真名の完成:過去との対峙と覚悟の刻
幾日にもわたる探索は、雪の身体から僅かに残された気力すらをも奪い去った。埃と黴の匂いが染み付いた図書館の奥で、廃れた神社の手記の隅で、崩れかけた町の碑文の裂け目で……。断片的な言葉や記号、絵柄を血眼になって探し求め、その度に深まる疲労と焦燥感に、意識は常に薄い膜に覆われているかのようだった。しかし、全てのピースが揃った今、雪はほとんど本能に導かれるように、それらを突き合わせる作業に没頭した。
神官の日記と図書館の「忌神伝説」。そして、無数の碑文や手記から得た情報を、凍える指先で丁寧になぞっていく。文字の羅列が、意味を成さない記号が、そして曖昧な絵柄が、彼女の脳内で静かに繋がり始めた。一つ、また一つと結びつき、やがてそれは一本の確かな線となって、忌神の「真名」を紡ぎ出した。
それは単なる呼び名ではなかった。忌神の性質、そのおぞましい起源、そしてこの町との血塗られた因縁を語る、恐ろしくも美しく、そしてどこか哀愁を帯びた言葉の連なり。真名が彼女の意識に流れ込んだ瞬間、雷鳴が脳を貫くかのような衝撃と共に、全てが明瞭になった。
忌神は、人々の忘れ去られた記憶、深い後悔、そして隠された罪悪感を糧として成長する存在。この世界そのものが、それを証明するように、過去の澱のような感情で満ちている。真名が明らかになるにつれて、雪は漠然と、しかし確実に悟った。自分自身がこの夢の世界に囚われた本当の理由。忌神が何を求めているのか。
この世界は、雪自身の内側に深く根差した、ある『罪』や『後悔』、あるいは『怒り』が、忌神の力と結びついて具現化したものではないのか。冷たい戦慄が、背筋を這い上がった。目の前に広がる全ての光景が、自分自身を映し出す鏡だとしたら。その事実は、あまりにも残酷で、あまりにも絶望的だった。
脱出のために必要な供物。それは、神官の日記に記されていた通り、雪が幼い頃に大切にしていたが、ある出来事をきっかけに衝動的に捨て去ってしまった思い出の品。彼女の心の傷と直結する「象徴」だった。それを再び手にすることは、過去の自分と向き合い、その罪を乗り越えることを意味する。
供物が隠されている場所もまた、雪自身の記憶の奥底に封じ込められていた。かつて、何もかもを壊してしまいたいと願った自分自身が、その品を投げ捨てた場所。彼女にとって、そこは忌まわしい過去の墓標だった。
呼吸が止まるほどの恐怖が、再び胸に迫りくる。しかし、雪は固く唇を噛み締め、震える身体を奮い立たせた。もう二度と、目を背けることはしない。決然とした表情で、彼女はその場所へと向かった。
たどり着いたのは、町外れの、雑草が生い茂る小さな空き地だった。錆びついた遊具が、朽ちたベンチが、まるで時が止まったかのように、過去のまま残されている。記憶の中の風景と寸分違わぬ光景に、雪の心臓は嫌な音を立てて波打った。そこに横たわる、煤けて色褪せた布の切れ端。それは、かつて自らの手で、この場所に置き去りにした罪悪の証だった。
鉛のように重い足を引きずり、雪はそれへと歩み寄る。指先が触れる瞬間、凍てつくような記憶の奔流が、彼女の心を洗いざらい浚(さら)っていった。幼い日の無邪気な笑顔。母親の裏切りを知った時の、世界の全てが崩れ落ちたかのような絶望。友人たちの冷たい視線。そして、その痛みに耐えきれず、衝動的に、しかし確かに、その大切なものを手放した時の、あの罪悪感。
喉の奥で悲鳴が潰れる。心臓を直接掴まれ、捻じ曲げられるような痛み。それが、どれほど長い間、彼女がその過去から目を背けたかったかを物語っていた。後悔と悲しみが、津波のように押し寄せる。しかし、この全てを受け入れなければ、この世界から抜け出すことはできない。
雪は、供物をしっかりと握りしめた。冷たく、薄汚れた布の感触が、過去の痛みをそのまま伝える。それでも、もう離さない。二度と目を背けることなどしない。
彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、恐怖の影と共に、揺るぎない覚悟が宿っていた。行き先は、忌神の神社。もう迷いはなかった。痛む心を奮い立たせ、雪は、未来へ向けた一歩を踏み出した。
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