第三章 其ノ八 時を超えた再会

紗江が令和に戻ってすぐ、葵を探しに走った。



――徳川家の屋敷


もう一度、葵様に会いたい。

徳川家の門前に立ち、インターホンを押す。葵の知り合いだと伝えると、お手伝いらしき女性が現れ、庭へと招き入れてくれた。


格式ある屋敷の庭に、見覚えのある横顔があった。

葵――いや、今の彼は「徳川 蒼あおい」と呼ばれているらしい。


彼のまわりには家族や親族が集い、和やかな笑い声が響いていた。その輪の中で、蒼は穏やかに微笑んでいる。

「葵様……」

紗江は思わず声をかけた。

「紗江です」


けれど、その瞳には、紗江を映す記憶はなかった。

紗江の頬に、一筋の涙が流れ落ちる。


「……記憶障害なのだそうですよ」

案内してくれた女性が、そっと告げた。


紗江は門の外で、声も出せずに立ち尽くした。涙ではなく、胸の奥がただ静かに痛んだ。


(――葵様が生きていた。それだけで、もう十分……)

夜風が頬を撫でた。紗江は小さく息をつき、背筋を伸ばす。



そして、歩き出した。

自分の手で、自分の道を作るために。

翌朝から、紗江は服飾の専門学校に通い始めた。


昼は和雑貨店で働き、夜は針と糸に心を預ける日々。やがて卒業の頃には、紗江は小さな工房を開いた。


名は「Sae工房」

和の布を使い、令和らしいアレンジを加えた着物や雑貨を並べた。評判は少しずつ広がり、客が絶えない日も出てきた。

そんなある日のことだった。


風が吹き込み、暖簾を揺らす。


店の入口に、ひとりの男性が立っていた。


髪型は違うが、整った顔立ちに涼やかな瞳――どこか現実離れした美しさ。


紗江の心臓が、強く跳ねた。

「……いらっしゃいませ」


彼は優しく微笑み、指で生地をなぞった。

紗江の動きが止まる。


「徳川……さん、ですか」



「私の名は葵。おぬしの名は」

「私は紗江……小織紗江です」



(……なんだろう、何か懐かしい感じがする)

葵は首をかしげる。


「……私の……知り合いか?」

「……申し訳ないが、記憶障害という病らしく……」


「だが……この店に呼ばれている気がして」

風が再び吹いた。


(……葵さま)

紗江の目から涙が溢れて止まらない。


「どうした、何かあったのか……」

蒼がジャケットのポケットからハンカチをーー差し出した。


そこへ、店の奥から黒猫がゆらりと現れ、蒼の前で動きを止めた。


すると、クロの目が金色に光り――紗江と葵は気を失った。

クロは役目が終わったのか、光と共に消えていった。


「葵、紗江……しあわせになれ」

松雲の声がしたような気がした――。


柔らかな光が、葵の瞼の裏を照らしていた。


葵は、静かに目を開ける。


「うっ、私は……何があった」


ふたりの間に金色の光が舞った。


隣に紗江が倒れている。

「……紗江……紗江なのか」



紗江は気を失っている一瞬の間、クロのことを思い出していた。

(……ありがとう、クロ)


遠くで、誰かが呼んでいる。


「紗……紗江……紗江!」


聞き覚えのある声……がする。


紗江は、そっと目を開けた。


「葵様……?」


葵は何も言わずに紗江を抱きしめた。


「……すまなかった、全部思い出した」と呟いた。


紗江と葵は、泣きながら微笑みあった。


それから、葵は毎日のように店を訪れるようになった。


外では、春の風が桜の花びらを運んでいる。

それはまるで、時を越えてふたりを結ぶ糸のように。



――澄月庵での新生活


葵と紗江が結婚して、数ヶ月が過ぎた。ある日、葵が両親に呼ばれた。


「蒼、紗江さん、話があるの」

母親が二人をリビングに招く。


「実は……徳川家には、古い別邸があってね」


「別邸ですか……?」

葵が首を傾げる。


「ああ。江戸時代から残っている建物なんだが」

父親が古い写真を取り出す。


「『澄月庵』という名前でね」


「……」

葵と紗江が顔を見合わせる。


「どうしたの?二人とも、澄月庵を知っているの?」

母親が驚く。


「はい……」

葵が震える声で言う。


「私たちが……仲間とともに暮らしていた場所です」


「……?」

両親が顔を見合わせる。


「長年、管理人が守ってきたんだが……」

父親が葵を見つめる。


「もう古い建物だし、維持も大変でね」


「お前たちに……譲りたいと思っているんだ」


葵は一瞬、言葉を失った。

それから――


「まことでございますか!」


思わず江戸の言葉が出た。

葵は慌てて言い直す。

「いえ……本当ですか?」

そして、深く頭を下げた。

「ありがとうございます、父さん、母さん」



数日後――澄月庵


葵と紗江が、門の前に立つ。

古びた木の門。

だが、しっかりと手入れがされている。


二人は、ゆっくりと門をくぐった。


「……」

言葉が、出ない。


江戸時代と変わらぬ姿の澄月庵があった。

木造の建物、美しい庭、静かな池。


「葵様……」

紗江が涙を流す。


「ここ……本当に、あの澄月庵だわ……」


「ああ……」

葵も涙を堪えながら頷く。



「帰ってきた……俺たちの、家に」


二人はゆっくりと中へ足を踏み入れた。


畳の匂い。木の温もり。

すべてが、胸に沁みるほど懐かしい。


「紗江、こっちに来てごらん」

葵が柱を指差す。そこには——“葵”と彫られた文字。


「葵様!江戸にいた時は気づきませんでした」


(絹なら……ここにしまうだろう)

