鱗粉の伝言

シガ

第1話 蛾の翅

窓ガラスに張り付いた蛾を、私はじっと見つめていた。

深夜二時。部屋の明かりに誘われてきたのだろう。灰色の翅には複雑な模様が浮かび、まるで古い樹皮のようだった。蛾は微動だにせず、ただそこにいた。


「また来たのね.....気持ち悪いわぁ......」


私は呟いた。この蛾——あるいは同じ種類の蛾が、三日連続でこの窓に現れていた。偶然だと思いたかった。でも、翅の模様の配置、左前翅の端にある小さな欠け、それらは確かに同じだった。


祖母の葬儀から帰ってきた夜、最初にこの蛾を見た。祖母は生前、蛾が大嫌いだった。


「あれは死者の使いだよ。羽を閉じて窓に止まってる時のあの不気味さ、あなたには分からない?」

と、よく私に話していたものだ。迷信深い人だったから、私は聞き流していた。


けれど今、窓の向こうで静止する蛾を見ていると、祖母の声が蘇る。


蛾がゆっくりと翅を開いた。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。翅の模様が、一瞬だけ、人の顔に見えたのだ。


私は思わず後ずさりし、乾いた音を立ててフローリングを踏みしめた。心臓が早鐘を打つ。幻覚だ。そう自分に言い聞かせる。深夜の疲労と、喪失感が作り出したパレイドリア効果——壁のシミが顔に見えるのと同じ現象に過ぎない。 私は恐る恐る、もう一度窓に近づいた。


蛾はまだそこにいた。 先ほどよりも羽を大きく広げ、腹部を窓ガラスに押し付けるようにしている。改めて凝視すると、その模様はやはり顔だった。それも、深く刻まれた眉間の皺、への字に結ばれた薄い唇……それは、私がよく知る「不機嫌な時の祖母」の顔そのものだったのだ。


「嘘でしょう……?」


声が震え、喉の奥から乾いた笑いが漏れた。 冗談がきついよ、おばあちゃん。あれほど嫌っていたものに、自分がなって現れるなんて。 祖母は生前、蛾を見るたびにヒステリックな声を上げ、時には殺虫剤の缶を振り回すこともあった。その必死な形相は、子供心に滑稽であり、同時に恐ろしくもあった。


「典子、入れて」


ふと、頭の中に声が響いた気がした。耳で聞こえたのではない。脳の奥に直接、粘り気のある意思が流れ込んできたような感覚。


コツン。


硬質な音がした。蛾が頭部をガラスに打ち付けた音だ。


コツン、コツン。


そのリズムは、祖母が生前、私が勉強をサボっていると感づいた時部屋のドアを叩く、あの苛立たしげなノックのリズムそっくり。


コツン、コツン、コツン……


小さな羽虫一匹が、部屋全体を支配するほどの圧迫感を放ち始めていた。


蛾の——祖母の顔をした模様が、じろりと私の目を見据えたように見えた。 ガラス一枚隔てた向こう側は、ただの夜ではない。死者の領域が、すぐそこまで迫ってきている。


「開けないわ」


私は無意識のうちに言葉を発していた。返事を待つかのように、蛾の動きがぴたりと止まった。


「……貴女は、『おばあちゃん』じゃないでしょ。そんな醜い姿で私の前に現れるなら、偽物よ。蛾は大嫌いだったじゃない。だから……開けてあげない」


その瞬間だった。 蛾が激しく翅を震わせ、鱗粉を撒き散らしながら、狂ったようにガラスに体当たりを始めたのだ。


バン、バン、バババババ!


