第三章 其ノ六 決戦前夜
ーー松雲の住む庵
月明かりが差し込む広間に、
松雲、葵、蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭、そして紗江が集まっていた。
松雲が地図を広げ、滝見の谷を指差す。
「まず状況を説明する」
その声に、一同の視線が地図へと集中した。
「夜鴉が、襲撃してくる」
松雲の声が静かに響く。
「今回は今までとは違う。玄斎は全国から夜鴉を集めておる」
蒼馬が眉をひそめる。
「玄斎か……」
松雲が頷く。
「玄斎は、葵を狙っておる。鴉主に迎えたいのだ」
横から蓮が口を挟む。
「柳沢が葵を徳川の後継者にしようとしているから」
「玄斎が怒ったわけか」
隼人が続ける。
「そういうことだな」
蒼馬が頷いた。
無刄が呟く。
「厄介だ……。特に黒羽――玄斎直属の精鋭、鴦牙、朧火、冥。そして全国の夜鴉が集結している。
その数、五百以上……冥の冥幻で、さらに増えて感じるだろう」
「鴦牙とは昔……」
お蘭が小さく呟く。
みんなが、お蘭を見る。
「鴦牙を知っているのか?」
蒼馬が訊く。
「ええ。同じ里にいました。……彼に騙されたことがあります」
その声には、抑えた怒りが混ざっていた。
誰も、それ以上は聞かなかった。
お蘭の表情が、すべてを物語っていた。
「鴦牙は飄々としているが、冷徹な暗殺者。油断はできない」
お蘭が続ける。
無刄も頷く。
「朧火は毒使いだ。妖艶だが容赦がない」
紗江が無刄を見つめる。
「昔の仲間と戦うのは……辛くないの?」
無刄は微笑んだ。
「ありがとう、紗江。夜鴉には“仲間”という意識はなかった。辛くはない」
蓮が大声を上げる。
「それだ!」
蒼馬が立ち上がる。
「勝因はそこだ!」
みんなが力強く頷く。
葵は仲間たちの顔を見渡した。
紗江が静かに口を開く。
「私も、みなさんと一緒に戦わせてください」
「紗江は――」
葵が驚く。
「私も役に立ちたいんです」
紗江の目は真剣だった。
「一緒に行かせてください」
無刄が紗江を見る。その目に、何か深いものが宿った。
松雲が頷く。
「紗江殿の神器なら戦える。葵を頼むぞ」
明日、暮れ六つ(午後六時)――滝見の谷で決着をつける。
翌日ーー滝見の谷
鳥も虫も鳴かない静まり返った谷に、五百の夜鴉が広がっていた。
「……来るぞ」
無刄が呟く。
次の瞬間、黒い影が四方から襲いかかってきた。
「気を抜くな!」
蒼馬が叫ぶ。
葵が紫皇刀を抜く。漆黒の刀身が、夕陽を吸い込むように光る。
「葵様!」
紗江が叫ぶ。
夜鴉の一人が、葵に向かって突進してくる。
「させるか!」
蓮が水を操る扇・翠水扇を開く。青白い水の膜が扇から溢れ出し、夜鴉の刃を受け止める。
「ありがとう、蓮!」
「こんなところで、やられないでくださいね」
「やられるはずなかろう」
蓮が翠水扇を振るう。水の奔流が渦を巻き、夜鴉を蹴り飛ばす。
「なら良かった!」
「……ああ!」
そう言いながら、葵は一振りで
十人を吹き飛ばしていた。
戦いは徐々に激しさを増した。
蒼馬が黄雷槍を構え、二人の夜鴉を相手にしている。
「……!」
槍を一閃させると、雷鳴が轟き、青白い稲妻が刃を伝って敵に襲いかかる。夜鴉が痺れて動きを止める。
隼人が木の上から飛び降り、碧風鎖を放つ。
「隙だらけだぜ!」
