第三章 其ノニ 松雲の告白―時を超える願い

ーー過去、松雲のもとへ


それから、葵は松雲に引き取られた。

「……松雲様」

葵が、小さな声で呼ぶ。


「何だ、葵」

松雲が、優しく答える。


「私は……これからどうすれば良いでしょうか」


「……生きるのだ」

松雲が、葵の頭を撫でる。


「お前の母上が望んだように」

「強く、優しく、生きるのだ」


葵が、こくりと頷く。

「はい……」


松雲は、葵を抱きしめた。

(この子は……私が守らねばならない)

(私が、この子を連れてきたのだから)

(……たとえ、本当に徳川の血を引いているのか

分からなくとも)



その後、徳川綱吉が将軍宣下を受け、江戸城へ入城した。

その列の後ろを行く籠の中に、葵の姿があった。


お玉の方——新しき将軍の母が、葵を引き取ったのだ。


松雲は遠くからその列を見送りながら、静かに呟いた。

「葵……どうか、生き抜いておくれ」


* * *


ーー現在、澄月庵


それから、長い年月が流れた——

葵は、縁側に座り、月を見上げていた。


「葵様」

紗江の声がした。


振り向くと、紗江が立っていた。


「どうした、紗江」


「あの……お月様、綺麗ですね。ご一緒してよろしいですか」

紗江が隣に座る。


「ああ」

葵が微笑む。


「葵様は……何か、悩み事ですか?」


「……いや」

葵が首を振る。


「ただ、少し考え事をしていただけだ」

「そうですか……」

紗江が月を見上げる。


葵が紗江の手にそっと自分の手を添えた。


「俺は、お前に会えて良かった」


紗江の頬が、ほんのり染まる。

「わ、私も……葵様に会えて、良かったです」


二人、静かに月を見上げる。

風が吹き、桜の花びらが舞った。


(母上……)

葵が心の中で呟く。

(私は、生きています)

(そして今、大切な人に出会いました)


月明かりが、二人を優しく照らしていた。

その光は、遠い過去と現在を——静かに繋いでいた。




――松雲の葛藤


松雲は決心した。

(……葵に、全てを話さねばならない)

(禁呪で葵を未来から呼び寄せたのは……私なのだと)

(……言わねばならない)

(だが……)


松雲の手が震える。

(言えば、全てが……変わってしまう)

(今まで築いてきた関係が……)


松雲は、目を閉じた。


幼い葵を初めて抱きしめた日。

葵が初めて「師匠」と呼んでくれた日。

葵が剣を習い始めた日。

葵が笑った日、泣いた日、怒った日。


全ての記憶が、走馬灯のように蘇る。


(可愛い葵……)

松雲の胸が締め付けられる。


(葵にとって私は、憎むべき相手)

(お前を、この時代に導いてしまった張本人だ)

(お前の人生を……奪った者)


松雲は、拳を握りしめた。


毎日、毎日、松雲は葛藤した。

部屋に籠り、経を読んでも、心は晴れない。

庭で座禅を組んでも、心は乱れたまま。


杏が、心配そうに松雲の肩に乗る。


「……杏」

「私は……どうすればいい」


杏はとても優しい声で

「松雲様は、自分の事より葵様を大切に

して来ました。葵様は分かってくださいます……きっと」



――告白の夜


満月が昇る夜。

松雲は、ついに決意した。


(……これ以上、逃げるわけにはいかない)

(葵には、真実を知る権利がある)