小さな体からは想像もできない重い音が、深夜の部屋に響き渡る。まるで、ガラスを突き破ってでも、こちら側へ来ようとするかのように。


私は反射的にカーテンを引いた。厚手の遮光カーテンが、蛾の姿を完全に覆い隠す。けれど音は止まなかった。バン、バン、バン——。規則的な打撃音が、布越しに響き続ける。


息を整えようとソファに座り込んだ時、携帯電話が震えた。画面には「母」の文字。表示を見た瞬間、直感的に分かった。母にも何か起こっていると。


「もしもし……?典子?ごめんね、こんな夜中に……」


電話に出ると、母の声は疲れていた。


「ううん、起きてた。どうしたの?母さん」

「それがね、さっき変な夢を見て……お母さんが怒った顔で、あなたの部屋の窓を叩いてる夢。気になっちゃって……」


母の声が上ずっている。背筋が凍った。


「お母さん、生前よく言ってたでしょう。"死んだら必ず挨拶に行く"って。でもあの人、こういう風に来ることないよね……まさか」


母は自嘲気味に笑ったが、その笑い声は震えていた。


窓を叩く音が、ピタリと止んだ。


不気味な静寂。私は息を殺してカーテンの隙間から外を覗いた。蛾はいなくなっていた。窓ガラスには無数の鱗粉が張り付き、薄く人の顔のシルエットを作っていた。


「ねえ、聞いてる?」

「う、うん……ただの偶然じゃない?」

「……そうよね」


電話を切り、私は震える手で水を飲む。グラスを持つ手がカタカタと鳴る。テレビの横に飾られた祖母の遺影に目をやった。笑顔の写真。この人は、死んでなお、私を試しに来るのか。


グラスを置いた直後、部屋の照明が一瞬だけ明滅した。蛍光灯ではなく、LEDの新しい電球のはずなのに。停電かと天井を見上げると、そこには十数匹の蛾が円を描いて飛んでいた。驚愕と恐怖が入り混じったまま、私は悲鳴を上げた。


いつの間に入り込んだのか。換気扇か、エアコンの隙間か。それとも——。


蛾たちはゆっくりと高度を下げ、私の周りを取り囲むように舞い始めた。どの蛾の翅にも、祖母の顔が浮かんでいる。怒った顔、悲しげな顔、何かを訴えるような顔。

一匹が私の頬に触れた。鱗粉の感触がざらりと残る。


『まだね、言ってないことがあるの』


今度ははっきりと聞こえた。蛾たちの羽音が重なり合って、祖母の声になっていた。


『仏壇の引き出し。赤い封筒。あなただけに……』


そこまで聞いた時、玄関のチャイムが鳴った。深夜二時の、乾いた、電子的な音。この世の全ての恐怖が凝縮されたような、不快なチャイムの音だった。 私は身動きが取れなかった。部屋の中には祖母の顔を宿した十数匹の蛾が舞い、その羽音は、まるで悲鳴の合唱のように頭の中で響いている。 外には誰がいる?母だろうか?いや、母なら電話してきたばかりだ。


思考がまとまらない。息がうまく吸えない。床がぐにゃりと歪んだような錯覚に襲われる。


蛾たちの羽音が突然乱れた。


「まだ、聞いてね……!」「早く」「時間が……」


複数の声が重なり合い、混乱した囁きとなって渦巻く。その声には焦燥がにじみ出ていた。まるで、誰かに見つけられる前に、この秘密を伝えきらなければならないかのように。


『仏壇の引き出し。赤い封筒。あなただけに……』


最後のメッセージが、焦燥の中で再び強く響く。引き出し?赤い封筒? 私は恐る恐る首を巡らせ、仏間へと続く襖に目を向けた。


その瞬間、再び玄関のチャイムが鳴った。今度は少し長く、催促するように。 私はインターホンを無視した。誰であろうと、今はそれどころではない。この秘密——祖母が、死後まで蛾の姿を借りて伝えようとした、赤い封筒のメッセージの方が重要だ。


私は身をかがめ、頭上を旋回する蛾の群れを避けながら、部屋の隅にある仏壇へと向かった。 蛾たちは私を追尾するように、一緒に移動する。頬や首筋に、冷たい鱗粉の気配を感じる。


仏壇の引き出しは、祖母が亡くなって以来、一度も開けていなかった。鍵はかかっていないはずだ。

震える指で一段目の引き手を掴み、ゆっくりと引き出した。 中には、黒い線香の箱、仏花の造花、そして——。


そこにあったのは、予想よりもはるかに鮮烈な、紅い封筒だった。 結婚式の招待状のように濃い赤ではなく、まるで鮮血が染み込んだような、深く、陰鬱な紅。それは仏壇の荘厳な黒檀の中で、異様なまでに目を引いた。