風を纏った鎖が、まるで生き物のように夜鴉に絡みつく。隼人が鎖を引くと、敵が宙に舞い上がり、地面に叩きつけられた。
無刄が静かに紅蓮刃を交差させる。
刃から炎が立ち上り――炎を喰らう闇が現れる。夜鴉が放った火遁の術が、紅蓮刃に吸い込まれていく。
「今だ!」
お蘭が月影の簪・橙月華を抜く。銀色に光る簪が、月光を帯びて輝く。お蘭がそれを投げると、簪は月の光の軌跡を描きながら夜鴉の急所を貫いた。
「まだまだ、来るよ!」
お蘭が叫ぶ。
その時――
四つの黒い人影が現れた。
黒羽ーーそして玄斎。
「来たか…」
蒼馬が低く呟いた。
中央に立つのは、黒装束に身を包んだ女。妖艶な笑みを浮かべている。
「久しぶりね……みんな」
朧火の声が、夜風に乗って響く。
その隣に立つのは、飄々とした雰囲気の男。
「派手にやってくれたねー」
鴦牙が軽い調子で言う。
そして――
もう一人、冷たい目をした男が立っていた。
冥だ。無言で刀を構えている。
その後ろに――
玄斎が、静かに立っていた。
「葵……」
玄斎の声が、低く響く。
無刃が顔色を変えた。
「朧火……鴦牙……」
朧火が冷たく微笑む。
「裏切り者」
「……」
無刄が焔哭の双刃を握りしめる。
鴦牙も降り立つ。
「元気にしてた、無刃?」
鴦牙が軽く言う。
だが、その目は笑っていない。
「そろそろ夜鴉に戻りたくなったんじゃないの」
「……」
無刄が静かに言う。
「戻らない」
「そう」
朧火が冷たく言う。
「なら、殺すしかないわね」
「無刄は朧火に任せるよ」
鴦牙がその場をはなれた。
ーー玄斎が葵に近づく。
蒼馬が黄雷槍を構える。
「葵様、下がってください」
「蒼馬……」
「ここは、私たちに任せてください」
蓮、隼人、お蘭が葵の前に立つ。
玄斎が笑った。
「面白い……」
玄斎が刀を抜く。
「だが、葵はいただく」
「やっぱり紗江ちゃん、捕まえなくちゃね」
鴦牙がすごい速さで紗江に近づいてきた。
「紗江!」
無刄が叫ぶ。
その瞬間――
朧火が毒粉を撒く。
紫色の煙が立ち込める。
「くっ……!」
無刄の視界が遮られる。
「紗江を狙ってる!」
無刄が叫ぶ。
鴦牙の声が聞こえた。
「おやおや、バレちゃったか」
葵の一振りで毒粉が消えた。
「紗江!」
無刄が駆け出そうとする。
だが――
朧火が無刄の前に立ちはだかった。
「私から目を離すんじゃないよ」
朧火が妖艶に笑う。
「無刄」
「朧火……」
無刄が紅蓮刃を握りしめる。
ーー冥対蓮と隼人
冥が静かに二人の前に立ちはだかった。
無言。表情も読めない。
「……こいつが冥か」
蓮が翠水扇を構える。
「蓮、気をつけて。こいつは幻影を見せる術を使う」
隼人が碧風鎖を構える。
冥が印を結ぶ。
次の瞬間――
「うわっ!」
蓮の目の前に、夜鴉が十人、二十人と現れた。
「数が多すぎる!」
「蓮、落ち着いて! それは幻影だよ!」
隼人が叫ぶ。
だが――
隼人の視界にも、無数の敵が現れ始めた。
「くそ……どれが本物だ!」
冥が冷たく微笑む。
音もなく、二人の背後に回り込む。
「危ない!」
蓮が咄嗟に翠水扇を振るう。
水の壁が冥の刃を防ぐ。
ギリギリだった。
「見えない……冥の姿が見えない!」
隼人が必死に周囲を見回す。
幻影の中に、本物の冥が紛れている。
(どうだ……どうやって見分ける!)
