儀式の啓示:供物の秘密と心の痛み

 鉛のように重い身体を引きずるようにして、雪は再び町を彷徨っていた。手に入れた真名の断片は、彼女の凍てついた心をわずかに揺さぶり、悪夢を終わらせる道筋を示しているかのようだった。しかし、すぐに新たな疑問がその希望を霞ませる。真名を見つけ出すことができたとしても、忌神を鎮める「正しい奉納方法」が分からなければ、これまでの一切は無意味に帰すだろう。絶望が喉元までせり上がるのを感じながらも、雪はそれでも足を進めるしかなかった。


 人々の往来を避け、裏路地や廃屋の影を縫うように歩く。視線は常に地面に落とされ、誰とも目を合わせないように細心の注意を払った。突如響く子供たちの笑い声や、向かいから来る男たちの話し声に、びくりと身体が強張る。全身の筋肉が硬直し、息をするのも苦しくなる。それでも、彼女は立ち止まることを許さなかった。


 目的もなく歩き続けていたその時、ふと、ひときわ大きく古びた屋敷が目に留まった。高く築かれた塀は苔むし、門は錆びついた鉄でできた頑丈なものだったが、鍵穴はすでに朽ち、隙間から内部を窺うことができた。かつてこの町で力を持っていた者、あるいは忌神を祀っていた神職の末裔が住んでいた場所なのだろうか。その澱んだ空気が、雪の内側に眠る何かを刺激する。


 門の隙間は、雪がすり抜けるにはあまりにも狭かった。しかし、彼女は諦めなかった。爪が剥がれるのも厭わず、力を込めてその隙間をこじ開ける。軋むような音を立てて門がわずかに動き、雪は息を詰めてその小さな開口部から滑り込んだ。

 内部は、まるで時間が止まったかのようだった。埃の層が何層にも重なり、かつて美しかったであろう調度品を覆い尽くしている。日の光が届かない奥へと足を踏み入れるたび、カビと古い紙の匂いが鼻腔を刺激した。廊下を進むうちに、屋敷の重苦しい静寂が、雪の心臓の音だけを際立たせる。


 書斎らしき部屋で、雪は古びた日記帳を見つけた。机の上、分厚い専門書や地図の山に埋もれるようにして、それはひっそりと置かれていた。装丁は擦り切れ、ページは黄ばんで脆くなっている。それは、忌神を鎮める役割を担っていた神官の末裔が、代々記してきたものだった。

 恐る恐るページをめくる。達筆な筆跡で綴られた文字は、しかし、雪の心を掴んで離さなかった。忌神が何を好み、何を嫌うのか。どのような供物を捧げれば、その強大な力を封じることができるのか。詳細な記述が、そこにはあった。


 ——忌神はあまりに強大である。その存在を完全に消し去ることは不可能。ゆえに、真名を用いた特定の供物を正しい形で奉納し、忌神を『眠りにつかせる』のが最善の道である。


 読み進めるにつれて、雪の胸は期待と、そして漠然とした不安で締め付けられていった。供物に関する記述は、他の項目とは一線を画していた。「忌神が最も忌み嫌うもの、しかしその力の一端を宿すもの」。その不可解な表現に、雪は困惑した。具体性に欠ける言葉の羅列は、しかし、彼女の心の奥底に眠る、ある記憶の扉を叩いた。


 背筋を冷たいものが走り抜ける。心臓が嫌な音を立てて波打った。忌神が最も忌み嫌うもの、しかしその力の一端を宿すもの……。それは、雪自身の過去と深く関わる、ある『モノ』を指しているかのように思えた。

 日記の言葉が、脳内で反響する。「忌み嫌うもの……力の一端……」。雪の思考は、遠い過去へと引き戻されていく。まだ、何もかもが壊れていなかった幼い頃。無邪気な笑顔を浮かべていた自分。あの時、大切にしていた、あの「モノ」。

 その思い出の品は、ある出来事をきっかけに、雪が衝動的に捨て去ってしまったものだった。母親の裏切り、友人たちの冷たい視線。全てが縺れて、目の前から消え去ってしまえばいいと、そう願って手放した、罪悪の証。


 悟りたくない真実が、無理やり心の奥底から引きずり出される。それは、彼女にとって向き合うのが最も辛い、忘れ去りたい過去の一部だった。同時に、それが忌神を鎮めるための最後の鍵であると、雪は本能的に理解した。

 胸の奥から、疼くような痛みが襲いかかる。心臓を直接掴まれ、捻じ曲げられるような感覚。胃の腑がひっくり返りそうになり、思わず口元を押さえた。その「モノ」を再び手にするなど、考えただけで吐き気がする。触れることすら、きっとできない。

 しかし、この悪夢を終わらせるためには、それしかない。

 雪は深い息を吐いた。震える指で、日記のページを強く握りしめる。過去の自分と対峙し、その痛みを乗り越えなければ、未来はない。凍てつくような嫌悪と、しかしそれを上回る決意が、雪の心の奥底に確かに芽生え始めていた。

 痛む心を奮い立たせ、雪は立ち上がった。次に向かうべき場所は、もう、決まっている。

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