私はその封筒を掴んだ。紙質は硬く、中には分厚い何かが入っているようだ。 その瞬間、頭上の羽音がピタリと止んだ。


私は一瞬安堵したが、次の瞬間に凍り付いた。 蛾たちが、今度は一匹残らず、紅い封筒めがけて一斉に降下してきたのだ。まるで、その封筒こそが蛾たちの目的であり、今や私から奪い取ろうとしているかのように。


蛾が群がり、視界を覆い尽くす。私は反射的に封筒を胸に抱きしめ、両手で顔を庇った。


封筒の外側に、無数の小さな体が這い回る音が聞こえる。 一瞬だけ顔を上げたとき、数匹の蛾が翅の模様で形作る祖母の顔が、私の耳元で囁くのが見えた。


『開けてはいけない』


さっきのメッセージとは正反対の言葉。封筒を開けさせまいとする強烈な阻止の意思。 しかし、私は紅い封筒の重みを胸に感じながら、考える。


「あなただけに」


この言葉が、私に選択を迫っていた。


私は意を決し、封筒の裏側、糊付けされた部分に爪をかけた。 封筒を開けるか、それとも蛾たちの警告に従うか。その決断の瞬間、玄関のインターホンが、再び鳴り響いた。


今度はチャイムではなく、まるで固定ボタンを押し続けたような、長くて耳障りな、警告音のような鳴り方だった。 そして同時に、封筒の裏側に、外側から液体が滲み出すのを感じた。


液体は温かく、粘り気があった。私は思わず手を離しかけたが、封筒は私の手のひらに張り付いて離れなかった。


赤黒い液体が封筒の縁から滴り落ち、畳に小さな染みを作る。それは血のようにも、古い墨汁のようにも見えた。


蛾たちが激しく羽ばたき、鱗粉の嵐が部屋中に舞った。目に、口に、鼻に入り込んでくる。咳き込みながらも、私は封筒を握りしめた。この中身を見なければ、決して終わりはないという確信があった。


玄関のインターホンは鳴り止まない。その音に混じって、今度はドアを叩く音まで聞こえ始めた。 音は徐々に大きくなり、ドア全体が震えているのが分かる。規則的で、執拗な音。


「開けなさい」


扉の向こうから、低い男の声が聞こえた。家族ではない。知らない声だ。


「封筒を渡していただきます」


丁寧だが、拒否を許さない口調。

蛾たちの羽音が、言葉を紡ぎ始めた。


『逃げて』『隠して』『燃やして』


三つの異なる指示が、混乱した祖母の意思を表しているようだった。生前の記憶が断片化し、矛盾した警告として現れているのか。それとも、祖母自身が何をすべきか迷っているのか。 無理もないと思った。それだけ重大な情報がこの中にあると思うと、中身を知りたいと思う気持ちが強くなる。


私は震える手で封筒の封を完全に破った。中から出てきたのは、古い写真の束だった。全て白黒写真。一番上の写真には、若い頃の祖母が写っていた。いや———祖母だけではない。


隣に立っているのは、見知らぬ男性。軍服を着ている。そして祖母のお腹は、明らかに膨らんでいた。

写真の裏には、走り書きのメモ。


「昭和二十三年八月、東京にて。彼が最後に笑った日」


母は昭和二十三年生まれだ。となると、おなかにいる子は母なのか?

ドアを叩く音が激しくなった。


「最後の警告です。封筒を渡していただけますか」


男の声は、玄関の向こうから響き渡る。感情は感じられないが非情に大きい。


私は次の写真をめくった。同じ男性が、今度は別の女性と写っている。その女性も妊娠しているように見えた。そして次の写真、また別の女性。次も、次も——。


全ての写真の裏に、祖母の筆跡で日付と場所が記されていた。そして最後の一枚には、赤いインクで大きく書かれていた。


「この男に、子孫を会わせてはならない」


蛾たちが一斉に窓に向かって飛び立った。窓ガラスにぶつかり、次々と落下していく。その様子は、まるで自ら命を絶つかのようだった。


最後の一匹が、私の手に止まった。翅の祖母の顔が、今度ははっきりと目を合わせてきた。口が動いた気がした。


『あの男は——』


その瞬間、玄関のドアが、轟音とともに破られた。轟音は、ドアが蝶番ごと吹き飛んだかのような、凄まじい破壊の音だった。木材の砕ける音、金属の軋む音が混ざり合い、深夜の静寂を引き裂いた。