松雲が、澄月庵に向かう。 


足が重い。

一歩一歩が、まるで鉛のように重い。


門の前で、松雲は深呼吸をした。


「……葵、いるか」

松雲が声をかける。


「松雲様?」

葵が顔を出す。


「どうされました? こんな夜更けに」


「……夜分にすまぬが……話を聞いてくれるか」


松雲の暗い表情を見て、葵が顔を曇らせる。

「……分かりました」


二人は、澄月庵の縁側に座った。



――月明かりの下


「……葵」

松雲が口を開く。


「お前に、話しておかねばならないことがある」


「はい」


「それは……お前の、生い立ちについてだ」

葵の表情が変わる。


「……生い立ち?」


「ああ」

松雲が目を伏せる。


「お前は……この時代の人間ではない」


「……?」

葵が首を傾げる。

「どういう……意味ですか?」


松雲が、ゆっくりと語り始めた。



ーー真実の告白


「お前は、遠い未来から来た」


「未来……?」


「……お前が三歳ほどだった頃」

松雲が、あの日のことを語る。


お楽の方様の願い。


禁呪の発動。


光の渦の中から現れた、幼い葵。


葵は、黙って聞いていた。

表情が、徐々に硬くなっていく。


「つまり……」

葵が、震える声で言う。


「私は……未来から、松雲様の禁呪によって

連れてこられた……?」


「……そうだ」


松雲が頷く。

「すまない」


松雲の目から涙が流れた。


葵が、立ち上がる。


「松雲様は、松雲様だけは私の辛さをわかって

くれていると信じて……

本当の父上のように慕って参りました……」


葵の言葉が途切れる。


頭の中で、様々な記憶が渦巻いた。


優しく頭を撫でてくれた松雲の手。

剣を教えてくれた日々。

共に過ごした、穏やかな時間。


——全てが、嘘


「私が……未来から来たことを、知っていたと!? 呼び寄せたのは……松雲様だとおっしゃるのか!?」



葵の口から、乾いた笑い声が漏れた。

「はは……ははは……」

その頬には絶え間なく涙が流れていた。


松雲は、何も言えなかった。

ただ深く頭を下げ、松雲もまた涙を流していた。


「……すまない」

松雲の声が、震える。


葵の膝から、力が抜けた。

その場に、座り込んだ。


「……嘘だ」

葵が呟く。


「嘘だと言ってください、松雲様」


「私は……いったい……何なんですか……」

葵の目から、涙がこぼれた。


葵が、両手で顔を覆う。


松雲は、その姿を見つめることしかできなかった。

(葵……)

(すまない……)

(本当に……すまない……)


長い沈黙

どれくらい時間が経ったのか。


葵は、ずっと座り込んだままだった。


松雲も、ずっと頭を下げたままだった。


やがて、葵が顔を上げた。

目は赤く腫れ、涙の跡が残っている。


「……また、来る」

松雲は小さく呟いて、立ち上がった。


振り返ることなく、そっとその場を去って行った。



その背中が、小さく、儚く見えた。


葵は、ただ一人残された。

月明かりの中で、深く頭を下げたまま――。



ーー数日後、葵の様子


それから、葵は部屋から出てこなくなった。

食事も、ほとんど手をつけない。

誰とも話さない。


ただ、ずっと部屋で座っているだけ。

松雲は、毎日葵の部屋の前まで来ては、声をかけようとした。

だが、言葉が出ない。

(何を言えばいい)

(何を言っても、葵の傷は癒えない)

松雲は、自分の無力さを痛感した。


事情を知らない蓮や無刄も、心配していた。

「葵様、どうしたんだろ……」

蓮が呟く。

「……分からない」

無刄が答える。

「今は、そっとしておくべきだろう」


紗江も、葵のことが気がかりだった。

(葵様……)

紗江は、松雲に話を聞きに行くことにした。



――紗江に語る真実


「松雲様」

紗江が、松雲の部屋を訪ねた。


「……紗江殿か」

松雲が、疲れた顔で紗江を見る。


「葵様のこと……何かあったんですか?」

紗江が尋ねる。

「葵様、ずっと部屋から出ていらっしゃらなくて……」


松雲は、しばらく黙っていた。

やがて、重い口を開いた。

「……あなたには、話しておこう」


「……なんでしょう?」

「葵の……本当のことを」

松雲が、全てを語り始めた。


お楽の方の願い。

禁呪のこと。

葵が未来から来たこと。

そして、それを葵に告げたこと。


紗江は、言葉を失った。

「そんな……」


紗江の目が、大きく見開かれる。

「葵様が……未来から……?」


「ああ」

松雲が頷く。


「……私が葵を、この時代に連れてきたのだ」

「葵の人生を……奪った」


紗江が、松雲を見つめる。

「松雲様……」


「私は……葵に、何と言えばいいのか分からない」

松雲の声が、震える。


「許しを乞うたところで、許されるはずがない」

「だが……」

松雲が、顔を覆う。


「葵には、知る権利があると」

「だから、私は真実を告げた」

「それで……葵は、あれほど苦しんでいるのだ」


紗江は、松雲の肩に手を置いた。

「松雲様……」

「松雲様は……間違っていません」


「……」


「真実を告げたことは、正しかったと思います」

紗江が、優しく微笑む。


「確かに、葵様は今、苦しんでいます」

「でも……それは、知らないままでいるより、ずっといい」

「真実を知って、その上で生きる」

「それが……本当の人生だと思います」


松雲が、紗江を見つめた。

「……紗江殿」


「私は……葵様のところへ行ってきます」

紗江が立ち上がる。


「え……」


「葵様を、一人にしておけません」

紗江が、決意を込めた目で言う。


「同じ未来から来た者として……何か、力になれるかもしれません」

紗江が、部屋を出ていく。


松雲は、その背中を見送った。



松雲は立ち上がった。

紗江の後ろ姿が見えなくなると、松雲は小さく呟いた。


「紗江殿……もう一つ、お頼みしたいことがある」


松雲の目に、決意の光が宿っていた。


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