第2話 聖心霊園
私は決断した。勝手口から飛び出し、庭へと駆け出した。蛾の群れが、まるで私を守るように背後に壁を作ってくれる。敷地を飛び出すと、そこには一台のタクシーが停まっていた。運転席から、初老の運転手が私を見て驚いた顔をした。
「お客さん、こんな夜中に——」
「お願いします、すぐに出してください!」
私は運転手を遮り、後部座席に滑り込んだ。
「行き先は?」
「とにかく走ってください!」
運転手が困惑した表情でアクセルを踏み込もうとした瞬間、家の窓という窓から、蛾の大群が溢れ出した。まるで建物全体が蛾の巣だったかのように。
タクシーが発進する。バックミラーに映る家は、灰色の雲に覆われたように見えた。
「あの……お客さん、これって」
運転手が怯えた声で言う。
「......一体なんなんですか?」
「分かりません。とにかく、遠くへ……」
私は封筒をジャケットから取り出し、残りの写真を確認した。軍服の男、複数の女性たち、そして——最後の一枚に、私は息を呑んだ。
そこには幼い母が写っていた。五歳くらいだろうか。その隣に立つのは、あの軍服の男。男は母の肩に手を置き、カメラに向かって微笑んでいた。
裏には数行の走り書き。
「昭和二十四年一月。彼が娘を連れ去ろうとした日。許せなかった私は、然るべき機関に彼のことを報告し、事態を収拾するために動いた。彼は一種の兵器であるらしく、その後当時の研究者たちの協力もあって無事聖心霊園に保管されたとのこと。」
聖心霊園....祖母の墓がある場所だ。この封筒を、どこに持っていくべきか。答えはそこにしかない気がした。
「聖心霊園までお願いします」
私は運転手に告げた。 鏡に映る蛾の群れは、徐々に小さくなっていく。
運転手が頷いてハンドルを切った瞬間、携帯電話が鳴った。
母からだった。
画面を見つめながら、私は震える指で通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『——あなた、今どこにいるの?』
母の声は、いつもと違っていた。怯えているような、でも何かを隠しているような。私は咄嗟に答えた。
「タクシーの中。母さんこそ、どうしたの?」
『おばあちゃんの封筒、見つけたでしょう?』
電話の向こうの母の声は、確かに私の知っている母の声だった。しかし、その声色には、長年抱え込んできた重い秘密の殻が張り付いているようだった。
「お母さん……何のこと?封筒?」
『紅い封筒のことよ。お母さんの部屋の引き出しから見つけたんでしょう?』
母の声には、確信めいた響きがあった。私がそれに気づいていることを知っていて、それでもなお平静を装おうとしている。私の中で警戒心が急速に膨らんだ。
「見てないわ。何のことだか、分からない」
『……嘘つかないで。あなたが手にしているのは、ただの写真じゃない。一族の呪いの証拠よ』
私は息を呑んだ。呪いという言葉に、背筋が寒くなる。
「呪い……どういうことなの?あの写真に写っている男は、誰なの?」
母は一瞬躊躇したように沈黙した後、意を決したように話し始めた。
『私も聞かされたのは二十年前。お母さんが亡くなる直前のことだったわ。あの男、軍服の男はね——人工的に造られた兵——』
母の声が、突然ノイズに掻き消された。
「もしもし? お母さん!」
再びスマホのスピーカーから聞こえてくることはなかった。私は車の窓の外を見た。タクシーは街灯の少ない郊外の道に入っている。 すると、ヘッドライトに照らされた夜空の景色が、異様な光景に変わった。
空が、黒い点で満たされている。
それは遠く、小さく、まるで夜空に広がる星のようだったが、その黒い点は、星のように静止してはいなかった。それは不規則に、そして恐ろしい速さで、タクシーが走る方向に集結し始めていた。
「蛾だ……!」
