剣豪とペン先 ——二天一流、現代に吠える

じーさん

剣豪とペン先 ——二天一流、現代に吠える 上編

西暦二〇二X年、東京。


古びた木造アパート「日向荘」の二階、角部屋。


六畳一間の畳の上で、男は胡座あぐらをかいていた。


髪は伸び放題で背中で無造作に束ねられ


無精髭が精悍な顎を覆っている。


眼光は鋭く、その瞳の奥には底知れぬ深淵が広がっていた。


男の傍らには、時代錯誤も甚だしい大小二振りの刀が置かれている。


男の名は、新免武蔵守藤原玄信。


世に言う、宮本武蔵である。


それがなぜか、数百年後の現代へと時空を超えてしまい


あろうことか二十代半ばのコンビニ店員・篤子あつこに拾われ


いわゆる「ヒモ」として生活していた。


「……ふむ」


武蔵の太い指が、繊細な動きでページをめくる。


彼が今、真剣な眼差しで見つめているのは兵法書ではない。


『週刊少年・王者』という分厚い漫画雑誌であった。


武蔵はこの時代に来て半年、現代の文化に驚くほど順応していた。


特に「漫画」という絵草子には、浮世絵とはまた違う躍動感と


時として武術のことわりすら描く表現力に


感銘を受けていたのである。


だが、今の武蔵の眉間には


巌流島の決闘前夜よりも深い皺が刻まれていた。


「……解せぬ」


彼が読んでいるのは


現在大ヒット中の格闘漫画『格闘戦士・ムラキ』だ。


作者は、羽場木はばき じょう


地下闘技場での死闘を描いたその作品で


現在行われているシリーズこそが「最強剣豪激闘編」なのだ。


なんやかんやで現代に蘇った宮本武蔵が


主人公のムラキたちと戦うという筋書きであった。


自分の偽物が物語の中で暴れている。


それ自体は、武蔵にとってさして腹立たしいことではなかった。


己の名が後世まで轟いている証左であり、むしろ愉快ですらある。


しかし、今週号の展開は違った。


漫画の中の「宮本武蔵」は、通報を受けて駆けつけた武装警官隊に対し


あろうことか日本刀を振るい、彼らを肉塊へと変えていたのだ。


飛び散る血飛沫。


切断される手足。


そして、それを恍惚の表情で眺める漫画の中の武蔵。


吹き出しにはこうある。


『斬れる……!防刃チョッキごと、肉も骨も!

 現代のポリスなど、案山子かかし同然よ!』


武蔵は雑誌を畳に叩きつけた。


「愚か者めがッ!」


狭いアパートの壁がビリビリと震えるほどの大喝だった。


武蔵は立ち上がり、狭い部屋を熊のように歩き回った。


「この新免武蔵、生涯において人を斬ることはあれど

 それは兵法の理において、あるいは己が道を極めんとするが故の闘争!