蓮が焦る。
その時――
蓮の脳裏に、霞ノ郷での修行が蘇った。
『幻に惑わされるな。心の目で見よ』
霞王の言葉。
「そうだ……心の目……」
蓮が目を閉じる。
「蓮! 何やってんだよ!」
隼人が叫ぶ。
だが、蓮は静かに呼吸を整える。
幻影の気配は、薄い。
だが、本物の殺気は――濃い。
「……いた」
蓮が目を開ける。
翠水扇を、左後方に向けて振るう。
「なっ!」
冥が驚く。
水の奔流が冥を襲う。
「隼人、今だ! 左後ろ!」
「了解!」
隼人が鎖を放つ。
風を纏った碧風鎖が、冥の体に絡みつく。
「くっ……」
冥がもがく。
幻影が消えていく。
「やったか……?」
だが――
冥が煙のように消えた。
「まだだ! 本体じゃない!」
再び、無数の冥が現れる。
「しつこい……!」
蓮と隼人、背中合わせになる。
「蓮、どうする!」
「もう一度……心の目で見る!」
蓮が神器・翠水扇を強く握る。
扇から青白い光が溢れ出す。
「この水は、真実を映す……」
蓮が扇を大きく振るう。
水の粒子が空中に広がり、霧のようになる。
その霧が――
本物の冥だけを浮かび上がらせた。
「見えた! 右前!」
「任せろ!」
隼人が鎖を放つ。
今度こそ、本物の冥を捉えた。
「ぐっ……」
冥が地面に倒れる。
「……お前ら、やるな」
冥が低く呟く。
「霞ノ郷で修行してきたからな」
蓮が笑う。
「もう、幻影には負けない」
隼人が碧風鎖を放つ。
冥がバタッと倒れる。
「やったな、隼人!」
蓮が隼人の肩を叩く。
「ああ!」
二人が笑い合う。
だが――
その瞬間、二人が倒したはずの冥の姿が、煙のように消えた。
「え……?」
蓮と隼人が振り返る。
遠くの木の上に、本物の冥が立っていた。
静かに二人を見下ろしている。
「……幻影、か」
蓮が呟く。
冥が小さく頷きーー
そのまま闇に消えていった。
「くそ……最後まで幻影かよ」
隼人が悔しそうに言う。
「……お前ら、まだまだだな」
冥の声が風に乗って聞こえた。
「あいつ……あんなこと言ったけど、逃げるんだな」
隼人も蓮も笑った。
ふと、二人が周囲を見回すと――
夜鴉の羽たちが、次々と倒れていた。
「え……」
蓮が目を見開く。
その中心に、蒼馬が立っていた。
雷鳴の槍・黄雷槍を構え、静かに呼吸を整えている。
「蒼馬……」
周囲には、少なくとも百人以上の夜鴉が倒れている。
「すげえ……」
隼人が呆然と呟く。
「あれが……蒼馬か……」
蒼馬の動きは、目にも止まらぬ速さだった。
雷を纏った槍が、一閃するたびに数人の敵が倒れていく。
「蒼馬! 大丈夫か!」
蓮が駆け寄る。
「ああ……」
蒼馬が静かに答える。
「まだ、来るぞ」
その言葉通り、新たな夜鴉の一団が現れた。
蒼馬の目が、鋭く光る。
次の瞬間――
蒼馬が駆け出した。
雷鳴が轟く。
青白い稲妻が、夜鴉たちを襲う。
「速い……!」
蒼馬の槍が、まるで生き物のように動く。
一撃で五人、十人と敵を薙ぎ払っていく。
わずか数分で、数十人の夜鴉が倒れた。
蒼馬が静かに立っている。
息も乱れていない。
「……凄すぎる」
二人が唖然と見つめる中、蒼馬が振り返った。
「二人とも、無事か」
「あ、ああ……」
「なら、良い。紗江殿のもとへ急ぐぞ」
蒼馬が走り出す。
蓮と隼人は、顔を見合わせた。
「……やっぱり、蒼馬は別格だな」
「ああ……俺たち、まだまだだ」
二人が頷き合い、蒼馬の後を追った。
ーーお蘭対鴦牙
お蘭が紗江の前に立ちはだかり、月影の簪・橙月華を抜いた。
「……」
「おや、お蘭ちゃん」
鴦牙が軽く笑う。
「元気にしてた?」
「私の名前を呼ぶな」
お蘭の声が、わずかに震える。
鴦牙が刀を構える。
「さて、紗江ちゃんがこっちに来てくれたら争いが終わるんだけどなぁ」
鴦牙の目が冷たく光った。
「ふざけるな!」
お蘭の目が怒りに燃えている。
「怖いなぁ。昔みたいに優しくしてくれよ」
鴦牙が挑発するように笑う。
「あの時、お前は……」
お蘭の声が震えた。
――荒れた小屋の中。
震える手で泣きながら着物を押さえる、幼いお蘭。
「大丈夫だよ、お蘭ちゃん。ここなら安全だから」
そう言って笑った鴦牙。
だが、扉が開いた瞬間――
現れたのは、里の頭だった。
「よくやった、鴦牙」
頭が醜く笑う。
「え……?」
お蘭が鴦牙を見た。
鴦牙は目を逸らした。