私は写真を胸に抱えたまま、仏壇の影に身を潜めた。心臓が早鐘を打つ。玄関からの砂利を踏む音が、一歩、また一歩と廊下に近づいてくる。


その爆発的な音響の中、私の手に止まっていた最後の一匹の蛾が、力を使い果たすかのように翅を硬直させた。


『あの男は、あなたの——祖』


途中で途切れたその言葉が、まるで見えない糸で私の心臓を締め付ける。同時に、冷たい鱗粉が指から滑り落ちる。祖父と言うつもりだったんだろうか——母の父。私が、物心つく前に亡くなったと聞かされていた、祖母の夫。写真など見たこともないし、母も父も、まるでその存在自体が禁忌であるかのように話題にしない人物。


私は愕然とした。この写真の数々で、祖父と思わしき男性は複数の女性との間に子どもを持った可能性がある。この紅い封筒が語るのは、家系図を根底から揺るがす「真実」なのかもしれない。

玄関ホールから、重い靴音が響いてくる。男が侵入したのだ。


「その手に持っているもの、渡してもらえますか」


男は低い声で言った。その声は、感情を完全に排した、機械的な響きを持っていた。


私は顔を上げ、侵入者の姿を見た。 そこに立っていたのは、軍服の男ではなかった。黒いスーツに身を包んだ、中年の男。手には工具のようなものを持っている。そして何より異様なのは、その顔つきだった。無表情の奥に、獲物を追い詰めた獣のような執着が宿っている。


「あなたは……誰ですか?」


私の声は震えていた。男は私の問いには答えず、一歩ずつ近づいてくる。


「その封筒の中身を確認させてもらいます。危険なものです。あなたが所有するべきではありません」

「危険?」


私は思わず繰り返した。写真を隠すように胸に押し当てる。男の目は、私が握りしめている紅い封筒に釘付けだ。


「とにかく渡していただきましょう。それは、歴史から消されるべきものです」


男が一歩踏み出すと、床に散乱していたはずの蛾の死骸、そして窓に残った鱗粉のシミが、一瞬だけ白熱したように光を放った。


『逃げて!』


光の中から、祖母の声が木霊した。それは、もう羽音ではなく、力強い、生前の声。


男はたたらを踏んだ。顔が一瞬、苦痛に歪む。 私はその隙を見逃さなかった。紅い封筒をジャケットの内ポケットに押し込み、仏壇の横の廊下へと駆け出した。


「待て!」


男の叫びが背中に突き刺さる。彼は一瞬遅れて、私を追って廊下へ入ってきた。


廊下の先は、薄暗いキッチンと、裏口へと続く勝手口だ。私は迷わず勝手口の鍵に手をかけた。


鍵を回し、ノブを捻る。外の空気が一気に流れ込んできた。深夜の冷たい、静かな空気。 しかし、その空気には、窓の蛾の鱗粉とは違う、鉄と血のような臭いが混じっていた。


勝手口のドアを開け放ったその外にも、人影があった。


全身を黒い作業服に包み、覆面で顔を隠した人影が、二人。彼らは音もなく、まるで影そのもののように、私を待ち構えていた。


私は後ろを振り返った。廊下からは黒いスーツの男が迫ってくる。前には覆面の二人。完全に挟まれた。


「観念しなさい」


スーツの男が言った。その声には、もう焦りも怒りもなかった。ただ確信だけがあった。


私は封筒を握りしめた。祖母が死後、蛾という忌まわしい姿を借りてまで守ろうとしたもの。この写真には、誰かにとって都合の悪い真実が写っているのだ。


覆面の二人が一歩踏み出した瞬間、キッチンの窓ガラスが一斉に割れた。


四方の窓から、無数の蛾が雪崩れ込んできた。数百、いや数千という数。灰色の翅が月明かりを反射し、まるで生きた霧のように男たちを包み込んだ。


「うわあああっ!」


覆面の一人が悲鳴を上げ、顔を覆って後ずさる。もう一人も同じように蛾の群れに押され、庭へと転がり落ちた。


スーツの男は蛾を払いのけようと腕を振り回したが、蛾たちは執拗に彼の顔に、目に、口に群がった。


『今よ!』


祖母の声が、蛾たちの羽音から響いた。

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