忌神への奉納:儀式の遂行と世界の崩壊

 鉛色の空が、世界を分厚いカーテンのように覆い尽くしていた。風はない。それなのに、神社の森を構成する全ての木々が、ざわめいているように見えた。異様な重苦しさが肌にねっとりと張り付き、呼吸するたびに肺腑が締め付けられる錯覚に陥る。忌神の真名と、過去の自分と向き合うことでようやく手にした供物を胸に抱え、三塚雪は、再びこの異形の神社へとたどり着いた。まるで、忌神自身がこの場所で、雪の訪れを待ち構えていたかのようだった。


 苔むした石段が、社殿へと幽かに誘う。足を踏み出すたびに、鉛のように重い足取りが、全身の疲労を訴えた。それでも、雪の瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。もう、逃げない。決して、目を背けない。


 境内に足を踏み入れた瞬間、それまで潜んでいた異形の気配が、一斉に雪を取り囲むように具現化した。蠢く影、耳障りな唸り声。それらは雪の過去から這い出た幻影のように、彼女の最も深い傷を抉ろうと迫りくる。

「お前なんかいなければよかったのに……!」

 母親の、凍えるような声が幻聴となって耳元で響いた。

「裏切り者!」「嘘つき!」「お前のせいで!」

 友人たちの、突き刺すような罵声が頭蓋の奥に木霊する。視界には、あの日の教室の光景が、白い制服の影が、雪を見下ろす冷たい眼差しが、幻覚として映し出された。指差す手が、舌打ちの音が、心の奥底で腐りかけていた罪悪感を増幅させ、雪の精神を粉々に砕こうと襲いかかってくる。


 呼吸が詰まり、全身が硬直しかける。喉の奥から悲鳴がせり上がってくるが、雪はそれを必死で押し殺した。今ここでひるめば、永遠にこの世界から出られない。彼女は奥歯が砕けるほどに固く唇を噛み締め、震える腕で供物を胸に抱きしめた。その冷たく薄汚れた布の感触だけが、唯一の現実だった。

 一歩、また一歩。怪物の嘲笑と罵声が降り注ぐ中を、雪はただひたすらに前へと進んだ。その瞳は一点を見据え、恐怖の全てを振り払うかのような、純粋な意志の光を宿していた。


 社殿の中は、外の光を全て飲み込んだような濃密な闇に包まれていた。その奥に、不気味な形状をした石のオブジェが、静かに鎮座している。その前までたどり着くと、雪は深く息を吸い込んだ。神官の日記に記されていた通りの手順で、彼女は両腕を掲げ、供物をそのオブジェへと捧げる。薄汚れた布切れが、ごつごつとした石の表面に触れると、微かな光が走ったように見えた。


 そして、雪は忌神の真名を唱え始めた。

「――イミカミ、ユウエンノモノ、キエシヒカリノオウ、カクリヨノスベテヲツナグモノ――」

 その言葉は、雪自身の喉から発せられているとは思えないほど、強く、そして神秘的な響きを持っていた。古の言霊が、社殿の闇を震わせる。まるで、彼女が忌神自身の言葉を代弁しているかのようだった。


 真名を唱えるたびに、社殿全体が不気味な光を放ち始めた。闇の中から脈動するような、禍々しい輝き。地面が微かに震え、オブジェを中心に、忌神の強大な力が具現化されようとしているのが肌で感じられた。境内にいた怪物たちが、怒号を上げて雪に向かって襲いかかってくる。爪を剥き出し、牙を剥き、雪の肉体を切り裂こうとするが、雪はただひたすらに真名を唱え続けた。

 その声には、恐怖だけではなかった。過去の自分を許し、母親の裏切りを受け入れ、友人たちの視線に耐えてきた、あの頃の自分を抱きしめるような、深い慈しみが込められていた。そして、この閉ざされた世界から抜け出し、未来へ進みたいという、強く、純粋な願いが。


 最後の言葉が、漆黒の空間に響き渡った。

「――ワレ、コノセカイヲタツモノ、ソノチカラヲココニマツル――」

 その瞬間、捧げられた供物が眩い光に包まれ、石のオブジェへと吸い込まれていった。同時に、社殿を覆っていた濃密な闇が、一気に収縮していく。

 キシキシ、と、世界全体がひび割れたガラスのように軋み始めた。地鳴りのような轟音が響き渡り、空間そのものが崩壊していくような感覚に襲われる。雪の視界が歪み、足元の地面が、まるで脆い陶器のように細かく砕け散っていくのが見えた。全てが終わり、全てが始まる。この場所、この世界、その存在そのものが、掻き消えようとしていた。

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