第5話
日向龍國が再び平坂邸を訪問した日、邸の中は俄かに騒がしかった。
「何かあったんですか?」
日向が応対に現れた宇都宮晴江に訊ねると、彼女は真っ蒼な顔で言った。
「ああ、日向さん! どうしましょう。奥様が倒れてしまったんです!」
「那緒子さんが?」
日向は驚いた。彼の脳裏に、以前会った時の那緒子の弱々しい様子が浮かんだ。
「いったい何があったんですか?」
晴江は早口で言った。
「奥様が樫山様とお話されている最中に倒れたんです」
日向は眉を動かした。
「樫山さん?」
「はい。樫山様が朝に来られて奥様と二人で話がしたいというので、奥様の部屋へ案内したんです。その後、下で仕事をしていたら樫山様が怒鳴る声が聞こえてきて……気になって三階へ上がったら、樫山様が慌てた様子で奥様の部屋から出てきたんです。そこで奥様が急に倒れたと仰ったものですから、私もう心臓がひっくり返るかと思いました!」
「怒鳴ったとは、どのような感じですか?」
日向が訊ねると、晴江は逡巡した後に口を開いた。
「“お前はなんてことをしたんだ”と叫んでいました」
「“なんてことをしたんだ”とは、どういう意味でしょう?」
「わかりません。ただ、樫山様はここへ来た時に険しい顔をしていました」
「ふむ」
日向は小さく呟いた。
「那緒子さんは大丈夫なんですか?」
「救急車で病院へ搬送されました。今は主人が付き添っています」
「樫山さんはどちらに?」
「リビングにいらっしゃいます。かなり元気をなくされているみたいです」
日向は礼を言ってその場を後にすると、リビングへと向かった。リビングでは樫山純也が一人で椅子に座って、テーブルの上に目を落としていた。
「ああ、あんたか」
樫山は肩越しに日向の顔を見ると、すぐに顔を戻した。
「那緒子さんが倒れたと聞きました。容態はどうなんですか?」
「心労がたたったらしい。今は安静にしていた方がいいそうだ」
「浩介くんには伝えたんですか?」
一人息子の名を口にすると、樫山が一瞬肩を震わせた。
「まだ言ってない。父親のこともあるのに余計に心配はかけられん」
「失礼を承知でお訊ねしますが、那緒子さんが倒れたのは何故ですか?」
「だから、心労が原因と言っただろう」
「晴江さんは貴方が怒鳴っていたのを聞いています。“なんてことをしたんだ”と仰ったそうですね」
樫山ははっとして振り向いた。
「どういう意味か教えていただけますか」
日向は強気で攻め入った。
「駄目だ。あんたには関係ない話だ」
「本当にそうでしょうか?」
「なんだと?」
樫山は鋭い目で睨みつけたが、日向はまったく意に介さなかった。
「貴方は那緒子さんに何かを問い質すために、今日ここへ来たんじゃないですか。そして、貴方はそれが今度の事件と関係していると考えている。あるいは、他の人が知ればそう思うかもしれないと懸念している。違いますか?」
樫山は絶望したように口を開いた。彼はテーブルに肘を突き、頭を抱えた。
「今は話したくない。放っておいてくれ」
「わかりました」
日向はあっさりと引き下がった。
平坂邸を後にした日向は、すぐに皐月へメッセージを送信した。
「那緒子さんが心労で倒れたらしい」
昼休みになると、皐月は《探偵クラブ》の仲間たちに受け取ったメッセージについて話した。メッセージには那緒子が病院へ搬送されたこと、倒れる前に樫山と口論していたことについて記されていた。
「こいつはどうも臭いな」
皐月が説明し終えると、真っ先に征四郎が言った。
「樫山は那緒子が犯人だと気づいたんじゃないか? そのことで妹を問い詰めに来た。那緒子はずっと罪を暴かれやしないかびくびくしてた。その上、兄貴にばれて糾弾されたことで、とうとう精神が参っちまったんだ」
「確かにそんな感じに思えるね」
拓真が同意した。