――
「お前は……私を騙して……」
お蘭の声が、憎しみに震える。
「……あの頭とグルになって」
鴦牙の笑みが、わずかに歪んだ。
「……悪かったね」
その声には、わずかな後悔が滲んでいた。
「でも、俺も命令に従っただけさ」
「言い訳を!」
お蘭が簪を構える。
二人の刃が、月明かりの中で交わった。
ーー無刄対朧火
「あーぁ、無刄に毒は効かないか」
朧火が妖艶に笑う。
「無刄、あなたは本当に変わったわね」
「昔は、任務のためなら何でもする冷徹な男だったのに」
無刄が紅蓮刃を交差させる。
炎が立ち上り――毒煙を焼き尽くす。
「私は……変わった」
無刄が静かに言う。
「夜鴉の掟に従うだけの日々から、解放された」
「解放?」
朧火が嘲笑う。
「裏切り者の言い訳ね」
朧火が短刀を投げる。
無刄が刃で弾く。
火花が散る。
「言い訳ではない」
無刄が前に踏み込む。
「私は……紗江に出会って、初めて生きる意味を知った」
「紗江、紗江って……うるさいんだよ」
朧火の目が冷たく光る。
「所詮、男なんてそんなものね」
朧火が高速で動く。
無刄の背後を取る。
「甘いわ、無刃!」
短刀が無刃の肩を斬る。
血が飛び散る。
「くっ……!」
「昔のあなたなら、こんな隙は見せなかった」
朧火が囁く。
「女に溺れて、腕が鈍ったのね」
「……違う」
無刄が振り返る。
その目には、迷いがなかった。
「私は……守るべきものができたから、強くなった」
無刄が双刃を振るう。
炎が朧火を包む。
「守るべきもの……?」
朧火が炎の中から飛び出す。
「笑わせないで!」
「私は……もう、戻らない。だが、朧火……おまえを殺したくない」
朧火が後退する。
「……ふん」
朧火の目に、一瞬だけ何かが過ぎった。
悲しみ、か。
寂しさ、か。
「……そう」
朧火が煙に紛れて姿を消す。
「……朧火」
無刄が呟く。
(すまない……)
ーー激戦、葵対玄斎
一方、葵は玄斎と激しく戦っていた。
黒金の太刀と玄斎の刀が激突する。
火花が散る。
「葵……」
玄斎が狂気の笑みを浮かべる。
「お前は、鴉主に相応しい男だ」
刃を交えるたびに、葵は感じていた。
(……速い)
玄斎の剣技は、想像以上だった。
夜鴉の頂点に立つ男――その実力は、伊達ではない。
「……徳川の血だと?」
「将軍候補だと?」
玄斎の目が、狂気に染まる。
「ふざけるな……!」
玄斎が突進してくる。
刃と刃がぶつかり、火花が散る。黒金の太刀が、低く唸るような音を立てる。
葵が押される。
(くっ……)
「お前は……私のものだ!」
玄斎が叫ぶ。
「柳沢の犬になど、させん!」
玄斎の刃が、葵の頬を掠める。
血が一筋、流れた。
「……」
葵が体勢を立て直す。
(玄斎の剣技は、私と互角か……それ以上かもしれない)
その時――
玄斎が印を結んだ。
「……剣だけが戦いではない」
玄斎の周囲に、黒い霧が立ち込める。
「妖術……!」
霧の中から、無数の黒い手が伸びてくる。
「葵……お前を、縛り上げる」
黒い手が、葵の体に絡みつこうとする。
「させるか!」
葵が紫皇刀を振るう。
風が起こり、霧を吹き飛ばす。
だが――
玄斎は既に、葵の背後にいた。
「遅い」
玄斎の刃が、葵の肩を斬る。
「ぐっ……!」
血が飛び散る。
「葵様!」
紗江が叫ぶ。
「紗江、来るな!」
葵が叫ぶ。
玄斎が笑う。
「どうした、葵。もう限界か?」
葵が膝をつく。
肩の傷が深い。
(まずい……)
玄斎が刀を振り上げる。
「さあ、観念しろ。お前は、夜鴉の鴉主になるのだ」
刀が、葵に向かって振り下ろされる。
だがーー
その瞬間、紗江が葵の前に飛び出した。
紗江の力の目覚め――時を縫う瑠璃天糸鏡
「葵様……!」
紗江が葵の前に飛び出す。
玄斎の刀が、紗江に向かって振り下ろされる。
「紗江!」
葵が叫ぶ。
「紗江様!」
無刄が叫ぶ。
その瞬間――
紗江が懐から瑠璃天糸鏡を取り出した。
鏡が、一瞬強く輝く。
「あっ……」
鏡から光の糸が溢れ出た。それは時の流れそのものを紡ぐかのように、空中で複雑な模様を描いていく。
糸が空中で広がり、網のようになる。
玄斎の刀が、その網に引っかかった。
「何……?」
玄斎が驚く。
刀が、動かない。
まるで時が止まったかのように。
「これは……」
紗江が瑠璃天糸鏡を見つめる。
