場所を聞き、仕事の休憩時間に走ってきたのだ。
柔道男が前に出る。腰が低い。組み付く気だ。
篤子は、その姿を見た瞬間――
胸の奥が、冷たく締め付けられた。
――畳の匂い。
――父の背中。
――道場に土足で上がり込み、笑っていた男。
一瞬のフラッシュバック。
父が投げられ、畳に叩きつけられ、
それでも立ち上がろうとして――壊れた。
「……っ」
篤子の呼吸が乱れる。
それを察したのか、武蔵が静かに前へ出た。
「篤子」
「……大丈夫」
篤子は一歩、前に出た。
「ここは……私がやる」
「女だからって、手加減はしねぇぞ!」
柔道男が踏み込む。狙いは両襟、体重を乗せて一気に潰すつもりだ。
だが、篤子は――踏み込まなかった。
半歩、横。ただそれだけ。
柔道男の腕が空を切り、重心が前に流れた瞬間。
篤子の手が、肘の内側に触れた。
捻らない。
力も込めない。
ただ、落とす。
「な――」
次の瞬間、柔道男は床に膝をついていた。
畳ではない、骨に響く。
「……っ!」
その動きに、柔道男の目が見開かれる。
(今の……何だ?)
派手さはない。
だが、理に無駄がない。
――知っている。
柔道男の脳裏に、あるキャラクターが浮かぶ。
漫画の中で、あっさりと斬られた男。
地味で、静かで、だが芯の通った技を使っていた――
「……田中……?」
思わず、呟いていた。
今度はプロレス男が吠える。
「チッ……やるじゃねぇか!」
ロープも観客もない。
それでも彼は、見せるための突進を選んだ。
大振りのラリアット。
武蔵は、静かに一歩踏み込む。
避けない。
受けもしない。
消えたように見えた。
次の瞬間、プロレス男の視界が反転した。
「な――!?」
武蔵の肩が、男の脇腹に入っていた。
押したのではない。立たせたまま、崩した。
畳に叩きつけられる前に、武蔵は手を離す。
男は床を転がり、息を詰まらせた。
「……殺さぬ」
武蔵は二人を見下ろす。
「だが、これ以上動けば――
自分の身体が、どうなるか分かろう」
柔道男は、肘を抱えたまま動けない。
プロレス男は、起き上がろうとして――やめた。
力では勝てないと、身体が理解していた。
「武蔵……」
篤子が小さく呟く。
柔道男が、床に座ったまま篤子を見る。
「……あんた……」
「?」
「さっきの技……
漫画の『田中』と、同じだった」
篤子は、少し驚いた顔をした。
「……父が教えてくれた技」
柔道男は、歯を食いしばる。
「俺……
あのキャラが死んだ回、納得できなかった」
篤子は柔道男を見て、微笑んだ。
そして、次に羽場木を真っ直ぐ見つめる。
その瞳は強い意志で羽場木を射抜いていた。
「羽場木先生」
篤子が静かに、しかし通る声で言った。
「私は、あなたの漫画のファンでした。
父を亡くして辛かった時、あなたの描く
『古武術使い・田中』先生に、父の面影を見て、救われていたんです」
羽場木の顔色が真っ青になった。
「田中先生は、父と同じことを言っていました。
『力に溺れるな』と。……それなのに、なぜ」
篤子の声が震えた。怒りではない。深い悲しみが、そこにあった。
「なぜ、あんな無惨のような殺し方をしたんですか。
武術に生き、道を求めた人を、なぜあんな風に踏みにじったんですか」
篤子の言葉は、武蔵の刃よりも深く
羽場木の創作者としての心臓を突き刺した。
彼は、自分の描いた物語が
読者にとってこれほど重い意味を持っていたことを知らなかった。
キャラクターを「物語を盛り上げるための駒」として使い捨てた結果
現実の人間を深く傷つけたのだ。
「私は……」
羽場木は、武蔵の墨絵と、篤子の悲痛な表情を交互に見た。
自分の描いた派手な漫画の表紙が、急に色褪せて見えた。
「……すまなかった」
長い沈黙の後、羽場木は深く頭を下げた。
会場がざわめく。
人気作家が、一人のファンに頭を下げたのだ。
「私は、慢心していた。武蔵という巨大な存在を
自分の都合の良いように解釈し、弄んでいた。
そして、武術というものの重みを、理解していなかった」
羽場木は顔を上げ、武蔵を見た。
その目には、怯えはなかった。
あるのは、自身の未熟さへの
「この絵……いただけますか」
羽場木が、震える手で武蔵の墨絵を指差した。
「これを、私の戒めにしたい。二度と、筆を誤らぬように」
武蔵は、ふっと表情を緩めた。
この男もまた、道を求める者であったか。
「よかろう。貴様の筆には、まだ先がある」
武蔵は墨絵を羽場木に渡した。
羽場木はそれを両手で恭しく受け取ると
まるで聖遺物のように大切に抱えた。
「必ず、描き直します。あなたのような、真の武人の姿を。
そして、田中さんのような武術家の魂を」
羽場木の誓いに、篤子の瞳から一筋の涙がこぼれた。
それは悲しみの涙ではなく、浄化の涙だった。
武蔵は満足げに頷くと、踵を返した。
「行くぞ、篤子。長居は無用だ」
「……うん」
二人は、静まり返る会場を後にした。
そこには確かに『真剣勝負』があり
武蔵の『活人剣』が、一人の漫画家の魂を斬り
そして活かしたのだった。
武蔵は再び胡座をかき、篤子はいれたての日本茶を啜っていた。
窓の外からは、夕暮れの間保町の喧騒が、遠く聞こえてくる。
「……なんか、すごいもの見ちゃったな」
篤子がほう、と息をついた。
「あんた、本当に武蔵だったのね。……って、今更だけど」
「ククッ、何を言う。儂はずっとそう名乗っておるではないか」
武蔵が珍しく声を上げて笑った。
篤子の顔にも、久しぶりに屈託のない笑みが浮かんでいた。
父の死以来、心に垂れ込めていた暗雲が、晴れたようだった。
「羽場木先生、どんな風に描き直してくれるかな」
「さあな。だが、あの男の目、死んではおらんかった。
きっと、面白いものを見せてくれるだろう」
武蔵は湯呑を手に取り、窓の外の空を見上げた。
現代の東京の空は狭いが、その向こうには
かつて自分が見たのと同じ、無限の「
自分の偽物が暴れる漫画。
それもまた、この時代の「浮世」の姿か。
ならば、それを見届けるのも悪くない。
「さて、篤子よ。今日の
「……ふふ、今日は奮発して、スーパーのお刺身よ。
あんたの好きなカツオのたたき」
「おお!それは有難い。やはり、戦の後の飯は格別よな」
現代に生きる天下無双の剣豪は
今日もヒモとして、平和な夕食を楽しみにするのであった。
六畳一間の部屋に、穏やかな時間が流れていく。
剣豪とペン先 ——二天一流、現代に吠える じーさん @OjiisanZ
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