第三章 其ノ七 時の綻びと代償

時の綻びと代償


澄月庵――異変の朝

葵が目を覚ますと――世界が、おかしかった。

窓の外を見ると、雨が普通に降る場所と、逆さまに降る場所が混在している。

「……何だ、これは」

葵が立ち上がろうとすると、足元の畳が波打った。

まるで水面のように。

障子を開けると、庭が――

春夏秋冬が、同時に存在していた。

桜が咲き、向日葵が咲き、紅葉が散り、雪が積もっている。

「葵様!」

紗江が駆けつける。

「これ……どういうことですか」

「分からない……」

葵が庭に降りる。

その瞬間――

葵の体が、大きく透けた。

「葵様!」

紗江が叫ぶ。

葵の姿が、まるで水彩画が滲むように揺らいでいる。

「くっ……」

葵が膝をつく。

「葵様!しっかりしてください!」

紗江が葵を支える。

その時――

松雲が飛び出してきた。

「葵……!」

「松雲様……これは……」

「時の歪みが……限界を迎えた」

松雲の顔が、青ざめている。

「わしの禁呪が……崩壊し始めておる」

「崩壊……」

紗江が息を呑む。

「葵は……未来から呼び寄せられた存在」

松雲が震える声で続ける。

「その術が崩れれば……葵は、消える」

「消える……?」


「消えた後、どこへ行くのか……わしにも分からぬ」

松雲が俯く。

「時空の狭間に……飲まれるやもしれぬ」


紗江の顔から血の気が引いた。

「そんな……」


仲間たちの集結

異変を感じ取り、仲間たちが次々と澄月庵に集まってきた。

「葵様!」

蒼馬が門を開けて飛び込んでくる。

「街全体がおかしい!時間が……めちゃくちゃです!」

「葵様の体が……」

紗江が涙声で言う。

「消えかけてるんです……」

「何だと……!」

蓮が駆け寄る。

「どういうことだ、松雲様!」

隼人、無刃、お蘭も到着する。

「説明してくれよ!」

隼人が叫ぶ。

松雲が、深く息をついた。

「……わしの禁呪の代償じゃ」

「代償……?」

「葵を未来から呼び寄せたこと……それは、時の流れを歪めること」

松雲が俯く。

「その歪みが、今、限界を迎えた」

「じゃあ、どうすれば……!」

お蘭が問う。

「術を……正常に戻すしかない」

松雲が葵を見つめる。 


松雲が苦渋の表情で言う。

「葵を……時の狭間に封印するしかない」

「……」

全員が息を呑んだ。

「それは……」

蒼馬が震える声で言う。

「葵様を……封印」


「封印ってなんだよ……」

蓮が震える声で問う。


「葵を時の流れから切り離し……」

松雲が目を伏せる。

「この世界から……消すこと……」


空の裂け目

その時――

轟音と共に、空が裂けた。

「何だ……!」

みんなが空を見上げる。

巨大な亀裂が、空に走っている。

その裂け目から、光が溢れ出し――

時の渦が、現れた。

「時空の裂け目……!」

松雲が叫ぶ。

「このままでは……江戸全体が、時の狭間に飲まれる!」

「江戸が……消える……?」

無刃が呟く。

「そうだ……」

松雲が頷く。

「何万という人々が……この世界が消える」

「そんな……」

お蘭が震える。

葵が、ゆっくりと立ち上がった。

体は透け、足元が定まらない。

だが、その目には――強い決意が宿っていた。

「……分かった」

「葵様……?」

紗江が顔を上げる。

「松雲様……私を封印してください」

「葵様……!」

蒼馬が叫ぶ。

「待って下さい!他に方法が……」

「ない」

葵が首を振る。

「松雲様の言う通りだ」

「私が消えれば……江戸は救われる」

「そんな……」

蓮が拳を握りしめる。

「お前だけ犠牲になんて……!」

「犠牲じゃない」

葵が微笑む。

「私は……この江戸を、愛してる」

「ここで出会った、みんなを愛してる」

葵がみんなを見回す。

「だから……守りたい」

「葵……」

隼人が歯を食いしばる。

「俺たちも……お前を守りたいんだ……」

「ありがとう」

葵が静かに言う。

「でも……これは、私が決めたことだ」

紗江の叫び

「嫌です……!」