 民の安寧を守る『奉行所の役人』ごときを

 理由もなく斬り殺して悦に入るなど……断じてありえぬ!」


武蔵にとって、武士とは統治者の一部であり


秩序の守護者であるべき存在だ。


戦国の世ならばいざ知らず、泰平の現世において


治安維持にあたる者を無差別に殺戮するなど


それは武士の行いではない。


ただの辻斬り、いや、狂人の所業である。


「この『羽場木 条』とやら……儂を単なる殺戮者として描くか。

 儂の剣は、精神修養の果てにある『くう』を目指すもの。

 それを、防刃チョッキが斬れて嬉しいなどと……小童が」


ギリリ、と奥歯を噛みしめる音が響く。


だが、武蔵の怒りはこれで終わりではなかった。


さらなる悲劇がこの部屋を襲うことを、彼はまだ知らなかった。



ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。


重たい鉄の扉が開き、気怠げな足音が響く。


「……ただいま」


帰ってきたのは、この部屋の主、篤子である。


コンビニの制服の上に安物のパーカーを羽織り


手には廃棄処分の弁当が入ったビニール袋を提げている。


黒髪を後ろで一つに縛り、化粧っ気のない顔は端整だが


常に深い疲労と影が張り付いていた。


「うむ。戻ったか、篤子」


武蔵は怒りを一旦腹の底に沈め、居住まいを正して出迎えた。


ヒモとはいえ、礼節は重んじるのが武蔵流である。


「ん。……武蔵、ご飯。今日はカツ丼とパスタがあるよ」


「かたじけない。篤子の施し、五臓六腑に染み渡る」


「大げさ。……温めるから待ってて」


篤子は電子レンジに弁当を放り込むと


冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュリと開けた。


立ったまま一口飲み、ふう、と息を吐く。


その横顔には、二十代の女性とは思えぬ哀愁が漂っていた。


篤子の父は


かつて古武術『神影流しんかげりゅう』の道場主だった。


篤子自身も幼い頃から厳しい稽古を受け


その才は父を凌ぐほどだったという。


しかし、数年前、道場破りが現れた。


それは単なる他流試合ではなかった。


土地の権利書をかけた


ヤクザまがいの地上げ屋が雇った地下格闘家による襲撃。


父は卑怯な手を使われて敗北し、看板を割られ、道場を奪われた。


失意の父は酒に溺れ、やがて病死した。


残された篤子は武術を封印し


借金を返しながらコンビニのアルバイトで食いつなぐ日々を送っている。


そんな彼女が、雨の日に公園でうずくまっていた武蔵を拾ったのは


彼の中に亡き父と同じ「武の匂い」を感じたからかもしれない。


「……武蔵、今日発売日だよね」


レンジの回転音を聞きながら、篤子が言った。


「ん?何のことだ」


「何って『週刊少年・王者』だよ。

 『ムラキ』の最新話、載ってるでしょ」


武蔵の心臓がドクリと跳ねた。


まずい。


篤子もまた、『格闘戦士・ムラキ』の愛読者だったのだ。


そして何より、彼女にはこの漫画を読むに当たって


一つの「心の支え」があった。


「ああ、うむ……置いてあるぞ」


武蔵は視線を泳がせた。


篤子はビールをテーブルに置くと、畳に転がっていた雑誌を拾い上げた。


「楽しみにしてたんだ。今週は、田中先生が活躍するはずだから」


田中先生。それは『格闘戦士・ムラキ』に登場する脇役


「古武術使い・田中」のことである。


柔和な老人でありながら、やわらの理で巨漢を投げ飛ばす達人。


その姿や言動が、篤子の亡き父に似ているのだという。


篤子は田中に父の面影を重ね


彼が漫画の中で活躍するのを何よりの楽しみにしていた。


——見せてはならぬ。


武蔵の本能が警鐘を鳴らした。


今週号で、その田中がどうなるか。


武蔵はすでに見てしまったのだ。


「あ、篤子よ。今は食事にせぬか

 空腹で絵草子を読めば、目に毒……いや、体に障るぞ」


「レンジあと一分あるし。平気」


篤子はパラパラとページをめくる。


武蔵は正座したまま、額に冷や汗を浮かべた。


戦国の世、関ヶ原の戦場ですら感じなかった種類の緊張感が走る。


篤子の指が止まった。


そのページは、警官隊を惨殺した直後の「漫画の武蔵」の前に


古武術使い・田中が立ちはだかる場面だ。


『若者よ、力に溺れるのはそこまでになされよ』


田中のセリフ。


篤子の父がよく言っていた言葉そのままだ。


篤子の表情が少し緩む。


しかし、次のページ。


漫画の武蔵は、田中の合気を受け流すどころか


刀を使うまでもなく、素手で田中の顔面を掴み上げた。


そして。


『古臭い』



一言とともに、力任せに刀で田中を斬り伏せたのだ。


ザシュ!


