第三章 其ノ五 柳沢の変
――柳沢邸
松雲は、密かに柳沢邸を訪れた。
書院で、柳沢吉保が待っていた。
「松雲殿……夜分に珍しい。何かあったか」
「お話ししたいことがございます」
松雲が深く頭を下げる。
「葵のことです」
柳沢が眉をひそめる。
「葵……あの者がどうした」
松雲が顔を上げる。
「葵は、徳川の血を引く者なのです」
柳沢の目が見開かれた。
「何……?」
「遥か未来より、時を超える術にてこの時代に呼び寄せたのです」
松雲が静かに語る。
「葵は、徳川家の正統な血筋……」
柳沢が席を立つ。
「何と!」
柳沢の声が響く。
「それほどのことを……なぜ今まで黙っておった!」
柳沢の声が響き渡る。
だが、すぐに我に返ったように、しばらく黙って松雲を見つめた。
やがて、深く息をつく。
「……時を超える術とな」
「にわかには信じがたい話だが……」
柳沢が鋭い目で松雲を見る。
「お主ならば……それができよう」
「はい」
松雲が頷く。
「ならば……」
柳沢の目つきが変わる。
「葵殿……いや」
柳沢が姿勢を正す。
「葵様には、ぜひとも徳川の家督を継いでいただかねばならぬ」
「……」
「徳川の血を引く者が、この江戸に現れた」
柳沢の目が鋭く光る。
「これは……将軍家にとって、いや、徳川にとっての希望ぞ」
「ですが、柳沢様……」
松雲が言いかける。
「葵には、家督を継ぐ意思は……」
だが、柳沢の耳にその声は届いていない。
柳沢が立ち上がり、鋭く言い放つ。
「葵様に護衛をつけよ!」
「葵様を守れ!」
柳沢の声が更に高まる。
「次期将軍候補ぞ!」
柳沢が襖に向かって声を張る。
「夜鴉!」
襖の向こうから、静かな気配が応える。
「命ずる。葵様を護衛せよ」
「……御意」
柳沢が松雲を見る。
「松雲殿、今後は葵様を……将軍候補としてお守りいただきたい」
松雲は、何も言えなかった。
(これで……葵は)
(将軍候補として、扱われることに……)
松雲が深く頭を下げる。
(葵よ……すまない)
――夜鴉の本拠地
「玄斎殿」
使者が巻物を差し出す。
「柳沢様よりの命である」
玄斎が巻物を受け取り、開く。
そこには、簡潔に記されていた。
――葵様を護衛せよ――
玄斎の顔が強張る。
「……葵様を、守れ、だと?」
玄斎の目が見開かれる。
「……『葵様』だと?」
玄斎の顔色が変わる。
「どういう意味だ!」
使者が淡々と答える。
「その通り。葵様は、徳川の血を引く正統な御方」
使者が玄斎を見る。
「柳沢様は、葵様の護衛を夜鴉に命じられた」
「以上だ」
使者が踵を返す。
使者が去った後、玄斎は一人残された。
「……くそ」
拳を強く握りしめる。
「葵は、夜鴉の……」
玄斎が壁を激しく叩く。
壁に亀裂が走る。
「徳川の血を引く、だと……?」
玄斎の目が、憎悪に燃える。
「あれほどの男を……将軍などにするのは惜しい!」
「夜鴉にこそ……相応しい男なのに……!」
玄斎がもう一度、壁を叩いた。
「くそっ……!」
玄斎の目が、暗い憎悪に燃えている。
窓の外では、秋の虫が静かに鳴いていた。
その音が、玄斎の怒りとは対照的に、穏やかに響いている。
――澄月庵、道場
葵は、道場で毎朝の日課である素振りをしていた。
汗が額を伝い、息が荒くなる。
その時、
「葵様」
背後から、蒼馬の声がした。
「蒼馬か……どうした」
振り向くと、蒼馬が真剣な顔で立っていた。
「お話があります」
「……何だ?」
蒼馬が一歩近づく。
「昨夜、松雲様が柳沢様のお屋敷に行かれました」
葵の動きが止まった。
「柳沢……?」
「はい。葵様のことを、お話しされたようです」
「……何!」
「葵様が……徳川の血を引く者だということを」
葵の顔が強張った。
「なぜ、そんなことを……!」
「松雲様は……葵様を守るためだと」
蒼馬が葵を見つめる。
「柳沢様が葵様の命を狙う理由がなくなるからと……」
「待て」
葵が話を遮る。
「俺は、そんなこと頼んでいない」
「葵様……」
「俺はただ、ここで今まで通り、静かに暮らしたい」
葵が刀を置く。
「徳川の血だの、将軍だの……そんなもの、俺には関係ない」
「ですが……」
「蒼馬――」
葵が蒼馬の肩に手を置いた。
「俺は、お前やみんなと一緒に、ここで生きていきたい」
「それだけだ」
蒼馬は、何も言えなかった。
ただ、葵の目を見つめていた。
ーーその時
「葵様」
障子の向こうから、絹の声がした。
「お客様です」
「……客?」
葵と蒼馬が顔を見合わせる。
ーー座敷にて
葵が部屋に入ると、そこには見知らぬ男が二人、姿勢を正して正座していた。
黒い着物、腰には刀。鋭い目つき。
武士――それも、ただの武士ではない。
「……どちら様だ」
葵が警戒しながら尋ねる。
「失礼仕ります」