紗江が叫んだ。

「葵様だけ……そんなの……」

紗江が葵にしがみつく。

「私……葵様と一緒にいたい……」

「離れたくありません……」

涙が止まらない。

葵が、紗江を抱きしめた。

「紗江……」

「葵様……」

「お前は……生きろ」

葵が優しく言う。

「私がいなくなっても……お前は生きて」

「そんな……できません……」

「できる」

葵が紗江の顔を両手で包む。

「お前は強い」

「お前には……やりたいことがある」

「夢がある」

葵が微笑む。

「それを……叶えてくれ」

「葵様……」

「それが……俺の願いだ」

紗江は、もう何も言えなかった。

ただ、葵の胸で泣いた。

仲間たちの決意

「……待て」

蓮が前に出る。

「俺たちで……何とかできないのか」

「蓮……」

「葵を守る方法が……他にあるはずだ」

蓮が松雲を見つめる。

「ないのか……!」

松雲は、しばらく黙っていた。

やがて、静かに首を振る。

「……ない」

「くそっ……!」

無刃が地面を叩く。

「なら……」

蓮が立ち上がる。

「俺たちも一緒に封印しろ」

「……?」

「……葵を、一人には出来ない」

蓮が真剣な目で言う。


「……無理だ」

松雲が首を振る。

「時の力は……人の力では抗えぬ」

「やってみなきゃ分からねえだろ!」

隼人が叫ぶ。

「俺たちは……葵を守るって決めたんだ!」

「…」

無刃が頷く。

「我らは……仲間!」

「仲間を……見捨てるわけにはいかない」

お蘭が涙を拭う。

「私たちで……葵様を守りましょう」

葵は、みんなを見つめた。

「……みんな」

「そうだ」

蒼馬が笑う。

「みんな一緒だ、俺たちの仲間だからな」

「簡単に……手放すかよ」

涙が、葵の頬を伝った。

「ありがとう……みんな」



松雲が封印の呪文を唱えると

時の渦が、空の裂け目から、光の塊となって降りてくる。


それは、葵を呼んでいるかのように。


「やああああ……!」

悲鳴のような声で松雲が呪文を叫ぶ。


光の渦が、葵を包み始める。

「くっ……」

葵の体が浮き上がる。

「葵!」

蒼馬が葵の腕を掴む。

「離すな!」

蓮が反対側の腕を掴む。

「葵様!」

紗江が葵の腰にしがみつく。

隼人が葵の足を掴み、無刃が結界を張る。

「封じる……!」

呪符が光り、葵の周りに結界が広がる。


光の渦は、止まらない。

「くそ……!」

蒼馬が歯を食いしばる。

「力が……抜けていく……」

蓮の手が、震える。

「嫌だ……」

無刃の呪符が、一枚ずつ燃えていく。

「葵様……!」

紗江が必死にしがみつく。

だが、その手が――

少しずつ、離れていく。

「みんな……」

葵が静かに言う。

「もう……いい」

「葵……!」

「ありがとう……」

葵が微笑む。

「でも……これ以上は、危険だ」

「お前たちまで……巻き込まれる」

「構うか!」

蒼馬が叫ぶ。

「葵様を失うくらいなら……!」

「蒼馬……」

葵が蒼馬の手に触れる。

「お前は……私の親友だ」

「葵様……」

「だから……私の願いを聞いてくれ」

葵が静かに言う。

「離してくれ……」

「そんな……」

蒼馬の目から、涙がこぼれる。

「嫌だ……離したく、ない……」

「頼む……」

葵の声が、優しく響く。

蒼馬の手が――

ゆっくりと、離れた。

一人一人との別れ

「蓮」

「……葵様」

「お前には……いつも元気と勇気をもらった」

葵が微笑む。

「これからも……みんなを支えてくれ」

「……ああ」

蓮が頷く。

涙を堪えながら。

「隼人」

「葵さま……」

「お前の明るさに……何度も救われた」

葵が笑う。

「その笑顔を……忘れるな」

「……分かった」

隼人が拳で涙を拭う。


「無刃」

「葵殿……」

「お前の静かな強さが……好きだった」

葵が頷く。

「これからも……その強さで、みんなを守ってくれ」

「……はい」

無刃が深く頭を下げる。

「お蘭」

「葵様……」

「お前は優しい……」

葵が微笑む。