擬音が、ページから飛び出してきそうなほど残酷に描かれていた。


次のコマでは、田中の亡骸はゴミのように路地裏へ蹴り飛ばされていた。


「…………」


部屋の空気が、凍りついた。


電子レンジが「チン」と軽快な音を立てたが


それが爆音に聞こえるほどの静寂。


武蔵は見た。


篤子の背中から、どす黒く


それでいて鋭利な刃物のような陽炎が立ち昇るのを。


それは、武蔵がかつて対峙した吉岡一門七十名の殺気や


宍戸梅軒の鎖鎌の殺気とも違う。


もっと底冷えする、怨念にも似た純粋な殺意。


「……武蔵」


篤子の声は、地獄の底から響いてくるようだった。


「は、はい」


天下無双の剣豪が、思わず敬語で応えた。


「これ、何?」


篤子が雑誌を武蔵に向ける。


指差しているのは、無惨に殺された田中の死体だ。


「そ、それは……作者の描いた物語ゆえ、拙者に問われても……」


「あんたじゃないのは分かってる。私が聞いてるのは」


篤子が顔を上げた。


その瞳から光が消えている。


普段の無気力な篤子ではない。


そこには、獲物の喉笛を喰いちぎる寸前の狼がいた。


「なんで、田中先生が、こんな……ゴミみたいに……」


篤子の手が震えている。


雑誌を持つ指が白くなり、ミシミシと紙が悲鳴を上げる。


彼女にとって、田中の死は、父の死の再演だった。


理不尽な暴力によって、技術と精神を磨いてきた武道家が


無意味に、尊厳を踏みにじられて殺される。


トラウマのスイッチが、最悪の形で押されたのだ。


「許さない」


ボソリと呟いた言葉が、部屋の温度をさらに五度は下げた。


「羽場木 条……。父さんのような人を、また、こんな形で……」


篤子が立ち上がる。その瞬間、武蔵は幻視した。


篤子の背後に、不動明王が炎を背負って立っているのを。


いや、それは憤怒の形相をした彼女の父の霊か。


武蔵の肌が粟立った。


剣を持たぬコンビニ店員が放つ気迫に


この宮本武蔵が圧されているのだ。


「あ、篤子よ。早まるな。

 ……いや、早まっても良いが、まずは落ち着け」


武蔵は必死になだめようとした。


彼女の平穏な生活(そして武蔵のヒモ生活)が終わってしまう。


「武蔵」


「な、なんだ」


「あんた、悔しくないの?」


篤子が射抜くような視線を向けてくる。


「あんたの名を語る偽物が、罪もない警官を斬り

 田中先生のような立派な武人をゴミ屑のように殺した。

 あんたの流儀は、二天一流は、こんな安っぽい暴力なの?」


その言葉は、武蔵の魂に突き刺さった。


そうだ。


自分の名誉などどうでもいいと思っていた。


だが、篤子がこれほど傷つき、怒っている。


そして何より、篤子の言う通りだ。


あの漫画の武蔵は、二天一流の極意「いわおの身」を


ただの「頑丈な肉体」として描いていた。


「空」の境地を、として描いていた。


それは、武蔵が血反吐を吐くような修行の末に掴もうとした真理への


最大の冒涜ではないか。


武蔵の腹の底から、熱いものがこみ上げてきた。


篤子の悲しみと、己の矜持。


二つの火種が合わさり、業火となった。


「……否」


武蔵は短く答え、大小の刀を腰に差した

(もちろん、普段は銃刀法違反になるので竹光を入れている)


「断じて否、である!

 我が剣は、人を活かし、己を活かすための活人剣!

 あのような殺戮マシーンとは違う!」


武蔵は立ち上がり、篤子の肩にそっと手を置いた。


「篤子よ。主の怒り、そして悲しみ……この武蔵、しかと受け止めた」 「……武蔵?」 「田中という男の無念、そして主の父君への想い。そして何より、儂自身の剣名を汚された落とし前……つけねばなるまい」


