真名の断片:記憶の残滓と試練の道
冷たい羊皮紙の書物を胸に抱きしめ、雪は再び暗闇の中へと足を踏み出した。「忌神伝説と鎮魂の儀」──その古書が示す「真名」こそが、この悪夢からの唯一の脱出路。図書館の重い扉を後にし、彼女は、忌神がかつてこの町で崇拝されていた時代の痕跡を、砂粒を拾うように辿り始めた。真名を探すということは、忘れ去られた歴史の残滓を掘り起こすことに他ならない。
乾いたアスファルトを踏みしめ、雪はただ歩いた。現実世界ではとっくに風化してしまったであろう、廃墟と化した古い家屋。かつて村人たちの喧騒が響いたであろう、公民館の跡地。そして、朽ちた鳥居だけが虚しく立つ、忘れ去られた墓地。それらはこの夢の世界で、奇妙なほど鮮明な輪郭を保っていた。
壁には古びた碑文が、苔むした石には謎めいた象形文字が、そして、腐りかけた木箱の底からは、湿気を吸って膨らんだ巻物が見つかった。震える指先でそれらを広げ、雪は慎重に読み解いていく。歪んだ文字の羅列から、忌神の断片的な情報が浮かび上がる。
探索は困難を極めた。
崩壊寸前の家屋は、軋む音を立てて彼女の行く手を阻んだ。踏み込んだ床板が、いつ崩れてもおかしくない。そのたびに心臓が跳ね、全身が強張る。また、先日遭遇したような異形の怪物が、人気のない路地や藪の陰に潜み、徘徊していた。奴らの粘着質な気配を感じるたびに、雪は息を潜め、身を固くしてやり過ごすしかなかった。喉は乾ききり、空腹が胃の腑を締め付けるが、休むことすら許されない。
ある古びた寺の跡地では、最悪の事態に直面した。
本堂らしき建物の柱が折れ、屋根が半分崩れ落ちた広間。その中央で、雪は過去の記憶が具現化したような怪物の群れに囲まれた。
それは、かつて彼女が裏切った人々、失望させた人々の顔を歪めて模倣しているかのようだった。母親の嘲笑、友人たちの冷たい視線、そして何よりも、幼い頃に彼女が見捨てた「何か」の、形容しがたい影。怪物は、雪自身の心の奥底に隠していた罪悪感をそのまま映し出しているかのようだった。
「お前なんかが、何を知る…」
「どうせまた、逃げ出すくせに…」
幻聴のように囁かれる言葉が、耳の奥でこだまする。恐怖で身体は硬直し、足が縫い付けられたように動かない。しかし、次の瞬間、鋭い咆哮が広間に響き渡り、怪物の群れが同時に襲いかかった。雪は咄嗟に身を翻し、崩れ落ちた壁の隙間をすり抜けて、間一髪でその場を逃げ出した。背後からは、怨嗟に満ちた絶叫と、鈍い足音が追ってくる。息を切らし、ただ前へ。転がるように駆け抜け、辛うじて追跡を振り切った時、雪は膝から崩れ落ちた。全身から力が抜け、身体は鉛のように重かった。
それでも、手に入れた断片を読み解くことを止めなかった。
それは、単なる文字の羅列ではなかった。忌神がどのような存在であり、何を司っていたのか。なぜ人々に忘れ去られ、恐れられるようになったのか。この町の忌まわしい歴史の断滓が、一つまた一つと、剥がれるように姿を現す。
断片の一つ一つが、雪自身の心の奥底にある記憶の扉を叩いた。それは、幼い頃に母から聞いた町の古い話であったり、祖母が語っていた不可解な言い伝えであったりした。まるで、長い間忘れ去っていたパズルのピースが、今、必然のように目の前で繋がり始める感覚。それらの情報は、真名の意味をより深く理解するために不可欠なものに思えた。
しかし、同時に、困惑も深まっていった。
情報の量は膨大で、雪の脳は混乱の極みにあった。ある記述は忌神を慈悲深い存在として描く一方で、別の記述は恐ろしい災厄をもたらす邪神として記していた。矛盾する情報が頭の中でぐるぐると渦巻き、どれが真実なのか判断がつかない。
真の真名へと繋がる道は、まだ遠く険しい。そしてそれは、単に文字を追うだけでは辿り着けないことを、雪は悟り始めていた。
この道の先には、忌神の真実だけでなく、彼女自身の過去との、避けられない対峙が待っている。
凍える指で、固く握りしめた巻物を眺める。その重みが、雪にまだ歩き続けなければならないことを告げていた。
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