葵は戸棚を開け、壁掛けの花器を取り出した。


「これならどうだ」

そう言って、彫られた“葵”の文字の上に花器を当てて隠してみせる。


「まぁ、葵様ったら……」

くすりと笑い合い、二人は子どものようにはしゃいだ。


「こっちは……」

紗江がそっと隣の部屋を覗く。


「皆で……縫い物をしていた部屋……」

懐かしさで胸がいっぱいになる。



「葵様、あそこ……」

紗江が庭の奥の蔵を指す。

「もしかすると、何か残っているかも……」



二人が蔵に近づく。 


重い扉を開けると――


埃を被った蔵の中に、たくさんの桐の箱が並んでいた。

「これは……」

葵が一つの箱を開ける。



中には――

一本の刀が納められていた。

柄には、細い筆致で小さな文字が刻まれている。


『葵』


「私の……刀……」

葵は息を呑んだ。

「これは幼い頃、お楽の方様から頂いた刀だ」


震える手で鞘に触れ、そっと取り出す。


「まだ……残っていたのか」



紗江も、別の箱を開ける。

中には――

食器が丁寧に包まれていた。

「これ……私たちが使っていた器……」


紗江が、別の箱を見つけた。

「これは……」



桐の箱を開けると――


一冊の古い書物が入っていた。

表紙には、達筆な文字で――


『元禄美装録』

「元禄美装録……ずっと残してくれていた……」


一枚一枚をめくると、まるで昨日描いたように美しいままの絵がそこにあった。



そして――最後のページ。


そこには、みんなの筆跡で――


『葵様、紗江様』

『時を超えても、共に』

『我らの絆は、永遠に』


蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭――

全員の名前が、記されていた。


そして、その下に――

無刄の筆跡で、こう記されていた。


『松雲様の弟子となり、陰陽の道を歩むことに致しました』

『いつか……時を超えて、お二人を見守れる日が来ることを願って』



紗江は思わず息を呑んだ。


「無刄さん……陰陽師に……」


その言葉に、葵と紗江は顔を見合わせる。


「だ、大丈夫かしら……」


葵が少し考えてから、真面目な顔で言った。


「……松雲様が師匠なら、まず大丈夫だろう」


「でも……無刄さん、真面目すぎて心配……」

紗江がくすりと笑う。


「ああ……確かに」

葵も苦笑する。


「だが……それが無刄らしい」


二人はふっと笑い合い、静かな余韻が部屋に広がった。



ある夜――満月の下で


葵と紗江は、いつものように縁側に並んで腰を下ろしていた。

涼やかな風が通り、庭の草がかすかに揺れる。


「葵様……」

紗江がそっと声をかける。


「どうした?」

葵は横目で紗江を見る。どこか柔らかい。


紗江は、少しだけ着物の裾を整えながら言った。

「こうして……二人で月を見る時間が、好きだなって思って」


葵は照れくさそうに息をつく。

「私もだ。落ち着く……というのもあるが」


言葉を切ったまま、葵は視線を月へ戻す。

耳が、ほんの少し赤い。


紗江はそんな葵に気づき、くすっと笑う。

そっと肩に寄りかかると、葵はわずかに姿勢を正した。


「……重くないですか?」

「いや。むしろ……安心する」


紗江はその答えに胸が温かくなり、満月を見上げる。


「葵様と、こうして並んでいられることが……幸せです」

「……私もだ。紗江と過ごす夜は、静かで……心地いい」



ーーその時


黒猫が、ゆっくりと歩いてくる。


「……クロ?」


その毛並みは真っ黒で、目は金色に光っている。


「クロ……本当に、あなたなの……?」

紗江の頬を、涙が静かに伝う。


(無刄が……陰陽師の弟子になった、と……)

葵の脳裏によみがえる。


(もしや……このクロは……)


そっと夜風が吹き抜け、庭の草を揺らした。

その風に乗って、どこか遠くから――


笛の音が聞こえたような気がした。

無刄が吹いていた、あの優しい音色に……。


葵と紗江は、同時に夜空を見上げる。


満月が静かに輝き、世界を淡い光で包んでいた。


「……みんなに、見守られている気がいたします」

紗江がそっと呟く。


クロが「ニャア」と静かに鳴いた。

まるで、その言葉に答えるように――。







         ー完ー

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元禄美装録 月音 @tsukishimamomo

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