武蔵の顔つきが変わった。


ヒモの顔ではない。


数十余度の勝負を生き抜いた、修羅の顔だ。


「羽場木 条に、天誅を下す」


篤子の瞳に、わずかに光が戻った。


「……どうやって? 住所も知らないのに」


「案ずるな。兵法に『敵を知り己を知れば百戦危うからず』とある。

 まずは敵の居場所を探る。現代には『いんたーねっと』なる

 千里眼があるのだろう?」


「……うん。検索すれば、サイン会とかイベントの情報が出るかも」


「ならば、話は早い。次のイベント、あるいは仕事場……

 必ずや見つけ出してくれるわ!」


武蔵の宣言に、篤子は小さく頷いた。


彼女は涙を拭うと、冷え切ったカツ丼の蓋を開けた。


「……その前に、ご飯。腹が減っては戦はできぬ、でしょ」


「うむ。……かたじけない」


二人は黙々と冷めた弁当を食べた。



翌日。


篤子がアルバイトに出かけた後


武蔵は日向荘で一人、スマートフォンと格闘していた。


篤子からのお下がりである、画面のひび割れた旧式スマホだ。


「ええと……『はばきじょう』……『さいんかい』……検索」


太い指でフリック入力を行う姿は滑稽だが、その眼差しは真剣そのもの。  


画面に次々と情報が表示される。


『羽場木条先生、緊急サイン会開催決定!』

『来週日曜日、間保町・ガラン書店にて!』

『最新刊発売記念、限定100名!』


「……見つけたぞ」


武蔵はニヤリと笑った。


間保町。


古書の街として篤子から聞いたことがある。


日時は来週の日曜日。


限定100名ということは、整理券が必要か。


現代の合戦もなかなかシビアな条件があるらしい。


「だが、ただ会いに行くだけでは『天誅』にはならぬ。

 儂が本物だと名乗ったところで

 狂人扱いされて警備員につまみ出されるのがオチだ」


武蔵は顎を撫でた。


彼は単なる腕力家ではない。


優れた兵法家であり、芸術家でもある。


相手は漫画家。絵と物語で世を動かす者だ。


ならば、こちらも『芸』で対抗せねば、相手の心には届くまい。


暴力で脅せば、それは漫画の中の「偽武蔵」と同じになってしまう。


篤子の心を晴らすには、羽場木条に対し


武蔵という人間の「格」を見せつけ


心底から敗北を認めさせねばならないのだ。


武蔵は部屋の隅にある押入れを開けた。


その中から、すずりと墨、そして半紙を取り出した。


武蔵は書画にも優れていた。


枯木鳴鵙図こぼくめいげきず』などの水墨画は国宝級である。


「筆と剣は一致する。

 ……羽場木よ、貴様に本物の『武蔵の画』を見せてやろう」


武蔵は墨を磨り始めた。


静かな部屋に、墨の香りが漂う。


心を鎮め、精神を統一する。


脳裏に浮かぶのは、漫画の中で殺された田中の無念


そして警官たちの痛み。篤子の涙。


カッ!


武蔵が筆を走らせた。


半紙の上に描かれたのは、漫画のような派手なエフェクトではない。


ただ一人の剣士が、静かに佇む姿。


しかし、その墨の濃淡、線の勢いには


見る者を切断するような凄まじい気迫が宿っていた。


これが、本物の殺気。


本物の『静動』であった。


武蔵は何枚も何枚も描き続けた。


サイン会当日、羽場木条に突きつける「挑戦状」を完成させるために。


そして、運命の日曜日がやってくる。


篤子はシフトが入っており、同行できない。


「武蔵、お願いね。……ガツンと言ってやって」


出掛けに篤子はそう言った。


彼女の期待を背負い、武蔵は現代の戦場へと出陣する。



武蔵の服装は


篤子が選んだ黒のスキニージーンズに、VネックのTシャツ。


その上から、なぜか古着屋で買ったスカジャンを羽織っている。


背中には虎の刺繍。髪は整え、髭も剃った。


一見すれば、ちょっとガラの悪いイケメン崩れだが


その腰には竹光とはいえ大小の刀が下がっている


「いざ、間保町」


武蔵は日向荘を後にした。


ポケットには、丸めた一枚の「絵」が入っている。


それは、漫画家・羽場木 条の慢心を斬り裂くための


見えない刃であった。

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