「これからも……その優しさを、忘れないでくれ」

「……はい」

お蘭が涙を流しながら頷く。


そして――

「紗江……」

「葵様……」


紗江が、葵にしがみついている。

「離したく……ありません……」

「紗江……」

葵が紗江の髪を撫でる。

「お前と出会えて……本当に良かった」

「私も……です……」

「お前は……俺の光だった」

葵が紗江を抱きしめる。

「だから……生きてくれ」

「お前の夢を……叶えてくれ」

「葵様……」

「それが……俺の、最後の願いだ」

紗江の手が――

震えながら、離れた。


「葵様……!」

紗江が叫ぶ。

「愛しています……!」

葵の目が、大きく見開かれた。

「……俺も、だ」

葵が微笑む。

「私も……愛している、紗江」

江戸のために光の渦が、葵を包み込む。

葵の体が、完全に浮き上がった。

「みんな……」

葵が最後に、みんなを見回す。

「この江戸を……頼む」

「葵……!」

みんなが叫ぶ。

「ありがとう……」

葵の声が、遠くなっていく。

「みんなと出会えて……」

「本当に……幸せだった……」

光が、一層強くなる。

「さよなら……」


その瞬間――


葵の姿が、光に包まれて消えた。


静寂

光が消えた。

空の裂け目も、閉じていた。


庭の木々は元の季節に戻り、雨も普通に降っている。

全てが、元通りになった。

だが――

葵は、いなかった。

「葵…様…」

蒼馬が、膝をついた。

「葵……!」

蓮が、地面を叩く。

「くそっ……!」

隼人が、拳を握りしめる。

「葵……」

無刃が、静かに目を閉じる。

「葵様……」

お蘭が、涙を流す。

「葵様……!」

紗江が、その場に崩れ落ちた。

「葵様……葵様……!」

涙が、止まらない。

「行かないで……お願い……」

「戻ってきて……葵様……」

紗江の叫びが、空に響いた。

松雲が、静かに目を閉じる。

「……すまぬ……」

松雲の声が、震える。

「すまぬ……葵……」

涙が、松雲の頬を伝った。

クロが、悲しそうに鳴く。

杏が、松雲の肩で涙を流す。


その夜――紗江の慟哭

紗江は、部屋で一人座っていた。

手には、葵の守り袋を握りしめている。

「……葵様」

呟きが、闇に消える。

「どうして……」

「どうして、行ってしまったんですか……」

涙が、止まらない。

「私……葵様なしでは……」


その時――

あの光る糸の布が、淡く光った。

光の中に、葵の顔が浮かび上がる。

「紗江……」

「葵様……!」

紗江が布を抱きしめる。

「葵様……会いたい……」

「俺も、だ」

葵の声が、優しく響く。

「でも……お前は生きろ」

「そんな……」

「お前には……やるべきことがある」

葵の笑顔が、光の中で揺れる。

「夢を……叶えろ」

「葵様……」

「それが……俺の願いだ」

光が、消えていく。

「待って……葵様……!」

紗江が叫ぶ。

だが、葵の姿は消えた。

紗江は、布を抱きしめて泣いた。




翌朝――松雲の決断

松雲が、紗江を呼んだ。


書斎には、仲間たちも集まっていた。

蒼馬、蓮、隼人、無刃、お蘭――

みんな、目を腫らしていた。


「……紗江殿」

松雲が静かに言う。

「クロの力は、あと一度だけしか使えない」


「その力で紗江殿を……令和に戻す」

「え……」

紗江が顔を上げる。


その場に居た全員が驚いた。


お蘭が震える声を絞り出した。

「紗江様まで……いなくなってしまうのですか」

涙が溢れる。

「ずっと……一緒でしたのに……」

「寝起きも共にして……姉妹のように……」

蓮がお蘭を支える。

蓮が苦笑する。

「分かるよ……俺なんて、一目惚れだったんだ」

蓮の目にも涙が浮かぶ。

「でも……言えなかった」


「蓮……」

無刃が静かに言う。

「実は……私も、紗江殿に想いを寄せておりました」

無刃が俯く。

「ですが……今は、紗江殿の幸せを願うのみ」

無刃も続けた。

蒼馬と隼人も涙が止まらない。


松雲が話を続ける。

「すまないが、みんな聞いてくれ」


