第三章 其ノ三 松雲の願い―時を超える依頼


――夜の書斎


揺れる行灯の灯りと、静かな雨音だけがあった。

松雲は、一通の文を前に座っていた。

だが、筆は止まったまま。何も手につかぬ様子だった。



松雲が迷っていると、障子の向こうから松雲の式神、杏の声がした。

「松雲様、紗江様が参りました」


「よく来てくれた……入りなさい」

障子が開き、紗江が入ってくる。

「お呼びでしょうか」


「……」

紗江が松雲の前に座る。


松雲は、紗江の顔を見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「紗江殿……ひとつ、お頼みたいことが……」


紗江は少し驚き、しかし静かに頷いた。

「はい。何でしょうか」


松雲は目を伏せた。

「紗江殿もご存知の通り……葵は私の禁呪によって呼び寄せた」

「はい」

「されど……」

松雲が言葉を詰まらせる。


「私には、確信が持てぬ」

「……確信?」

「葵が……本当に徳川の血を引く子孫なのか」

紗江の目が大きく見開かれる。

「え……」


「私は、お楽の方様には『徳川の血を引く者』と告げた」

松雲が苦しそうに言う。

「だが……術は確かに発動したが、その子が本当に徳川の血筋なのか、確かめる術はなかった」

「……」

「江戸の時代では、確認のしようがない」

松雲が紗江を見つめる。

「だから……紗江殿に頼みたい」

「私に……?」

「……」

松雲が深く息を吸う。

「葵が、本当に徳川の血を引く子孫かどうか、調べてほしい」


紗江は息を呑んだ。

「私に出来ますか……?」


「葵は平成という時代から来たようだ」

松雲が静かに言う。

「平成……ですか?」

「葵が現れた時、これを握りしめていた」

そう言って桐の箱から一枚のカードを出し、紗江に渡す。

紗江がカードを見つめる。


小石川病院 診察券

生年月日: 平成15年(2003年)7月14日

氏名: 徳川 蒼


(徳川……本当に、徳川の名が……)

紗江が息を呑む。

「紗江殿なら、私の式クロの力を借りて、時を超えられる」

松雲が真剣な眼差しで続ける。


「クロに触れ、『クロノス』と唱える」

「そうすれば、紗江殿の時代に戻ることができる」

「どうだろう?」


紗江は、しばらく黙っていた。

やがて、静かに頷く。

「……分かりました、松雲様。調べてきます」

松雲はゆっくりと頷き、瞳に淡い光を宿した。

「ありがとう……紗江殿」

松雲が深く頭を下げる。

「どうか、頼む」

その声は、わずかに震えていた。



――時を超える儀式


書斎に静寂が満ちる。

雨音が障子を打ち、揺れる行灯の灯りが壁に不規則な影を落とす。

紗江は深呼吸し、クロの背中にそっと手を置いた。

毛並みに触れると、クロの瞳が青白く光り、静かに低く鳴いた。


「……クロノス」


声を震わせ、しかし確かな決意を込めて。

その瞬間、室内の空気が微かに振動した。

風も音も消え、まるで時そのものがゆっくりと歪むように感じられる。


紗江の周囲に淡い光の渦が現れる。

クロの体からも光が漂い、部屋中の影を吸い込むように渦巻く。クロの目が金色に光った瞬間、行灯の炎が一斉に揺れ、闇と光が交錯した。


「……これが、時を超える力……」

紗江は手を握り、気を引き締める。

渦の中心に意識を集中させると、視界が急に白く染まり、床も壁も消えていく。

風がなく、音もない。

しかし身体は確かに浮き、時の流れの裂け目に飲み込まれていく感覚。


数秒とも、数刻とも分からぬ時を経て、紗江の視界に見慣れた景色が広がった。



――令和の街


光が消え、紗江の足が地面を踏みしめる。

そこは令和の街。

車の音、人々の話し声、街灯の光――


「……帰って、来た……」

紗江は立ち尽くす。

見慣れたはずの景色が、今は不思議なほど新鮮に映る。

(ほんの少し前まで、ここで暮らしていたはずなのに)

コンビニの看板、自動販売機の光、スマートフォンを見つめる人々。


(江戸での日々が……夢だったみたい)

だが、手に握られた診察券と、足元で静かに佇むクロが、それが現実であることを告げている。


「クロ、とても久しぶりなのに……不思議と遠い昔のような気がする」

クロが小さく鳴いて、紗江の足元に寄り添う。

(でも……今は、葵様のために)


