現実の回帰:そして新たな始まりの予感

渦巻く光と闇の狭間で、三塚雪の意識は急速に希薄になっていった。全身を締め付けるような倦怠感と、骨の髄まで吸い尽くされるような疲労が、彼女を深淵へと引きずり込む。軋みながら崩壊していく世界の轟音は遠のき、あらゆる感覚が溶け出すように、静かに、ゆっくりと遠ざかっていった。


次に目覚めた時、そこは、全く異なる世界だった。

鼻腔をくすぐる柔らかな土の匂い。遠くで響く小川のせせらぎ。肌を優しく撫でる温かい陽光。五感がゆっくりと、しかし鮮明に、現実の輪郭を取り戻していく。瞼を開けると、まず飛び込んできたのは、見慣れた道祖神の姿だった。かつて母と手を取り訪れた、そして忌神の夢へと誘われるよりずっと以前、忘れかけてた記憶の中で視線を向けられた、あの道祖神だ。


「なぜ、ここに……」

雪は困惑に目を細め、ゆっくりと周囲を見渡した。そこは紛れもなく、あの、現実世界の山道だった。しかし、何かが、決定的に違っていた。肺を満たす空気は、これまでになく澄み渡り、木々の緑は生命力に満ちて鮮やかさを増し、鳥の声は、耳に心地よく響く清らかな調べとなった。この世界は、まるで研ぎ澄まされ、修復されたかのように、五感を刺激した。


少し先、山道の緩やかな坂道の向こうに、人影が見えた。誰か、と目を凝らす。それは紛れもなく、雪の母だった。

母は、遠くの景色を慈しむように、ゆっくりと歩いている。その背中は、見慣れたはずなのに、遥か遠いもののように感じられた。雪は、信じられない思いで母の背中を見つめた。母の服装も、周囲の木々の佇まいも、全てが4年前と寸分違わぬ姿だった。


だが、雪自身の内側にある感覚は、まるで何十年も時を経たかのように、遠い記憶の残滓を辿るような曖昧さを帯びていた。忌神の夢の中で過ごした濃密な時間は、確かに雪の精神に深く深く刻み込まれていたのだ。

その時、雪の頭の中に、唐突に、確かな言葉が閃いた。

『そうか、ここは……四年間の……』

忌神の夢世界で過ごした日々は、現実世界では別の時間として流れていたのかもしれない。あるいは、忌神の創り出した夢は、まだ完全に終わりを迎えていなかったのか。


雪は、ゆっくりと母の背中に向かって歩き始めた。だが、以前のように、ただ無邪気にその背中を追うのではない。

その一歩一歩は、これまでの躊躇を振り切るかのように、しかし、あまりにも静かで、獲物を追う獣のようだった。母の背中を見つめる瞳には、慕情の代わりに、冷徹なまでの観察の色が宿る。無意識のうちに、雪の指先が、何かを捕らえ、確かめるかのように、ゆっくりと開閉を繰り返した。心臓の鼓動が、全身を駆け巡る血潮の熱とは裏腹に、氷のように冷たい衝動を加速させていく。

忌神の夢の中で、彼女は『生存』の意味を知った。そして、『贄』となる者の運命も。

雪の心には、もはや安堵も困惑も、拭いきれない不安さえも存在しなかった。ただ、研ぎ澄まされた刃のような、冷酷な決意だけが、その奥で凍てつく星のように瞬いていた。

一つの終わりは、確かに、新たな始まりだった。だが、それは希望の光を伴うものではなく、深淵へと誘う、悪夢の始まりだ。

雪は、一歩、また一歩と、確かな足取りで、母の、そして『己の現実』の運命を切り開くように、背後を追った。

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音なき神隠し 月雲花風 @Nono_A

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