男の一人が頭を下げる。
「我々は、柳沢様の命により参上いたしました」
「柳沢……」
「柳沢様より、葵様をお守りするよう仰せつかりました」
「守る……?」
葵が眉をひそめる。
「俺を守る必要などない」
「いえ、ございます」
男が静かに首を振る。
「葵様は、いずれ将軍になられる御方、必ず守れとの仰せでございます」
「……」
「今後、我々は常に葵様のおそばに控えさせて頂きます」
男が真剣な眼差しで続ける。
「ご安心ください、影のようにお守りいたします」
葵は、何も言えなかった。
(……これが、柳沢の考えか)
拳を握りしめる。
葵は、しばらく黙っていた。
(……断ることは、できまい)
葵が深く息をつく。
「……分かった」
葵が静かに言う。
「だが、邪魔はするな」
「私は普段通りに過ごさせてもらう」
「承知しております」
男が深く頭を下げた。
――葵の決意
葵は、縁側に座り、酒を飲んでいた。
「……やっかいなことになった」
呟きが、夜に消えていく。
背後から、松雲の声がした。
「葵……すまない」
「……いえ」
葵が振り向く。
「松雲様が、私を守ろうとしてくださった」
葵が静かに微笑む。
「それは……よく分かっています」
「だが……」
松雲が葵の隣に座る。
「お主を、政の渦に巻き込んでしまった」
「……」
「許してくれ」
葵は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに笑った。
「松雲様」
「……何だ」
「自分の運命は……自分でなんとかいたします」
松雲が目を見開く。
「だから……」
葵が松雲に向き直る。
「松雲様は……ただ、見守っていてください」
松雲は、何も言えなかった。
ただ、大人になった葵の横顔を見つめていた。
――翌朝
葵と紗江が町を歩く。
その後ろを、黒い着物の二人が静かについてくる。
距離は五間ほど。近すぎず、遠すぎず。
「……すまない紗江……落ち着かないな」
葵が小声で呟く。
「夜鴉の監視に比べたら、何ということはありません」
紗江も同じように小声で答える。
後ろからの視線を感じる。
守られているのか、監視されているのか。
「紗江……次の角に入ったら走るぞ!」
紗江が葵の横顔を見る。
「それは……楽しそうですね」
次の角を曲がった瞬間――
二人は駆け出した。
「待たれよ!」
後ろから護衛の声が聞こえる。
だが、二人はすでに人混みに紛れていた。
「……撒けましたね」
紗江が息を整える。
「ああ」
葵が笑う。
「久しぶりに、自由な気分だ」
護衛を撒いた二人は、久しぶりの町歩きを楽しんだ。
――江戸城の暗闘
早朝、まだ薄暗い廊下を、柳沢吉保が歩いていた。
足音を殺し、しかし確かな威圧感を纏いながら
「柳沢殿」
背後から声がかかる。
振り向くと、老中の一人――阿部正武が立っていた。
阿部正武――老中の一人でありながら、柳沢とは対立関係にある。
権力の均衡を保とうとする現実主義者。
年の頃は五十過ぎ。鋭い眼光を持つ男だ。
「阿部殿……こんな早朝に」
「お主こそ、こんな早朝に何用か」
阿部が柳沢を見据える。
「将軍様にお目通りか?」
柳沢は静かに頷く。
「ええ。重要な案件がございまして」
「……重要な案件、か」
阿部の目が一層鋭くなる。
「まさか……」
阿部が声を潜める。
「例の噂は、本当なのか」
柳沢が何食わぬ顔で返す。
「噂? さて、何のことやら」
「とぼけるな」
阿部が一歩詰め寄る。
「徳川の血を引く者が、江戸に現れたという噂だ」
柳沢の表情に、わずかな動揺が走る。
「……誰から聞いた」
柳沢の声が、低くなる。
「噂は噂よ」
阿部が冷笑する。
「だが……お主がこうして動いているということは」
阿部が更に一歩、近づく。
「本当、なのだな?」
廊下に、緊張が走る。
柳沢は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「阿部殿」
柳沢が静かに言う。
「今はまだ……何も申し上げられませぬ」
「柳沢殿……」
阿部の目が険しくなる。
「だが――」
柳沢が阿部を真っ直ぐ見つめる。
「もし、仮に……そのような者がいたとすれば」
柳沢の声が、重くなる。
「それは江戸にとって希望となるか……」
「それとも……」
阿部が、柳沢の言葉を継ぐ。
「……混乱の種と、なりますな」
二人の視線が、空中で交錯する。
柳沢は何も答えず、ただ静かに――
将軍の間へと歩を進めた。
阿部は、その背中をじっと見つめていた。
目には、深い疑念の色が浮かんでいる。
(柳沢……お主、何を企んでいる)
廊下に、重い沈黙だけが残った。
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