思わず叫んだ。さっき家から飛び出した、あの途方もない数の蛾の群れが、私を追ってきている。タクシーの速度に関係なく、空の黒い点は徐々に大きさを増し、蛾の輪郭がはっきりと見えてきた。
運転手が前方のヘッドライトの光に映る黒い塊に気づき、慌てて急ブレーキを踏んだ。
「お客様!何が起きてるんですか!?」
運転手の悲鳴と同時に、タクシーは急停止した。車体が大きく揺れ、私の体はダッシュボードに叩きつけられた。衝撃で前につんのめる。幸いエアバッグは作動しなかったが、シートベルトが胸に食い込んだ。
窓の外で、蛾の群れがタクシーを取り囲むように着地し始めた。フロントガラスに、側面の窓に、そして屋根に。灰色の翅が無数に重なり合い、タクシーは瞬く間に灰色の蚕の繭のような外観に変わっていった。
「助けてください!何が……何が起きてるんですか!」
運転手がパニックになり、ドアに手を伸ばした。その瞬間突然、タクシーの後部座席に強い衝撃が走った。運転手が「うわ!」と叫び、車が激しく横に揺れる。 私は反射的に後部座席の窓を振り返った。
黒いセダンが、私たちのタクシーに猛スピードで追突していた。セダンの運転席からは、黒いスーツの男が、無表情でこちらを見つめている。マンションに侵入してきた男だった。ここで捕まるのは非情に不味い、私はそう思った。
「聖心霊園まで急いで! お願い!」
私は運転手に懇願した。運転手はもう、完全に怯えながらもハンドルを握り直し、エンジンを吹かした。
「くそっ、わ、わかりました!」
タクシーは急加速し、黒いセダンを振り切ろうとする。しかし、セダンは執拗に追跡してきた。ヘッドライトの光が、蛾の群れを貫き、私たちの進行方向を照らし出す。必死に進む最中、今度は、タクシーのフロントガラスに、何か硬いものが叩きつけられた。 蛾の翅などではない、それは上空から降下してきた巨大な蛾だった。羽には祖母の顔が浮かび上がっている。
「止まらなくていい!そのまま行くのよ!」
私は叫んだ。 運転手は悲鳴を上げながらも、タクシーを加速させた。巨大な蛾の羽に浮かぶ祖母は、私に一言言葉を紡いだ。
『決して自分の血を、その土に触れさせてはいけない』
祖母の言葉を反芻しているうちに、タクシーは、聖心霊園の古びた正門の真ん前で、激しく停車した。 ヘッドライトに照らされた正門は、深夜の闇の中、まるで異界への入り口のように佇んでいた。 その門扉には、夥しい数の蛾が、鱗粉を撒き散らしながらびっしりと張り付いていた。 そして、その後ろからは、黒いセダンと、空を覆う灰色の蛾の群れが、確実に迫ってきていた。
私は紅い封筒を胸に、血塗られた真実を抱きしめたまま、タクシーのドアを開けた。
冷たい夜気が肌を刺した。タクシーのドアを開けた瞬間、蛾たちの羽音が一斉に高まった。それは風の音のようでもあり、何千もの声が重なった叫びのようでもあった。
「お客さん、待って!」
運転手が引き留めようとしたが、私は振り返らずに正門へ向かった。門扉に張り付いた蛾たちが、私の接近を感じ取って一斉に翅を開いた。その模様は全て祖母の顔だったが、表情は様々だった。怒り、悲しみ、後悔、そして——恐怖。
背後でタクシーのエンジン音が遠ざかっていく。運転手は逃げたのだ。無理もない。
黒いセダンが急停止する音が聞こえた。ドアが開き、スーツの男が降りてくる足音。
「そこまでです」
男の声は冷静だった。
「封筒を置いて、ここから離れなさい。そうすれば命は助けます」
私は正門の前に立ち止まり、振り返った。男はゆっくりと歩いてくる。その顔は無表情だったが、目だけが鋭く輝いていた。
「封筒の中身、見ていないでしょうね?」
「全部見たわ」
私は答えた。男の歩みが止まった。
「そうですか……」