紗江は深く息を吸い込み、歩き出す。

「まずは、二十年前に行方不明の子供がいたか……確かめてみよう」



――図書館での調査


令和の街を歩きながら、紗江は心を落ち着ける。

クロは、静かに歩調を合わせる。

街の騒音や車の排気、電子掲示板の光が眩しい。


紗江は目的の図書館に到着する。

重厚な木の扉を押し開けると、静かな空間が広がった。

本棚の匂い、紙の手触り、遠くで響くページをめくる音。

紗江は小さく息を吸い込み、足を進める。


「……ここなら……」

当時の新聞はマイクロフィルムで保存されており、機械にセットして拡大する。

紗江の指先が震える。


2006年7月15日付 朝刊

紗江の目に、小さな記事が飛び込んできた。

【行方不明】

徳川家末裔の男児、都内で行方不明

徳川蒼君(3)が14日午後、

自宅付近で行方不明に。

Tシャツに短パン姿。

背中に蝶のような痣。


紗江の胸が一瞬、強く跳ねる。


二十年前――禁呪で呼び寄せたあの幼子。

年齢も、時期も、全て一致する。

紗江は記憶をたどる。

(……確か、葵様の背中には……蝶のような痣が……)

「……間違いない、葵様だ」

クロが静かに寄り添い、低く喉を鳴らす。

紗江は深く息をつき、決意を固める。

「松雲様に……葵様のこと、伝えなければ……」 


「その前にもう一つ大切なこと、確かめに行くから、付き合ってね、クロ」


――診察券の住所へ


診察券の住所に向かう。

澄月庵よりも広い敷地、周りを塀で囲まれ、中の様子が全く見えない。

そこへ、ご近所の方であろう、初老の品の良い女性が通りかかった。

「すみません、ちょっとお伺いしてもよろしいですか? 徳川蒼君のご両親はご健在ですか?」

不審な顔をされたので、

「実は……診察券を拾いまして、お届けしようと思ったのですが」

紗江は診察券を取り出して見せた。

女性の表情が曇る。

「まあ……蒼君の……」

女性が静かに首を振る。

「あの子は……二十年前に行方不明になって……」

「ご両親はご健在ですが……」


女性の目が遠くを見つめる。

「最近、やっと……お二人とも笑顔を取り戻されたばかりなの」


「その診察券を届けるのは……やめてあげて」

「また、あの日のことを思い出してしまうから」


紗江は胸が痛んだ。


「……分かりました。ありがとうございます」


紗江は深く頭を下げた。


そう伝えると、紗江は人の居ない場所を探した。



――帰還


紗江は人気のない路地に入り、クロを抱き上げた。

「クロ、江戸へ帰ろう」

その毛並みに手を置き、静かに唱える。

「……クロノス」


光が淡く揺れ、再び江戸の書斎に戻る。

松雲の書斎に強い光が差し、紗江が現れた。

「松雲様……」

紗江が息を整える。

松雲が真剣な顔で紗江を見つめる。

「……どうであった?」

「葵様は……徳川の血を引いていました」

松雲の目が見開かれた。


「本当か……!」

「はい」

紗江が頷く。

「二十年前の新聞に、徳川の末裔のお子様が行方不明になった記事がありました」

「年齢も、時期も、全て一致しています」

「そして……」

紗江が静かに言う。


「その時、着ていた物も、葵様の背中にある、蝶のような痣も一緒です」

松雲は、しばらく何も言えなかった。

やがて、深く息をついた。

「……そうか」

「松雲様……」

「葵にも……伝えねばならぬな」

松雲が立ち上がる。


「あの子は、ずっと不安だったであろう」

「自分が何者なのか、分からぬまま生きてきた」

「だが、やっと――あの子に、真実を伝えられる」

「はい」



――真実を告げる夜


その夜――澄月庵。

葵は、縁側に座り、月を見上げていた。

「葵」

背後から、松雲の声がした。

「松雲様……」

葵が振り向く。

松雲が隣に座る。

「話を聞いてくれるか」


「……はい」

葵が深く息をつく。


「あれから、ずっと部屋で考えていました。怒りも、悲しみも、まだ消えてはいません」

少し俯いてから、顔を上げる。

「でも……松雲様が私を育ててくださったことも、また真実ですから」


松雲が、静かに口を開く。

「葵がずっと、自分が何者か分からず不安だったと思っておった。確信が持てず伝えられなかった」


「紗江殿が、未来に行き、調べて来てくれた」

松雲が葵を見つめる。


「葵は、間違いなく徳川家の末裔であった」


「……そう、でしたか」

葵が静かに呟く。


表情は穏やかだが、その瞳には涙が浮かんでいた。

「松雲様……ありがとうございます」

葵が深く頭を下げる。

「真実を……教えてくださって」

葵の声が震える。


「やっと……自分が何者か、わかりました」

二人は並んで、月を見上げた。

その光だけが、すべてを優しく包み込んでいた。


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