「“なんてことをしたんだ”か。夫を殺したことを責め立てた言葉としか思えんな」
「樫山さんは次期社長に指名されてるからね。そんな中、妹が殺人犯だと知られたら会社での立場なくなっちゃうよ」
「怒り狂うのは当然の話だな」
修平と涼も、顔を合わせて頷き合った。
「やっぱり警察の見立てどおりだったってことかな」
稔は何もかもが明るみになったと考え、そう結論づけた。
「話を終わらせるには、まだ早いのではないか」
皆の視線が、一斉に皐月へと向けられた。
「昴が頼んだ調査の結果もまだ出ていない。そうだろう?」
皐月はそう言って、カスタードクリームパンを美味しそうに頬張っている昴を見やった。
「ああ、あれか。結局何のために頼んだんだよ?」
征四郎が訊いた。
「んー」
昴は困ったように笑った。
「今回の一件で俺の推理が補強されたよ。恐らく樫山さんも何らかの事情で気づいたんだろうね。それで那緒子さんを問い詰めようと思った」
「那緒子さんが殺人を犯したことだよね?」
「いいや」
拓真の言葉を、昴は否定した。
「じゃあ、何のことだ? いい加減教えろ」
修平が急かすように訊ねる。
昴は言った。
「そのことを説明するために放課後皆である所に行こうと思うんだ。付き合ってくれるか?」
「君が行く所ならどこへでもついていくとも。いったいどこへ行くつもりだ?」
昴は皐月に微笑んだ。
「新宿にある陣内さんの事務所」
陣内栄輝の法律事務所を訪問すると、事務所の主は血相を変えた様子で姿を見せた。
「聞きましたか! 那緒子さんが病院へ搬送されたと」
「ええ、どうやら心も体も弱っていたそうですね。今は安静にしていると聞いたので安心してください」
皐月は宥めるように言った。
「本当に心配です」
陣内はぽつりと呟いた。
「今日はそのことでいらしたんですか?」
「はい。その件で大事なお話があるのです。ただ、話をするのは私ではなくこちらの彼です」
皐月に紹介された昴は、悠然と前に進み出た。
「陣内さん。貴方は随分那緒子さんのことを気にかけていますね。彼女が犯人であるとは考えていないのですね?」
陣内は叫んだ。
「当然ですよ! 那緒子さんに限ってそんな!」
「ですが、亡くなられた平坂さんは事件前に温室を訪れていたことが判明したんです。那緒子さんはその事実を隠していました」
陣内は一瞬言葉に詰まった。
「それは――きっと疑われるのを嫌ったからでしょう」
昴は頷いた。
「そうとも考えられます。しかし、俺は別の理由があると考えているんですよ」
彼は勿体ぶったように間を置いた。
「那緒子さんが嘘をついた本当の理由は、温室に関心の目が向くのを本能的に避けたからだ」
「本能的とはどういう意味だ?」
皐月が訝し気に訊ねた。
昴は苦笑した。
「それはね皐月さん。あの日、温室で那緒子さんは陣内さんと逢瀬していたからだよ」
唐突な発言に、誰もが驚愕の声を上げた。とりわけ、陣内の動揺は激しく、表情を取り繕うことができなかった。
「そうですよね陣内さん? 貴方は庭に出た後、四十分近くも散歩をしていたんじゃない。真っ直ぐ温室へ向かったんでしょう。そこで那緒子さんと落ち合うと、彼女と至福の一時を過ごしていた。
ところが、その後平坂さんが遺体で発見された。彼が温室へ来ていたことが明らかになれば、警察が温室を詳しく調べるかもしれない。そうなれば何かの拍子に二人の逢瀬を示す証拠を掴まれる恐れがある。だから、那緒子さんは嘘をついたんです」
昴は口をぱくぱくさせている陣内を、冷たい眼差しで見つめた。
「実を言いますと、那緒子さんが倒れたのは、樫山さんに貴方との関係を知られて問い詰められたからなんです。精神が弱っていた時にお兄さんの怒気に当てられたから、とうとう限界が来てしまったんですね。樫山さんは今はまだ混乱しているようですが、いずれこの件について貴方を追及するでしょう。その前に貴方の口からすべて明らかにすべきと忠告しておきます」