一瞬の沈黙。男の顔に、初めて表情らしいものが浮かんだ。それは失望だったのか、諦めだったのか。私は錆びついた門扉に手をかけた。蛾たちが一斉に飛び立ち、私の周りを旋回する。その中の一匹が、私の耳元で囁いた。
『奥へ……一番奥の、柳の木の下……』
祖母の墓だ。門を押し開けると、軋んだ音とともに古い墓地が姿を現した。月明かりに照らされた墓石が、不規則に並んでいる。石段を上がった先、確かに大きな柳の木のシルエットが見えた。
「逃がしません」
男が走り寄ってきた。同時に、黒いセダンからもう一人、同じく黒いスーツの男が飛び出してきた。二人組で来るみたいだ。私も走った。
墓石の間を縫うように、息を切らせて駆ける。足元の砂利が音を立てる。蛾の群れは私を守るように、男との間に壁を作った。灰色の霧の中で、私は祖母の墓へと急いだ。
汗が額を伝い、呼吸が荒くなる。柳の木が近づいてくる。その下に、見覚えのある墓石。祖母の名前が刻まれた、黒御影石の墓。
私は墓前に膝をついた。封筒を握りしめ、周囲を見回す。何かあるはずだ。祖母が本当に守りたかったもの。真実を示す、何かが。
『土……』
誰かの声が聞こえた。蛾の声ではない。もっと低く、しかし澄んだ声。
『土の中に……』
私は手を伸ばし、墓石の周囲を掘り始めた。爪が土に食い込む。冷たく湿った土の感触。
「やめろ!」
男が蛾の壁を突破して近づいてくる。
穴は十センチほど掘り進んだところで、何か硬いものに当たった。木の箱だ。
私は箱を掘り出し、蓋を開けた。中には古い日記帳が一冊。手が震える。これが、祖母の守ろうとした「真実」なのか。男の足音が迫る。私は日記を掴み、立ち上がった。
日記には、細かい文字でびっしりと記述されていた。読み進めながら、私は息を呑んだ。
『昭和二十三年。彼と出会った。軍人だと名乗ったが、その目は人間のものではなかった。私は彼に魅入られた。そして娘を身籠った。後に知った。彼には同じような娘が、全国に十二人いると。彼は人ではない。何かを探している。自分の血を引く者の中から、「器」を——』
男の手が私の肩を掴んだ。
「それ以上読むな!」
私は日記と封筒を箱に押し込み、土の中に投げ入れた。そして土をかぶせようとした瞬間——。
男が私の手を掴み、引き倒した。その拍子に、私の手のひらが墓石の角に激しくぶつかった。
鋭い痛み。そして、温かい液体。
血だ。
『決して自分の血を、その土に触れさせてはいけない』
祖母の声が脳裏に甦る。しかし時すでに遅し。
私の血が、一滴、二滴、掘り返された土の上に落ちた。その瞬間、墓地全体が震えた。
地面から、何かが蠢き始めた。土が盛り上がり、そこから無数の蛾が湧き出してくる。だが今までの蛾とは違う。翅は真っ黒で、模様はない。そして、その蛾たちは一斉に、一点に集まり始めた。
土の中から、手が伸びてきた。腐敗した、だが確かに人間の手が。
スーツの男が青ざめて後ずさった。
「まさか……起動させてしまったのか」
土を割って、それは姿を現した。
軍服を着た男。写真で見た、あの男の面影を感じる。顔は蛆に食われ、眼窩には蛾が巣食っている。だが、その腐った口が、確かに笑みを浮かべた。
「娘よ……」
掠れた声が、私に向けられた。
「やっと……会えたな……」
スーツの男は口元から泡を吹き、顔面蒼白になって後ずさった。だが彼もプロだ。すぐに拳銃を取り出し、亡者へと狙いを定めた。だが発砲するよりも前に、真っ黒な蛾が、男の顔に群がった。男は悲鳴を上げ、銃を落とした。
土を割り、完全に立ち上がった軍服の男は、腐り落ちた指先を私に向かって伸ばした。 その全身からは、黒い鱗粉を撒き散らしながら、おびただしい数の真っ黒な蛾が湧き出し続けている。それらは墓石の間に満ちていた祖母の蛾を圧倒し、吸収し始めた。祖母の残した最後の守りは、源流の力には敵わなかった。
「器よ……」
祖父は、笑っているように見える腐敗した口で囁いた。