松雲が静かに語り始める。

「実は……あの時」

松雲が一同を見回す。


「封印の術と共に、もう一つの呪文を唱えておった」


「もう一つの……呪文?」

紗江が顔を上げる。


「時を戻す術じゃ」

松雲が続ける。

「針の穴ほどの……わずかな可能性じゃが」

松雲の目に、かすかな光が宿る。

「もし成功しておれば……葵は現代に戻っておるかもしれぬ」

紗江は、しばらく黙っていた。

みんなが、固唾を呑んで見守る。

やがて、紗江が顔を上げた。


「……分かりました」

「紗江……」

「私……令和に戻ります」

紗江の目に、決意の光が宿る。

「葵様に会える可能性を……信じて」

「紗江様……」

紗江が顔を上げる。

「お蘭、ごめんなさい…」

「お二人が、幸せになるなら話は別です。

笑って見送らせてください」

そういいながらも涙が、頬を伝っている。

紗江がお蘭を抱きしめた。

その後

「蒼馬…」

「蓮…」

「隼人…」

「無刃…」

紗江は、一人一人と向き合った。


「蒼馬さん……」

言葉が出ない。


「蓮……」

涙が溢れる。


「隼人……」

笑顔が歪む。


「無刃さん……」

声が震える。


伝えたい言葉が出てこない。みんなとの楽しい思い出が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。


みんなで笑った日。

一緒に食事をした日。

他愛ない話をした夜。


紗江が涙を拭う。


「おかしいなぁ……みんなの笑顔しか思い浮かばない」


「みんなのこと……絶対に忘れません」

紗江が微笑む。


「ここでの事……この澄月庵のこと……」

「ずっと……心に刻んでおきます」


「紗江……」

みんなが、もう一度紗江を抱きしめた。


江戸との別れ

庭に、光の陣が描かれた。

紗江が、その中心に立つ。

小さな荷物を持ち、クロが足元に座る。

「紗江殿……」

蒼馬が前に出る。

「お元気で」

「はい……蒼馬さんも」

紗江が微笑む。

「お前なら……大丈夫だ」

蓮が頷く。

「頑張ってね」

隼人が笑う。

「また……会えるといいな」

無刃が静かに言う。

「紗江のこと……忘れぬ」

「紗江様……」

お蘭が涙を流す。

「幸せに……なって下さいね」


「みんなも幸せになってね」


そして――

松雲が、呪文を唱え始めた。


「紗江殿……頼む」

松雲が紗江を見つめる。


「……え?」


松雲の目から、涙がこぼれる。

「頼む……」


「せめて……お主だけは、幸せになってくれ」

松雲が震える声で続ける。


「それが……葵の、最後の願いなのじゃから」

「……はい」

紗江が深く頷く。

光が、紗江を包み始める。

「さようなら……みなさん」

紗江が手を振る。

「さようなら、紗江……」

みんなが手を振り返す。



光が強くなり――

紗江は最後に、澄月庵を見渡した。


この庭で、葵様と話した夜。

この縁側で、みんなで笑った日。

この空の下で、生きた日々。


全てが、愛おしかった。


「ありがとう……」

紗江が呟く。


「江戸での日々……忘れません」



次の瞬間.紗江の姿が消えた。



ーー残された者たち

光が消えた後、みんなは静かに立っていた。


「……行ったな」

蒼馬が呟く。


「ああ……」

蓮が頷く。


しばらく、誰も何も言わなかった。


ただ、光が消えた場所を見つめている。


「……寂しくなるな」

隼人がぽつりと言った。


「ああ」

無刃が頷く。


「でも……」

お蘭が涙を拭う。


「紗江様は、きっと幸せになる」


「そうだな」

蒼馬が空を見上げる。


「二人とも……幸せになってくれ」



蒼馬がみんなを励ますように言った。


「二人はずっと……俺たちの心に生き続ける」

みんなが頷く。


空を見上げると――


雲の切れ間から、光が差していた。

まるで、葵が微笑んでいるかのように。

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