陣内はがっくりと項垂れた。
「認めますね?」
「はい」
陣内は暗い声で肯定した。
「僕はずっと前から那緒子さんと関係を持っていました。昔から彼女に惹かれていたんです。那緒子さんが平坂と結婚した後は、彼女への想いを忘れようと努めたのですが、どうしても諦めがつかなくて――」
「それで遠距離恋愛に講じたんですね。那緒子さんはガーデニング愛好家の集まりに参加する名目で東京へ行き、貴方とデートを堪能した。ゴールデンウィークには東京観光に付き合うと言って、堂々と一緒に出歩いたんでしょう?」
陣内は無言で首を縦に振った。
昴は溜息を吐いた。
「今この場で貴方の倫理観を問い質す気はありません。俺が訊きたいことは別にあります。貴方が温室で那緒子さんと逢瀬するのは今回が初めてではありませんね?」
「はい。邸を訪れた時はいつもあそこで。入口に鍵をかけられるし、外からは見えないので都合が良かったんです」
「貴方が那緒子さんと逢引している最中に、池の方から水の音は聞こえましたか?」
「実を言うと聞きました。時間は、ええと、三時五十分ぐらいだったと思います。突然池から音が聞こえたのでびっくりしたんです。もしかしたら誰かが温室へ来るんじゃないかと思って警戒しましたが、誰も来なかったのでそのまま安心したんです」
「温室を出た時も、池を見てみようと思わなかったのですか?」
皐月が訊ねた。
「もうその時にはすっかり忘れてしまって。でも、夕方になって那緒子さんから陣内を探すように頼まれて庭に出た後、そのことを思い出したんです。それで念のため池をよく調べようと思って……前にも話した通り、昔の事件の話もありましたから余計に気になって」
昴は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。それだけ確認できれば結構です」
「あの、僕はこのことで疑われるんですか?」
陣内は怯えた様子だった。
「ご安心ください。貴方が犯人だとは最初から思っていませんよ。むしろ他の心配をすべきですね。樫山さんや絵麻さんへどう弁解するか考えた方がよろしいかと」
昴は冷たく言い放つと、陣内の事務所を後にした。皐月たちは陣内を一瞥すると、昴を後を追った。
「やれやれ! まったく馬鹿なことをしたもんだよ。息子さんはまだ小さいっていうのに」
通りへ出ると昴は呆れたように吐き捨てた。
「陣内さんにはああ言ったが、本当に彼は犯人じゃないのか? 那緒子さんと関係を持っていて、その上クロスボウを使った経験もあるなら、陣内さんが殺人の実行犯という可能性も出てきたと思うけど」
「ない」
拓真の言葉を、昴は即座に否定した。
「これからクロスボウで人を殺そうと考えている人間が、バーベキューで呑気にビールを飲むか」
「それもそうか」
拓真はすぐに納得した。
「昴、君が望む結果は得られたのか? 陣内さんに温室の件で質問していたが」
昴は確信めいた笑みを浮かべた。
「皐月さんはこの前疑問に思っていたね。犯人は何故クロスボウを凶器に選んだのか?」
「ああ。それが何か?」
昴は言った。
「犯人がクロスボウを使った理由は、
誰もが昴の言う意味を理解できなかった。
その時、昴のスマホの着信音が鳴った。
「おっと、いいタイミング」
ディスプレイには『日向龍國』と表示されていた。
「日向さん、ちょうどよかった。どうだった?」
『君が言ったとおり見つかったよ。兵庫県警の竹内警部も驚いてた』
「ありがとう。お陰で助かったよ」
昴は電話を切ると、《探偵クラブ》の面々を見回した。
「平坂邸で証拠が見つかったそうだよ。それじゃあ、事件を終わらせに行くとしようか」
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