「お前が、一番純粋な血を引いている。お前は私に最も近い……」
スーツの男が顔を押さえ、蛾の群れに抗いながらも、私に向かって何かを叫ぼうとした。だが声が出ない。その目は、完全に恐怖に支配されていた。
私は立ち上がろうとしたが、足が竦んで動かない。祖父の目が、私を捉えた。眼窩の中の蛾たちが一斉に羽ばたき、黄色い光を放つ。
「来るがいい、私の娘。お前は、この私を完全にする最後のピースだ」
祖父は腐臭を撒き散らしながら、一歩一歩、私に近づいてくる。足元の土から湧き出す黒い蛾は、最早数えきれない。
私は、柳の木の下で膝をついたまま、逃げ場がないことを悟った。墓地全体が、この「祖父」の支配下に置かれている。私一人の力では、どうすることもできない。
そう、私一人では決して気付くことができなかった。でも、不思議なことに、私の頭の片隅には、ある方法が浮かび上がってきた。
なぜ私がそれを思い付いたのかはわからない。たぶん、墓地に足を踏み入れた時点で、既に何かが私を導いていたのかもしれない。
祖母の声が聞こえたわけではない。けれど、私の心の中に、確かに存在していた何かが、こう囁いた。
「あなたの血に、特別な力がある。その力はあの男に対抗するべくして存在している」
私は息を整え、祖父が迫ってくるのをじっと見つめた。恐怖は消えていない。むしろ増している。しかし、奇妙な冷静さが胸の奥に生まれていた。
それは、自分の血に対する認識の変化だった。これまで私の血は、単なる生命の証でしかなかった。だが今、それは特別なものになった。なぜならば、目の前にいるこの「祖父」が、その血を求めているからだ。
「器」という言葉が頭の中で反響する。
祖父は私を、何かの媒体にしようとしている。その何かが何なのかは分からない。けれど、一つだけ確かなことがあった。
私の血は、彼に対抗できる唯一の武器だ。
恐怖に震える手で、私は自分の左腕を持ち上げた。先ほど墓石にぶつけた傷口からは、まだ血が流れ続けていた。スーツの男がもがきながら、私に何かを伝えようとする視線を感じた。おそらくそれは祖母の墓石へと向けられていた。もしや、これが対抗するための方法なのか。私は何かを期待し、自分の血に、祖母の墓石を触れさせる。
私の血が墓石の黒御影石に触れた瞬間、血は稲妻のように表面を走り、祖母の名が刻まれた部分で止まった。
祖父の動きが止まった。眼窩の蛾が激しく羽ばたき、混乱を示す。
「何を……! お前、何をしている!」
祖父の声には、初めて焦りが含まれていた。
私の体から力が抜けるような感覚があった。何かが血を通じて、墓石へと流れ込んでいく。それは痛みではなく、むしろ解放感に似ていた。
「おばあちゃんが、あなたを葬るために……」
私は微かに口を開いた。声が震えている。
「私に流れる血は、このためのものだったんだね……」
その瞬間、血が触れた墓石の表面に、無数の亀裂が走った。亀裂はたちまち巨大な音を立てて広がり、墓石は爆発するように砕け散った。
砕け散った墓石の破片の中から、強烈な白い光が溢れ出した。それは太陽の光ではなく、純粋な、魂を焼くような浄化の光。
白い光は瞬く間に祖父の全身を包み込んだ。祖父の腐った肉体は、光の中で瞬時に干からび、黒い蛾たちも光に触れるや否や、灰となって消滅した。
「ぐああああああああ!」
祖父の絶叫が墓地全体に響き渡る。その声は、何千もの蛾の羽音を混ぜ合わせた、地獄の叫びだった。
光が消えた後、そこには何も残らなかった。軍服の男の肉体も、黒い蛾の群れも、すべてが塵となっていた。
私は崩れ落ちた墓石の破片と、黒い鱗粉の残骸に囲まれ、息を切らせていた。
そして、遠くでかすかに聞こえる、サイレンの音。
鱗粉の伝言 シガ @kamikaze555
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