第三章 其ノ四 葵の両親

縁側の夜――紗江の語りかけ


葵は、縁側に座り、刀を磨いていた。

そこへ、紗江が静かに近づいてくる。


「……松雲様から、お話があったかと思いますが」

「ああ……徳川の血を引いていると」

葵が小さく頷く。


「……私の、葵様にもう一つ、お伝えしたいことがございます」

「……?」

葵が顔を上げる。

紗江が、葵の隣に座る。

「実は、葵様のご両親が

未来でご健在でございました。」


葵が驚いたようにハッとした。

「……自分のことばかりで」

葵が目を伏せる。

「父上と母上のことを……考えもしなかった」

葵が小さく息をつく。

「そうか……ご健在であられるか」

「……良かった」


葵は続けた。


「しかし……私は江戸で生きると決めている」

葵が刀を見つめる。

「お二人には……会えぬ」


二人、しばらく黙って月を見上げていた。

やがて、紗江が――誰に言うでもなく、月に語りかけるように、静かに話し始めた。

「……葵様」

紗江の声が、夜に溶けていく。

「人の命には……限りがあります」

「……」

「いつ散ってしまうか……分からないんです」

紗江が月を見つめる。

「私は……両親に会いたくても、会えません」

紗江の声が、わずかに震える。

「もう…いないのですから」

葵が、紗江を見つめる。

「紗江……」

紗江が静かに続ける。

「葵様のご両親は、今も生きておられます」

「……」

「もし……こちらでの生活をお望みなら」

紗江が葵を見ずに、ただ月に語りかける。

「名乗らなくても……一目だけでも」

「令和のご両親を……一目、見に行かれませんか」

紗江の目から、涙が一筋こぼれた。


「私は……孤児院で育ちました」

紗江が静かに語る。

「両親の顔も、声も……覚えていません」

「だから……」

紗江が葵を見る。

「会えるのに会わないなんて……もったいないです」

「葵様に……後悔してほしくないんです」


葵は、何も言えなかった。

ただ、紗江の横顔を見つめていた。

月明かりに照らされた紗江の顔。

涙が、静かに頬を伝っている。

葵が、そっと紗江の肩に手を置いた。

「……紗江」

「はい……」

「そうだな」

葵が静かに言う。

「お前の言う通りだ」

「……」


葵が紗江を見つめる。

「紗江……一緒に来てくれるか」

その声はとても温かかった。


葵が少し笑う。

「お前が傍にいてくれたら……心強い」

「……はい」

紗江が頷く。


「令和は、こちらとは勝手が違いますから」

紗江が少し微笑む。

「道案内は、お任せください」


「ありがとう、紗江」


翌朝――松雲の書斎

葵と紗江が、松雲の前に座っていた。

「松雲様……」

葵が口を開く。

「私は……令和の時代に行って来ます」

松雲が目を見開く。

「葵……」

「両親を……影ながらでかまわない」

葵が真っ直ぐ松雲を見つめる。


「……名乗るつもりはありません」

葵が静かに続ける。

「あちらに戻るつもりは、ないのですから」

「ただ……元気な姿を、この目で見たいのです」

葵の目が、わずかに潤む。

「それだけで……十分です」

松雲は、しばらく黙っていた。

やがて、静かに頷く。

「……分かった」

松雲がクロを抱き上げる。

「紗江、葵を頼む」

「はい」

紗江が頷く。

「必ず、無事に連れて帰ります」

松雲が微笑む。

松雲が二人を見つめる。

「二人とも……気をつけてな」

「必ず、戻ってくるのだぞ」


令和へ――両親との再会

紗江とクロ、そして葵が、令和へと向かう。

光が二人とクロを包む。



次の瞬間――


令和の街に、二人は立っていた。


「……これが、令和か」

葵が辺りを見回す。


一瞬、刀の柄に手をかけかけたが——すぐに我に返る。

ここは戦場ではない。だが、見るもの全てが未知だった。


轟音を立てて走る鉄の馬車くるま。

天を突くような高い建物――江戸の何倍もの高さだ。

夜でもないのに、そこかしこで光る文字。まるで魔法のようだ。


「……まるで、別の国のようだ」

葵が呟く。


目を見開き、驚きを隠せない様子だ。


「いえ、別の"時代"です」

紗江が優しく微笑む。


「葵様、こちらです。そんなに厳しい目で見ていると、怪しまれてしまいます」


「江戸とは……まったく違う」

葵が呟く。


「葵様、こちらです」

紗江が葵の手を引く。


二人が歩いていくと――

ある大きな一軒家の前に辿り着いた。

立派な門構え、広い庭。


「……ここが」

「はい。葵様のご両親が住んでいる家です」

紗江が静かに言う。

葵は、家を見つめた。


(……この中に、俺の両親が)

胸が高鳴る。

その時――

玄関が開いた。


犬のリードを持った女性が現れる。


年の頃は四十代ほどだろうか。

優しそうな顔立ち、柔らかな笑顔。


葵の胸が、強く跳ねた。


そして、その後ろから――

一人の男性が出てくる。


穏やかな表情、温かな雰囲気。

葵の息が止まった。


(……あれが、私の……)

涙が溢れてくる。


女性が犬を撫でながら、夫に語りかける。


「……ね、あなた。今日は蒼の誕生日だったわ」

男性が優しく頷く。


「ああ……もう二十二歳か」

「どこで……何をしているのかしら」

女性の声が、わずかに震える。


「きっと……元気でいるよ」

男性が妻の肩を抱く。

「あの子は、強い子だから」


葵は、その会話を聞いて――

胸が張り裂けそうになった。


「……母上……父上……」

葵が呟く。

涙が止まらない。


「二人とも……お元気そうで……」

紗江が葵の手を握る。

「はい……」 


葵は、ただ両親を見つめていた。

名乗ることはしない。

ただ、元気な姿を見るだけでいい。

それだけで、十分だった。


やがて、両親が家に戻っていく。

葵は、深く息をついた。

「……ありがとう、紗江」

「いえ……」

「私は……両親が元気だと分かった」

葵が涙を拭う。


「二人とも……笑っていた」

「それだけで……十分だ」

葵が紗江を見つめる。

「本当に、来てよかった」

「葵様……」


葵が深く息をつく。

「さあ……帰ろう」

葵が紗江の手を取る。

「みんなが、待っている」

紗江が頷く。

「はい」


二人が、クロに触れる。

「クロノス」

光が二人を包んだ。



江戸――澄月庵

光が消え、二人が戻ってきた。


松雲が待っていた。

「葵……」


「ただいま戻りました、松雲様」

葵が深く一礼する。


「両親は……」

葵の目が潤む。


「元気でした。二人とも……笑っておられました」

松雲が安堵の息をつく。

「……よかった」

「ありがとうございます、松雲様」

葵が深く頭を下げる。


「私は……ここで生きていきます」

「ここが、俺の居場所ですから」

松雲が葵の肩に手を置いた。


「……すまない、葵」

松雲の声が震える。

「そして、帰って来てくれて……ありがとう」

「いえ……私こそ」


葵が松雲を見つめる。

「松雲様がいてくださったから……今の私があります」


松雲が葵の肩を抱く。

葵も、松雲に抱きつく。


師弟の、そして父子のような――静かな抱擁。


紗江は少し離れた場所で、その光景を静かに見守っていた。

頬を伝う涙を拭うこともせず、ただ優しく微笑んでいた。


(良かった……)

(本当に……良かった)

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