鏡面に映るのは、玄斎の動きだけが遅くなった世界。
「時を……縫う力……?」
糸が、玄斎の体を包み込む。
玄斎の動きが、ゆっくりになる。
「くそ……何だ、これは……!」
玄斎がもがく。
「紗江……」
葵が驚いて見つめる。
無刃も、目を見開いている。
紗江の目が、淡く光っている。
「これ以上、みんなを傷つけないで……」
「葵様を……連れて行かないで……!」
紗江の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。
糸が強く光り――
次の瞬間、玄斎が吹き飛ばされた。
「ぐあっ!」
玄斎が地面に倒れる。
光が消え、紗江がその場に崩れ落ちた。瑠璃天糸鏡が手から滑り落ちる。
「紗江!」
無刄が駆け寄る。
だが――
葵の方が早かった。
「紗江!」
葵が紗江を抱きかかえる。
「大丈夫か……!」
「葵様……」
紗江が弱々しく笑う。
「守れ……ました……」
「あぁ……!」
葵が紗江を抱きしめる。
無刄が、少し離れた場所で立ち尽くしていた。
その顔には、複雑な感情が浮かんでいる。
(……紗江)
無刄の胸に、切ない痛みが走る。
(私は……ただ、あなたの幸せを願うだけ……)
撤退――残された想い
玄斎が立ち上がる。
「……くそ」
血を吐きながら、玄斎が部下たちに叫ぶ。
「撤退だ……!」
夜鴉たちが、一斉に消えていく。
静寂が戻った。
「……勝った、のか?」
蒼馬が黄雷槍を杖代わりにして、息を切らす。
「ああ……」
蓮が地面に座り込む。翠水扇を閉じると、水が静かに地面に染み込んでいった。
「何とか……な」
隼人が笑う。碧風鎖が風に溶けるように消えていく。
「みんな、無事?」
お蘭が駆け寄る。月影の簪・橙月華を髪に戻しながら。
「ああ、何とか……」
無刄が頷く。焔哭の紅蓮刃を鞘に収める。
だが、無刄の目は――
紗江を見つめていた。
葵に抱きかかえられた紗江を。
松雲が、紗江のもとに駆け寄った。
「紗江殿……」
「松雲様……」
紗江が目を開ける。
「私……何を……」
「お主の力が……目覚めたのじゃ」
松雲が静かに言う。
「時を縫う力が」
「時を……縫う……」
紗江が自分の手を見る。
まだ、かすかに光が残っている。
「これが……私の力……」
その夜――異変
戦いが終わり、みんなが澄月庵で休んでいた。
傷の手当をし、食事を取る。
「今日は、危なかったな」
隼人が言う。
「ああ。紗江がいなかったら……」
蓮が紗江を見る。
「ありがとな、紗江」
「いえ……」
紗江が首を振る。
「私も……みなさんに助けられました」
「それにしても」
隼人が言う。
「紗江の力、凄かったね」
「ああ」
無刄が頷く。
「時を操る力……恐るべき」
お蘭が、紗江の手を握った。
「でも、無理はだめですよ」
「はい……」
紗江が微笑む。
ーー葵が、縁側に座って月を見上げている。
「葵様、何をお考えですか」
蒼馬が隣に座る。
「……鴉主にも将軍にもなるつもりもない、私は何になろうかと考えておった」
葵が真剣な顔で言う。
「そうですか……。葵様が鴉主になるなら私は黒羽に、
将軍になるなら私は老中になります」
「そうか…、それならどちらも悪くないな」
蒼馬と葵が笑い合う。
「蒼馬……ありがとう」
葵が呟く。
その時――
葵の手が、一瞬だけ透けた。
「……ん?」
葵が自分の手を見る。
だが、すぐに元に戻る。
「……気のせいか」
葵が首を傾げる。
だが、胸の奥に――
何か、不安なものが芽生えていた。
ーー松雲の懸念
松雲は、護摩を焚き、何やら呪文の様な事を口ずさんでいる。
「……始まったか」
呟きが、闇に消える。
「葵の存在が……揺らぎ始めた」
松雲が窓の外を見る。
月が、静かに光っている。
「時の歪みが……限界に近づいておる」
「このままで……」
松雲が目を閉じる。
「葵を……時空の狭間に……戻さねば……」
杏が現れた。
「松雲様……」
杏が静かに言う。
「葵様を時空の狭間に戻さないと、この世界が滅びます」
「杏……分かっておる、分かってはいるが……」
松雲が杏を撫でる。
「……止められぬ、わしの禁呪の代償……」
松雲の声が震える。
「ついに、払う時が来たか……」
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