曇り、後、天気雨

@oryo

第一話 雨の伴奏

「じゃあ、なんでこの公式が成立するのか。その証明をしていくんだけど、まずは自分で──」

 チョークが黒板を打つ、軽快なリズムがピタリと止まり、指示が飛んだ。できるか心配そうな人、悩みつつも順当に進める人、一つの文句も垂れず解く人。教室を包んでいる筆記の音でそういったことがわかる。

 リズムの違い、音の大小、時折重なる瞬間。さながら教室で起きるソロパートだな。

 早々に問題を解き自分の演奏を終えると、紛れるように、先程までは気にもならなかった、連続した弾けるような音も聞こえた。均一に、絶えず鳴り続けるのに落ち着く、筆記音の伴奏。

 これは──雨だ。どんよりとした黒い曇天から降り注ぐには美しすぎる水の線が、時より光芒を屈折させるのが、また美しい。

 僕は雨が好きだ。巨岩の如く揺れ動かない心がたった一滴の光景と音で沸き立つのだから。そして恐らくは、僕の持たないものを持つから。

 人とは、心を持つ故に、劣等や優越を知り、自分の持たぬものに惹かれていく生物だと思う。そこで雨は、雹や霰、雪にもなる。

 それらが現象として起きることであっても、姿を変えることへの恐れのなさが僕にはないもので羨ましかった。

 窓の外に意識が向いている間に授業は終わっていた。考え事をしすぎてしまうのは悪い癖だと自分でも思う。

 下校の時、お腹を痛めたから、少し遅れて生徒玄関を出る。元より部活には所属していないが、雨天ということもあり室内以外の部活動はないようだ。

 高揚を感じながら傘を開く。雨が傘に当たる音が心地良くて、下からはアスファルトと土、そこに雨が混じった独特な匂いが立ち昇っている。これらに挟まれながら校門へ向かって歩いていると、少し離れたところの部室棟に女の子──同じクラスの小西紗里が見えた。自分の傘と小西さんを交互に見て進む方向を変える。

「はい、使って」

 無理やりに傘を渡す。

「僕、家すぐそこだから大丈夫。それもただのビニール傘だし」

 一方的に言葉だけ残して踵を返すと、肘の辺りが引っ張られる。小さな手が人差し指と親指で袖を摘んでいる。その仕草が、とても愛らしくて、水彩絵具が溶けるように温かい気持ちが広がった。

 気のせいかもしれないけれど、頰は紅く染まっていた。

「その、えっとね、濡れて帰らせるのは流石に申し訳ないって言うか、だってほら借りるにしろ古澤くんの家に行ってからでもいいだろうし」

 名前を知られていたのは意外だっけれど、それより表情がコロコロと変わっていくのに驚いた。だからこそ、今感じて、考えていることが素直に伝わる言葉になっていた。僕からの善意を受け取るとともに相手を慮る対応。

「だからその、相合……って、なんで笑うの!」

 笑っている? すぐに口元を触った。冬だからパリパリで皮も剥がれている唇をそっと撫でると、線は三日月で、口角は上がっていた。

 僕は今、笑っていたらしい。

「ううん、なんでも。君がいいならそれで」

「君ってなんか傷つくなぁ。同じクラスでしょ。ちゃんと小西って呼んでよ」

 少し躊躇いはあったが「さん付けでいいなら」と了承し一緒に歩き出す。

 この一連の流れからもわかる通り、小西さんは距離の近い人だ。関わりのない人にもすぐに声をかけ、あっという間に仲良くなる。

 そして、彼女に話しかけられた人は虜になると言っても間違いはないほどに、小西さんは男共から好かれている。相合傘を提案しなかったのはそれもある。変に関わりを持つのは、面倒臭いだけだから。

 ずっと黙っていると、気まずかったのか小西さんが口を開いた。

「古澤? 私の方に傘寄せないでいいよ、古澤濡れちゃうじゃん」

 気にも留めていなかったから少々驚いた。少し考えるフリをしてから自分の当たり前を口にする。

「だって、こうするのが普通なんじゃないの。それに冬だし、濡れたら寒いだろう」

 小西さんは声を漏らし何か言いたげな感じだったが、追求するのはやめ、家まではまた無言で歩いた。

 だって、会話しても無駄──ちょん。

 思考を遮り、極わずか、小さい衝撃が腕を突く。

「ありがとね古澤。傘は明日返すから!」

 手を振って離れようとしている。気の利いたことなんて言わなかったし、面白みもない帰り道にしてしまったのに、きっと部活の人達と帰る方が何倍も楽しかっただろうに。変わらない笑顔で、小西さんはずっと横を歩いていた。

 心に何かが刺さったような痛みが襲ってくる。

「小西さん」

突発的に呼び止めた、理由はないのに。

「ん?」

 雨に劣らないほどに潤んだ瞳がこちら見ている。首を傾げながら聞くものだから、ボブの髪が、顔の輪郭に添って動いていた。

 焦りが頭を包む前に、もう一度自分の当たり前を言う。今は、帰り際だ。

「気をつけて帰って」

 淡白で抑揚のない調と声色が心底嫌になった。やっぱり、心が上手く僕には表せない。

 振りかけた手を自信なく下げ、視線も次第に下に向くと、その視界に合わすように小西さんが背を屈め、逃げた僕の目線を捉えた。

 目線の方向はとても低かった。

「また明日ね、古澤!」

 ハッとして顔を上げると、はにかんだ表情でそう告げられた。

 瞬間、僕の世界からは雨の伴奏が消え去った。彼女の声だけが耳に聞こえて残っている。

 転々と変わる声と表情なのに、変わることなく元気を与える存在が、まるで天気雨のようで忘れられなかった。

 繰り返しになるけれど、人は自分が持たないものを持っている人に惹かれるものだ。だから、僕の心が雨を見た時よりもずっと高揚して騒めくのも、そのせいだ。

 玄関に座り込み赤くなった顔を隠して、そう唱えた。靴棚の上に置かれたアロマディフューザーの香りも家へ戻ってきた安堵を認識させている。なのに、それを上書きして小西さんの声は脳内を反芻する。

「いや違う、未知の経験だっただけだ、それか雨が上がってきたんだろ」

 何とか納得できるよう言い聞かせた。雨がさっきよりも強くなっているなんて気付かずに。

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